在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター 「未来への架け橋」 NO.97 (2025.2.9発行) |
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判決報告集会で参加者への |
ノー!ハプサ第2次訴訟 |
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1・17という運命の日に (古川)
戦後初の大都市災害ということもあり、地震発生直後から神戸市内部では多くの人権侵害があった。神戸市職員として許せない事案もあり、私たちは組合活動として問題提起を行っていた。長田区の南駒栄公園には日本人、ベトナム人のテント村ができており、生活保護を受けている人たちもいた。当時避難所に入っていると「衣食住」が満たされるという理由で生活保護を打ち切るという方針が出され、あまりにひどいということでTV取材も来ていたのがこの公園だった。そこで戦後50年の平和集会を企画し、招待されたのがヒジャさんだった。映画「あんにょん・サヨナラ」で描かれたが、私とヒジャさんとの運命的な出会いだった。あれから30年目の1・17にノーハプサ最高裁判決と聞き、東京行きを決めた。 自然災害と戦災 私には自然災害と戦争災害には共通点があり、解決するキーワードも同じだと感じている。生活再建への道のりに国家が冷淡であることと、日本国民が「我慢強い」点だ。昨年末ノーベル平和賞の授賞式で日本被団協の田中さんがスピーチで「何十万人という死者に対する補償はまったくなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。」と語った。「戦争損害は国民が等しく受忍しなければならない」という「受忍論」で戦争被害者の要求に背を向けてきた日本国。一方で軍人軍属だけは戦傷病者戦没者遺族等援護法で(靖国合祀とセットで)手厚く補償を行ってきた。 私は昨年6月に能登地震で被害を受けた珠洲町にボランティアに行った。そこは津波の被害も受けおり悲惨な状況だった。集落全体の古い家屋が倒壊していた。阪神大震災での最大の教訓「生命を守るために家の倒壊を防ぐ」という教訓は全く生かされていなかった。倒壊さえしなければ「圧死」も「焼死」も免れる。補強工事さえすればよいだけなのにこの国は30年間何をしてきたのか?劣悪な環境の避難所や仮設住宅の遅れも30年前と変わらないままだ。同じ昨年台湾で地震があり、発生日中には手厚い避難所が準備されたと聞いて恥ずかしい気持ちになった。 遅々として進まない国の防災対策の一方で、被災市民の力で勝ち取った成果もある。その代表が「被災者生活再建支援法」である。阪神大震災の被災市民が立ち上がり議員立法で成立させた。それまで自然災害の生活再建は「義援金」頼みだったものを根本から変えた画期的な成果だ。これまで被災者の「我慢強さ」の上に国家はあぐらをかいてきた。一方で国民意識に「新型コロナ」で話題になった「同調圧力」があり、変化にブレーキをかけていることも感じる。国家に対してストレートに批判することと、あきらめずに声を上げ続けること。自然災害も戦災も、それが未来への懸け橋になると考えながら東京に向かった。 最高裁判決で反対意見が
「判決を言い渡します。主文・・・」いつもなら20秒ほどで踵を返すように裁判官がいなくなるのだが、この日は違った。岡村裁判長は主文に加え、「事案の重要性に鑑みて」として、判決の要旨を朗読した。そして「補足意見と反対意見が付されている」と続けた。「やった!」内心そう思った。GUNGUN裁判提訴から四半世紀。裁判官から反対意見を聞くことなど、これまで一度もなかっただけに、内容はわからなくても、何か大きなことが起こっていると直感した。そして裁判所の敷地外に出て抗議集会。井堀弁護士から三浦裁判官の反対意見の内容報告を受けた。のちに判決文の写しをもらったが、そこには今までの「やってもやっても敗訴」を打ち砕く、「御用裁判」を一刀両断する文言が書かれてあった。 中でも感動したのは、次の下り。「朝鮮出身の戦没者を合祀の対象とすることについても 、被上告人が、主導的、中心的に、靖國神社と一体として、これを推進したことを前提にすると、本件情報提供行為と本件各合祀行為等も、上記目的の実現のため不可分一体の関係にあると評価することができる。そうすると、上告人らが本件各被合祀者を敬愛追慕する上で平穏な精神生活を維持する人格的利益は、現在も、本件情報提供行為と不可分一体の行為により 侵害が継続し損害が生じてぃるとみる余地がある。(略)このような場合に法益の侵害と損害の発生を待たずに 除斥期間の進行を認めることは、被害者にとって著しく酷であり、不合理である。」要するに「被害は現在も継続している」から「除斥の適用は不合理だ」と。ようやく私たちの主張が認められた、そう感じた。
午後からは、孫世代の新訴訟の原告予定者の朴善Y(パクソニョプ)さん、浅野弁護士たちと一緒に靖國神社へ行った。遊就館を見学したのち社務所へ。当初対応した神社関係者は「聞いてくる」といなくなり、残ったのは公安警察と警備員のみ。警備員は「神社側は会わないと言っている」と終始した。遺族を前に失礼な話である。朴さんからは「祖父は『中原憲泰』ではない、朴憲泰(パクホンテ)だ」と創氏名で合祀を続ける國神社に強く抗議した。金英丸さんからも「日本の遺族でも同じ対応をするのか」と抗議した。 今後「孫世代」の新訴訟へ 報告集会では、李熙子(イヒジャ)さんから「除斥などとんでもない。父の死を知らず闘いの中で知った。反対意見を聞きながら、あきらめずに闘い続けてきた意味を感じていた。感動した。子どもの道理を尽くすために闘ってきた。生存者が決してあきらめるなと応援してくれ、大きな力になった。ともに闘ってくれたからここまでこれた。今後平和な世の中を作るためにも日本は謝罪してほしい。希望をもって生きていきたい。訴訟を通じて記録を残すことが勝つことだと思っている。闘ってきた結果だと嬉しく思う。このタオルはそういう意味を込めて皆さんに贈りたい。」と参加者にタオルをプレゼントしてくれた。 今後、被害者の「孫世代」が新たな「靖国合祀絶止訴訟」を日本で継続し、さらに韓国内で軍人軍属裁判の要求内容で新たな提訴を行う予定と聞く。過去の冤罪事件や優生保護法での誤った政策による人権侵害が最近断罪されてきているが、この靖国合祀でもいつの日か断罪される日が来る。そう希望を持った一日だった。
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韓国人遺骨問題の到達点と
現在に至り、長生炭鉱の問題はマスコミで頻繁に扱われている。長生炭鉱の坑口が開くと同時にマスコミの良心のふたも開いた。報道は映像を求めピーヤの潜水調査を撮る。行政と土地問題で交渉中の坑口付近の清掃活動が世論を確かめるように恐る恐る報道される。それは地域の人々の良心を映し出す。工事の開始を撮り坑道が開いた瞬間を報道する。政府がやらなくてもタブーなどものともせずに市民団体の1200万円にも及ぶ募金が集まっていることを工事の映像が映し出す。狭い坑道の出現は、説明はしなくても映像としてその強制労働のおぞましさを全国に伝える。坑口の前の遺族の祭事を映し出す、昔のことではなく今も植民地支配で苦しむ人たちがいることが伝わっていく。開いた坑口へのチャレンジングな潜水調査を取材に来る。それは政府がやらない中で日本人の良心や人道主義の勇気を映し出す。そして2025年1月31日から2月2日の潜水調査では遺骨が収容されるその場面を全国に映像として伝えるだろう。報道も一緒に植民地支配の加害責任問題のタブーに闘い始めている。「新しい方法」は社会を変えつつある。 しかし私は「新しい方法」のためだけに取り組んでいるのではない。2023年12月8日ご遺族が初めて参加する東京での政府交渉は120名が参加大きく成功し現在の運動発展の契機となった。私はその夜はじめてご遺族とお酒を酌み交わすことになる。自分にとって遺族とお酒を酌み交わすことは政府交渉なみに大きな意味合いがあるだろうと思っていた。楊会長はじめとした長生炭鉱ご遺族のために最後まで闘う約束をした。人情としつこさだけが取り柄の私がご遺族との約束を破ることはないだろう。遺骨問題とは何か?人が死ぬだけでも家族にとって大変なことだ。それも植民地支配の理不尽な扱いによって、さらに亡くなって遺骸も帰らない。理不尽の上に理不尽を重ねている。ご遺族の苦しみの声を聴けば黙っておれない。 最後に第2次クラウドファンデングがあと2月15日迄。これを成功させねばならない。 インターネットで for Good!で検索、もしくは長生炭鉱の「水非常」を歴史に刻む会のHPにゆうちょ振り込みもご案内しています。 |
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ソウルでの「ミニ・トーク交流会」に参加して (塚本)
グングン裁判の原告は414名にのぼる。私が忘れることのできない原告の一人はイム・ソウンさんだ。04年12月5日から6日にかけて舞鶴へお連れした時の数枚の写真が映しだされる。ソウンさんの父マンボクさんは、「本土決戦」に備える地下壕建設のために青森県大湊に動員されて働かされていた。日本が敗戦し「浮島丸」に乗って帰国する途中、8月24日舞鶴湾で船が爆沈して死亡。その後靖国神社に合祀された。私たちはイム・ソウンさんを舞鶴へお連れした。浮島丸殉難者追悼の碑の前で供養を行ってから沈没現場に船で向かった。ソウンさんは海に花を投げこみ、「アボジー!アボジー!娘が来ましたよー!」と叫ぶ。3歳で父を亡くしたソウンさんは孤児同然の暮らしで学校に通うこともできなかったが、50歳を過ぎてから文字を覚えた。この日彼女は3日後に控える口頭弁論のために、陳述書の文字をなぞりながら読み上げて一生懸命に練習していた。今もその必死な姿が思い起こされる。それから5年後の2009年、ソウンさんは脳内出血のために急逝された。事件の真相究明や遺骨返還も放置し、靖国合祀はするという理不尽さへの怒りをかかえたまま、父の無念を晴らすことができずに他界したのだ。 全国に広がった「あんにょん・サヨナラ」上映運動 05年に完成した日韓共同ドキュメンタリー「あんにょん・サヨナラ」は、靖国合祀の不条理を描きながら、加害国と被害国の壁を超えた心のつながりをつくりだした作品だ。3分間紹介ビデオと数枚の写真が映しだされた。東京「ポレポレ東中野」と大阪「シネ・ヌーヴォ」の劇場公開から上映が始まったが、学生が大学で、平和人権市民団体が地域で、大学教員が授業でと、全国各地にどんどん自主上映運動が広がったことを説明した。上映委員会事務局に携わっていた私は、各地の上映会で集めた感想文を持参して、トークの中で博物館に寄贈させていただいた。 上映回数が減ったとはいえ、今でも「あんにょん・サヨナラ」は生きている。最近、4か国版DVDを購入した大学教員からメールが届いた。「私は10年間以上、学生たちにこのDVDを見せたり、日韓大学生が一緒に見て討論したり、お互いの感想文を交換したりしながら、かなり活用させていただいています。日韓学生がこのDVDを見て、感想文を交換すると、互いに不愉快になりぎくしゃくもしながらも互いの痛みや気持ちに寄り添おうとするところも生じてきて、ほんの少人数のほんの少しの変化を期待しながら愛用してきました」と。25年は「あんにょん・サヨナラ」完成から20年の節目を迎えるが、映画の意義は今も変わらない。ヒジャさんたちの手により第3次の靖国合祀取り消し訴訟が準備されているなかで、この映画をどのように生かすことができるか追求していきたいと思う。 ヒジャさんの思いを共有した「キムチ教室」
木村さんが思い出を語る。前日木村さんの自宅にスタッフが泊まり込んで準備をした。ヒジャさんに教えてもらいながら一晩かけて白菜を塩漬けにし、材料の野菜類をひたすら刻む。私たち男性陣も、指が痛い痛いと言いながらニンニクをつぶした。天日干しの唐辛子など日本で得られないものは韓国から届けられた。ヒジャさんの食に対する姿勢、ていねいな姿勢を身をもって学ぶ取り組みだった。作ったキムチは私たちの職場や友人などに販売。古川さんは職場の同僚に宣伝し、いつもたくさんの予約を受け付けていたという。 今回の訪韓で「次はチャプチェ教室をやろう!」という案が浮上した。ヒジャさんと一緒に「おいしい交流」をぜひ実現したいと強く思う。 裁判支援を始めたきっかけを問われて
もう一つの質問は、運動をしていて、しんどかったことは何か?というもの。難しかったことは高校教員という仕事の制約のため思い通りに休暇をとって運動に参加することができないということだけだった。それよりも良かったことがある。幾人もの在日コリアンの生徒と出会うなかで、日本の植民地支配の歴史と差別の現実を勉強するようになったことが、私にとっての大きな財産だ。またこのニュースレター第2号から第38号にわたって「たまちゃんのハングル講座」を連載したが、担当の「たまちゃん」は私の教え子だ。韓国の大学を卒業した彼女は、日本で韓国でグングン裁判にかかわる通訳や翻訳で大活躍してくれた。 元気でいてくださいチェ・ナックンさん
私たちが座っていた後ろの壁一面には300名ほどの被害者と遺族の肖像写真が並べられていた。グングン裁判の原告のほかノー!ハプサ、日鉄、三菱、不二越の各裁判の原告たちであり、一枚一枚に苦しみ、悲しみ、怒りの歴史が刻みこまれている。その写真を見ていると、他界された原告の顔が目に飛び込んできた。ブーゲンビルの激戦を生き抜いたキム・ヘンジンさん、シベリアに抑留されたイ・ビョンジュさん、浮島丸事件の遺族イム・ソウンさん、お父さんがニューギニアで戦死されたコ・イニョンさん、ニューギニアでお兄さんが戦死されたナム・ヨンジュさん、お父さんが沖縄戦で亡くなったクォン・スチョンさん。直接お会いして、行動を共にした方たちだ。日本政府は、都合の悪い歴史を闇に葬り去り、被害者・遺族が諦めること、そしてこの世から消えるのを待っているのだろうか。許せない。 この日のミニ・トーク交流会は2時から4時までの予定を大きくオーバーし、閉会は5時をまわっていた。会場を出たところで、日本からの2人の交換留学生とノルウェイ出身で日本と韓国で研究している大学院生が紹介された。日本に、世界に、学んだことを発信してくれるようにお願いした。交流会とインタビューをとおして、強制動員被害者と共に歩いた20年あまりの歴史を振りかえることができた。「遺骨と記録に解決済みはない。ここで歩みは終わらない、諦めるわけにはいかない」と改めて思う。「種をまき、芽が出て、実がなる」というヒジャさんの言葉が実現するよう、私たちも力を尽くしていきたい。 |
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江華島から春川へ -2024.7.7-
(木村)
碑の横には 東屋が建てられ、その周りにナツメ、スモモ、ハマナス、梅、柿、小菊、桔梗、鶏頭等の草花も植えられている。家族で集まる場になっていると話された。私たちも東屋で甜瓜とミニトマトをいただいた。その後ヒジャさんお勧めの店で江華島の野菜と魚の美味しいお昼を頂き春川へ。 春川では洪英淑さんが待っていてくださり、金景錫さんのお墓へ案内してもらった。久しぶりのお墓参りだった。お酒を供え、一人ずつお参りした。納骨堂があったころ、皆で草刈りをして お参りしたこと。地域のサッカーチームとグングンスタッフと参加した若者で試合をした思い出など次々に思い出される。金景錫さんの「ヨクキタネ」という野太い声が聞こえてくるようだった。その後洪さんと夕食を共にして短い時間だったが、久しぶりに顔を合わせて話ができたのは嬉しいひと時だった。ソウルに到着したのは夜。車の移動の間だけが雨という不思議な旅だった。
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