在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター

「未来への架け橋」 NO.97 (2025.2.9発行)

 

判決報告集会で参加者への
プレゼント「YASUKUNI NO!」タオルを
手に思いを語る李熙子さん
右は朴南順さん
(2025年1月17日 東京)

ノー!ハプサ第2次訴訟
最高裁「除斥」認定の不当判決ながら
画期的な「反対意見」!

 2025年1月17日、ノーハプサ第2次訴訟の最高裁判決がありました。判決は、1959年に合祀されてから20年の除斥期間を経過しているとして上告棄却という、不当極まりない御用判決でした。しかし今回はここからが違うのです。4人の裁判官うち、三浦守裁判官による「反対意見」があったのです。その内容は原告の心情に寄り添う、原判決を一刀両断にする内容だったのです。中でも感動したのは、次の下りです。
 「朝鮮出身の戦没者を合祀の対象とすることについても 、被上告人が、主導的、中心的に、靖國神社と一体として、これを推進したことを前提にすると、本件情報提供行為と本件各合祀行為等も、上記目的の実現のため不可分一体の関係にあると評価することができる。そうすると、上告人らが本件各被合祀者を敬愛追慕する上で平穏な精神生活を維持する人格的利益は、現在も、本件情報提供行為と不可分一体の行為により 侵害が継続し損害が生じてぃるとみる余地がある。(略)このような場合に法益の侵害と損害の発生を待たずに 除斥期間の進行を認めることは、被害者にとって著しく酷であり、不合理である。」
 要するに「被害は現在も継続している」から「除斥の適用は不合理だ」と言っているのです。今回の判決は今後に大きな希望を残しました。それは被害者の「孫世代」が新たな「靖国合祀絶止訴訟」を日本で継続し、さらに韓国内で軍人軍属裁判の要求内容で新たな提訴を行う予定だということです。2001年GUNGUN提訴から四半世紀かかりましたが、ようやく今回の三浦意見を勝ち取りました。継続の勝利です。今後も「靖国合祀」「遺骨調査・返還」「記録調査」など要求実現に向けて支援していきましょう!

     ⇒ 最高裁判決文(三浦守裁判官の「反対意見」を含む)
     ⇒ 朝日新聞社説(1月28日)  東京新聞社説(2月6日)

1・17という運命の日に (古川)

 1・17阪神大震災から30年の朝、神戸三宮の東遊園地の追悼行事に後ろ髪をひかれながら空港に急いだ。30年前の朝の記憶は昨日のことのように残っている。関西には大きな地震がないと信じ込んでいただけに、揺れの中で地震と気づくまでに時間がかかった。自宅は神戸駅の近くだったので建物は被害を受けたが倒壊は免れた。妻の実家が長田だったので、安否確認のために行った。高速道路が不通で国道もあまり車は走っていなかった。長田
 
30年前のイヒジャさん  
の国道に車を置いてJRまでの間のアパートは多くが1階が押しつぶされていた。意外だったのは生存者が静かだったことだ。皆が茫然としていた。義父母宅もなんとか建っており無事で、以降一時的に避難生活を送った。線路の北東側は火災が発生し静かに燃えていた。TVからは東京や大阪からの情報だけで、一番知りたい近くの情報は入ってこず、外はずっと取材ヘリの騒音だった。そのまま夜を迎え、19時のニュースでは火災の映像を報じたアナウンサーが絶句、泣き崩れたのを覚えている。
 戦後初の大都市災害ということもあり、地震発生直後から神戸市内部では多くの人権侵害があった。神戸市職員として許せない事案もあり、私たちは組合活動として問題提起を行っていた。長田区の南駒栄公園には日本人、ベトナム人のテント村ができており、生活保護を受けている人たちもいた。当時避難所に入っていると「衣食住」が満たされるという理由で生活保護を打ち切るという方針が出され、あまりにひどいということでTV取材も来ていたのがこの公園だった。そこで戦後50年の平和集会を企画し、招待されたのがヒジャさんだった。映画「あんにょん・サヨナラ」で描かれたが、私とヒジャさんとの運命的な出会いだった。あれから30年目の1・17にノーハプサ最高裁判決と聞き、東京行きを決めた。

自然災害と戦災

 私には自然災害と戦争災害には共通点があり、解決するキーワードも同じだと感じている。生活再建への道のりに国家が冷淡であることと、日本国民が「我慢強い」点だ。昨年末ノーベル平和賞の授賞式で日本被団協の田中さんがスピーチで「何十万人という死者に対する補償はまったくなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。」と語った。「戦争損害は国民が等しく受忍しなければならない」という「受忍論」で戦争被害者の要求に背を向けてきた日本国。一方で軍人軍属だけは戦傷病者戦没者遺族等援護法で(靖国合祀とセットで)手厚く補償を行ってきた。
 私は昨年6月に能登地震で被害を受けた珠洲町にボランティアに行った。そこは津波の被害も受けおり悲惨な状況だった。集落全体の古い家屋が倒壊していた。阪神大震災での最大の教訓「生命を守るために家の倒壊を防ぐ」という教訓は全く生かされていなかった。倒壊さえしなければ「圧死」も「焼死」も免れる。補強工事さえすればよいだけなのにこの国は30年間何をしてきたのか?劣悪な環境の避難所や仮設住宅の遅れも30年前と変わらないままだ。同じ昨年台湾で地震があり、発生日中には手厚い避難所が準備されたと聞いて恥ずかしい気持ちになった。
 遅々として進まない国の防災対策の一方で、被災市民の力で勝ち取った成果もある。その代表が「被災者生活再建支援法」である。阪神大震災の被災市民が立ち上がり議員立法で成立させた。それまで自然災害の生活再建は「義援金」頼みだったものを根本から変えた画期的な成果だ。これまで被災者の「我慢強さ」の上に国家はあぐらをかいてきた。一方で国民意識に「新型コロナ」で話題になった「同調圧力」があり、変化にブレーキをかけていることも感じる。国家に対してストレートに批判することと、あきらめずに声を上げ続けること。自然災害も戦災も、それが未来への懸け橋になると考えながら東京に向かった。

最高裁判決で反対意見が

 
  最高裁の前で横断幕を掲げ
 今回、最高裁の建物に入るのは初めてだった。9時前に到着したが誰もいなかったので、国立劇場や皇居の堀を見物して戻ってみると列ができていた。傍聴券が当選するか心配だったが、希望者が締め切り時にほぼ同数だったため、希望者全員が傍聴できた。中は階段の多いこと。バリアフリーと縁遠い昭和の立派な建物だった。またもや階段で小法廷へ。入ると地裁高裁の部屋より高級感漂う設えの部屋。いよいよ時間が来て裁判官が入廷。いつもどおり起立はしない。
 「判決を言い渡します。主文・・・」いつもなら20秒ほどで踵を返すように裁判官がいなくなるのだが、この日は違った。岡村裁判長は主文に加え、「事案の重要性に鑑みて」として、判決の要旨を朗読した。そして「補足意見と反対意見が付されている」と続けた。「やった!」内心そう思った。GUNGUN裁判提訴から四半世紀。裁判官から反対意見を聞くことなど、これまで一度もなかっただけに、内容はわからなくても、何か大きなことが起こっていると直感した。そして裁判所の敷地外に出て抗議集会。井堀弁護士から三浦裁判官の反対意見の内容報告を受けた。のちに判決文の写しをもらったが、そこには今までの「やってもやっても敗訴」を打ち砕く、「御用裁判」を一刀両断する文言が書かれてあった。
 中でも感動したのは、次の下り。「朝鮮出身の戦没者を合祀の対象とすることについても 、被上告人が、主導的、中心的に、靖國神社と一体として、これを推進したことを前提にすると、本件情報提供行為と本件各合祀行為等も、上記目的の実現のため不可分一体の関係にあると評価することができる。そうすると、上告人らが本件各被合祀者を敬愛追慕する上で平穏な精神生活を維持する人格的利益は、現在も、本件情報提供行為と不可分一体の行為により 侵害が継続し損害が生じてぃるとみる余地がある。(略)このような場合に法益の侵害と損害の発生を待たずに 除斥期間の進行を認めることは、被害者にとって著しく酷であり、不合理である。」要するに「被害は現在も継続している」から「除斥の適用は不合理だ」と。ようやく私たちの主張が認められた、そう感じた。

 
  靖國神社に抗議する朴さん
孫世代の朴善Yさんが國へ

 午後からは、孫世代の新訴訟の原告予定者の朴善Y(パクソニョプ)さん、浅野弁護士たちと一緒に靖國神社へ行った。遊就館を見学したのち社務所へ。当初対応した神社関係者は「聞いてくる」といなくなり、残ったのは公安警察と警備員のみ。警備員は「神社側は会わないと言っている」と終始した。遺族を前に失礼な話である。朴さんからは「祖父は『中原憲泰』ではない、朴憲泰(パクホンテ)だ」と創氏名で合祀を続ける國神社に強く抗議した。金英丸さんからも「日本の遺族でも同じ対応をするのか」と抗議した。

今後「孫世代」の新訴訟へ

 報告集会では、李熙子(イヒジャ)さんから「除斥などとんでもない。父の死を知らず闘いの中で知った。反対意見を聞きながら、あきらめずに闘い続けてきた意味を感じていた。感動した。子どもの道理を尽くすために闘ってきた。生存者が決してあきらめるなと応援してくれ、大きな力になった。ともに闘ってくれたからここまでこれた。今後平和な世の中を作るためにも日本は謝罪してほしい。希望をもって生きていきたい。訴訟を通じて記録を残すことが勝つことだと思っている。闘ってきた結果だと嬉しく思う。このタオルはそういう意味を込めて皆さんに贈りたい。」と参加者にタオルをプレゼントしてくれた。
 今後、被害者の「孫世代」が新たな「靖国合祀絶止訴訟」を日本で継続し、さらに韓国内で軍人軍属裁判の要求内容で新たな提訴を行う予定と聞く。過去の冤罪事件や優生保護法での誤った政策による人権侵害が最近断罪されてきているが、この靖国合祀でもいつの日か断罪される日が来る。そう希望を持った一日だった。

報告集会で李熙子さん プレゼントのタオルを掲げて 翌日ホテルで見送り

韓国人遺骨問題の到達点と
      今後の展望について

                      長生炭鉱の「水非常」を歴史に刻む会 上田
 
 韓国人戦没者遺族のDNA鑑定が行き詰まっていた頃、太平洋戦争補償推進協議会のイヒジャさんから直近の政府交渉の後、動かない日本政府に「何か違う他の新しい方法を考えないと・・・」という話が出た。その時お互い答えは出なかった。行き詰まりの要因は、韓国人戦没者の遺骨を遺族に返すという課題が大衆的に日本の解決すべき課題としてなっていない事だ。実際に交渉課題である沖縄南部土砂のことは大きく報道されても、同じ場で行う韓国人戦没者のことは報道されない。植民地支配の遺骨問題はタブーであり、報道もされず国民の関心も生まれないので政府は無視できる。これは安倍首相の2015年12月の「次世代に謝罪する宿命を背負わせない」発言を受けての徹底した歴史修正主義の浸透、報道統制と続いている自主規制、交渉での対応は行政側の忖度に加えて政治的圧力によるものだ。
 長生炭鉱のことを本格的に始めた理由は、直接的には長生炭鉱の会から協力の依頼があったからなのだが、長生炭鉱の遺骨問題解決は、政府との膠着状況を変えることができるかもしれないという考えが浮かんだ。今も残るピーヤの現場や開けた坑口が映像になるからだ。2本のピーヤ、坑口を開ける、その映像を人々が見たとき、植民地支配の現実を知り関心が一挙にひろがりタブーが消えていくと思えた。その国内の関心が政府との韓国人遺族のDNA鑑定照合に立ちはだかる政府との力関係を変える「新しい方法」になると思えたのだ。この私の考えは長生炭鉱の会の皆さんにも話している。
長生炭鉱の坑口(会HPより)

 現在に至り、長生炭鉱の問題はマスコミで頻繁に扱われている。長生炭鉱の坑口が開くと同時にマスコミの良心のふたも開いた。報道は映像を求めピーヤの潜水調査を撮る。行政と土地問題で交渉中の坑口付近の清掃活動が世論を確かめるように恐る恐る報道される。それは地域の人々の良心を映し出す。工事の開始を撮り坑道が開いた瞬間を報道する。政府がやらなくてもタブーなどものともせずに市民団体の1200万円にも及ぶ募金が集まっていることを工事の映像が映し出す。狭い坑道の出現は、説明はしなくても映像としてその強制労働のおぞましさを全国に伝える。坑口の前の遺族の祭事を映し出す、昔のことではなく今も植民地支配で苦しむ人たちがいることが伝わっていく。開いた坑口へのチャレンジングな潜水調査を取材に来る。それは政府がやらない中で日本人の良心や人道主義の勇気を映し出す。そして2025年1月31日から2月2日の潜水調査では遺骨が収容されるその場面を全国に映像として伝えるだろう。報道も一緒に植民地支配の加害責任問題のタブーに闘い始めている。「新しい方法」は社会を変えつつある。
 しかし私は「新しい方法」のためだけに取り組んでいるのではない。2023年12月8日ご遺族が初めて参加する東京での政府交渉は120名が参加大きく成功し現在の運動発展の契機となった。私はその夜はじめてご遺族とお酒を酌み交わすことになる。自分にとって遺族とお酒を酌み交わすことは政府交渉なみに大きな意味合いがあるだろうと思っていた。楊会長はじめとした長生炭鉱ご遺族のために最後まで闘う約束をした。人情としつこさだけが取り柄の私がご遺族との約束を破ることはないだろう。遺骨問題とは何か?人が死ぬだけでも家族にとって大変なことだ。それも植民地支配の理不尽な扱いによって、さらに亡くなって遺骸も帰らない。理不尽の上に理不尽を重ねている。ご遺族の苦しみの声を聴けば黙っておれない。

 最後に第2次クラウドファンデングがあと2月15日迄。これを成功させねばならない。
 インターネットで for Good!で検索、もしくは長生炭鉱の「水非常」を歴史に刻む会のHPにゆうちょ振り込みもご案内しています。 

ソウルでの「ミニ・トーク交流会」に参加して (塚本)

 昨年7月6日(土)14時から、植民地歴史博物館1階ホールで「強制動員被害者運動記録写真展」のイベント「ミニ・トーク交流会」が開催された。私は「グングン裁判の要求実現を支援する会」の関西サポーターの一員として参加した。この交流会は、誰に何を伝えるためのものだったのか。参加者は30名ほどだったが、遺族の方々のほかに20代から30代の若いスタッフや青年・学生が多く集まっていた。これは、イ・ヒジャさんの「若い人たちが希望であり光である」という思いの表れにちがいない。
 キム・スンウン推進協執行委員長も挨拶で「被害者・遺族の粘り強い闘いの歩み、日韓市民の連帯の足跡を、記録写真と映像で残して伝え、『あの日』を記憶し、次につなげ、『その日』をつくるための交流会だ」と趣旨を説明された。この目的と趣旨に納得した私ではあったが、実はこのイベントへの参加にためらいを感じていた。最高裁でグングン裁判の上告が棄却された後も、遺骨の返還、被害者の記録探しなどの闘いが継続されていたにもかかわらず、古川さんや木村さんとちがって、私は10年あまりのあいだ持病やコロナで訪韓がかなわず、2018年にオープンした博物館にも来れずにいたからだ。交流会の前日、イ・ヒジャさんは私の顔を見るなり「会うのは何年ぶり?」と何度も尋ねられた。直接お会いするのは8年前の大阪以来だった。「8年ぶりです」と答える私の手を握り、再会を喜んでくれた。

「若い人たちが希望であり光である」

 はじめにイ・ヒジャさんが思いを語られた。「30年にわたる闘いの痕跡、記録を残してきた。『恨』」が多く、話したいことがたくさんあり、心の中で涙を流した」と振り返る。ヒジャさんの活動はなぜできたのか。「諦めるなと父が話してくれるかのようだった。父のいない子と言われないように、お父さんに恥ずかしくない娘として生きることにした」と。そして、「私のまいた種が実になった。大法院判決のように、諦めなければ勝つ」と。「誰が天皇のために死んだのか。ヤスクニに勝手に合祀し、日本政府だけが知って家族にも知らせない。容赦できない」。グングン裁判からノー!ハプサの2次訴訟へと闘いをつないできたヒジャさんは、今、3次訴訟を準備している。「私は三世に引き継ぎたい」「若い人たちが希望であり光である」と次世代への期待を表明した。 

イム・ソウンさんと舞鶴へ
 
  トークでの3人


 トークが始まった。大阪から参加した古川さん、木村さん、そして私は前に並んで座り、記録写真と映像を映してもらいながら話しを始めた。司会と同時通訳はキム・ヨンファンさんと野木香里さんのお二人だ。
 冒頭に映しだされた写真は、阪神淡路大震災のあった1995年にさかのぼったものだ。被災地に来られたイ・ヒジャさんと神戸市職員の古川さんが出会う。そこから2001年6月に始まるグングン裁判へとつながる。大阪での提訴ができず東京地裁への提訴となったため、法廷対策は東京で、支援の呼びかけや広報活動は関西で、という体制をとった。
 
イム・ソウンさんと04年舞鶴で  
 続いて、原告のみなさんと共にしてきた活動の足跡を写真と映像で振りかえっていった。 
 グングン裁判の原告は414名にのぼる。私が忘れることのできない原告の一人はイム・ソウンさんだ。04年12月5日から6日にかけて舞鶴へお連れした時の数枚の写真が映しだされる。ソウンさんの父マンボクさんは、「本土決戦」に備える地下壕建設のために青森県大湊に動員されて働かされていた。日本が敗戦し「浮島丸」に乗って帰国する途中、8月24日舞鶴湾で船が爆沈して死亡。その後靖国神社に合祀された。私たちはイム・ソウンさんを舞鶴へお連れした。浮島丸殉難者追悼の碑の前で供養を行ってから沈没現場に船で向かった。ソウンさんは海に花を投げこみ、「アボジー!アボジー!娘が来ましたよー!」と叫ぶ。3歳で父を亡くしたソウンさんは孤児同然の暮らしで学校に通うこともできなかったが、50歳を過ぎてから文字を覚えた。この日彼女は3日後に控える口頭弁論のために、陳述書の文字をなぞりながら読み上げて一生懸命に練習していた。今もその必死な姿が思い起こされる。それから5年後の2009年、ソウンさんは脳内出血のために急逝された。事件の真相究明や遺骨返還も放置し、靖国合祀はするという理不尽さへの怒りをかかえたまま、父の無念を晴らすことができずに他界したのだ。

全国に広がった「あんにょん・サヨナラ」上映運動
 
 05年に完成した日韓共同ドキュメンタリー「あんにょん・サヨナラ」は、靖国合祀の不条理を描きながら、加害国と被害国の壁を超えた心のつながりをつくりだした作品だ。3分間紹介ビデオと数枚の写真が映しだされた。東京「ポレポレ東中野」と大阪「シネ・ヌーヴォ」の劇場公開から上映が始まったが、学生が大学で、平和人権市民団体が地域で、大学教員が授業でと、全国各地にどんどん自主上映運動が広がったことを説明した。上映委員会事務局に携わっていた私は、各地の上映会で集めた感想文を持参して、トークの中で博物館に寄贈させていただいた。
 上映回数が減ったとはいえ、今でも「あんにょん・サヨナラ」は生きている。最近、4か国版DVDを購入した大学教員からメールが届いた。「私は10年間以上、学生たちにこのDVDを見せたり、日韓大学生が一緒に見て討論したり、お互いの感想文を交換したりしながら、かなり活用させていただいています。日韓学生がこのDVDを見て、感想文を交換すると、互いに不愉快になりぎくしゃくもしながらも互いの痛みや気持ちに寄り添おうとするところも生じてきて、ほんの少人数のほんの少しの変化を期待しながら愛用してきました」と。25年は「あんにょん・サヨナラ」完成から20年の節目を迎えるが、映画の意義は今も変わらない。ヒジャさんたちの手により第3次の靖国合祀取り消し訴訟が準備されているなかで、この映画をどのように生かすことができるか追求していきたいと思う。

ヒジャさんの思いを共有した「キムチ教室」

 
  2016年のキムチづくり
 次に「イ・ヒジャさんのキムチ教室」の写真が映しだされた。楽しみながらヒジャさんの思いを共有する場となったものだ。04年1月から08年2月までは毎年開催し、その後、16年4月にナム・ヨンジュさんも加わって開催することができた。毎回たくさんの人が集まり、キムチのほかにトッポギやタクチュクなども作ってワイワイ言いながら食した。ヒジャさんのお話を聞き、おいしい料理に舌鼓をうつ。この催しはいつも大盛況だった。
 木村さんが思い出を語る。前日木村さんの自宅にスタッフが泊まり込んで準備をした。ヒジャさんに教えてもらいながら一晩かけて白菜を塩漬けにし、材料の野菜類をひたすら刻む。私たち男性陣も、指が痛い痛いと言いながらニンニクをつぶした。天日干しの唐辛子など日本で得られないものは韓国から届けられた。ヒジャさんの食に対する姿勢、ていねいな姿勢を身をもって学ぶ取り組みだった。作ったキムチは私たちの職場や友人などに販売。古川さんは職場の同僚に宣伝し、いつもたくさんの予約を受け付けていたという。
 今回の訪韓で「次はチャプチェ教室をやろう!」という案が浮上した。ヒジャさんと一緒に「おいしい交流」をぜひ実現したいと強く思う。

裁判支援を始めたきっかけを問われて
 
 
  開会前にインタビューを受ける
 休憩ののち、私たち3人への質問と回答の時間。グングン裁判の支援運動を始めたきっかけは何か?と問われた。私は、いくつかの契機のうち一つだけ答えることにした。私の父は徴兵されて戦地に行ったが、マラリアに罹ったために日本に送り返され、マラリアは完治した。戦争が終わると日本政府は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」などの法をもとに、父への生涯にわたる経済的援助や国鉄(JRの前身)の無賃乗車などを約束した。この法制度による支出総額は50兆円にものぼるという。元気に社会生活を送っていたにもかかわらず父に対しては厚遇し、他方では韓国・朝鮮の被害者と遺族は外国人だとして、どんなに苦しみを強いられていても国籍条項によって排除した。この不条理、差別を放置したままでいいはずがない。この考えに突き動かされて支援活動を続けてきた。
 もう一つの質問は、運動をしていて、しんどかったことは何か?というもの。難しかったことは高校教員という仕事の制約のため思い通りに休暇をとって運動に参加することができないということだけだった。それよりも良かったことがある。幾人もの在日コリアンの生徒と出会うなかで、日本の植民地支配の歴史と差別の現実を勉強するようになったことが、私にとっての大きな財産だ。またこのニュースレター第2号から第38号にわたって「たまちゃんのハングル講座」を連載したが、担当の「たまちゃん」は私の教え子だ。韓国の大学を卒業した彼女は、日本で韓国でグングン裁判にかかわる通訳や翻訳で大活躍してくれた。

元気でいてくださいチェ・ナックンさん

 
  チェ・ナックンさんを真ん中に
 休憩時間にチェ・ナックンさんとお話しすることができた。グングン裁判の原告ではないが、私たちが韓国を訪れるときは必ずといっていいほど温かく迎えてくれたことが思い出された。体調がすぐれないと聞いていたので尋ねてみたら、「糖尿病のために短期間に20キロもやせてしまった」と言う。昔と変わらずスタイリッシュな白いスーツをまとってはいたが、頬がこけ、覇気は感じられなかった。ナックンさんは何度も証言集会や議員要請行動のために来日し、「父がいない苦労で学校へ十分に行けず、ソウルに家出し物乞いをして暮らした」と私たちに苦労を語った。お父さんは戦時中に日本に動員されたのち、その足取りがわからなくなっていた。日本で年金記録の調査を行なった結果、お父さんは福岡の貝島炭鉱で働いたことが判明し、14年には、お父さんの生きた地でのチェサ(祭祀)を実現することができた。別れ際にかけた言葉のとおり、「いつまでも元気で長生きしてください」と心から願うばかりだ。

 
展示を見る筆者  
 
参加者全員で記念撮影  
「種をまき、芽が出て、実がなる」まで


 私たちが座っていた後ろの壁一面には300名ほどの被害者と遺族の肖像写真が並べられていた。グングン裁判の原告のほかノー!ハプサ、日鉄、三菱、不二越の各裁判の原告たちであり、一枚一枚に苦しみ、悲しみ、怒りの歴史が刻みこまれている。その写真を見ていると、他界された原告の顔が目に飛び込んできた。ブーゲンビルの激戦を生き抜いたキム・ヘンジンさん、シベリアに抑留されたイ・ビョンジュさん、浮島丸事件の遺族イム・ソウンさん、お父さんがニューギニアで戦死されたコ・イニョンさん、ニューギニアでお兄さんが戦死されたナム・ヨンジュさん、お父さんが沖縄戦で亡くなったクォン・スチョンさん。直接お会いして、行動を共にした方たちだ。日本政府は、都合の悪い歴史を闇に葬り去り、被害者・遺族が諦めること、そしてこの世から消えるのを待っているのだろうか。許せない。 
 
 この日のミニ・トーク交流会は2時から4時までの予定を大きくオーバーし、閉会は5時をまわっていた。会場を出たところで、日本からの2人の交換留学生とノルウェイ出身で日本と韓国で研究している大学院生が紹介された。日本に、世界に、学んだことを発信してくれるようにお願いした。交流会とインタビューをとおして、強制動員被害者と共に歩いた20年あまりの歴史を振りかえることができた。「遺骨と記録に解決済みはない。ここで歩みは終わらない、諦めるわけにはいかない」と改めて思う。「種をまき、芽が出て、実がなる」というヒジャさんの言葉が実現するよう、私たちも力を尽くしていきたい。

江華島から春川へ -2024.7.7-   (木村)  

 2024年7月のソウル3日目は、関西から参加したメンバーの希望で江華島から春川へ向かった。
 まず江華島へ。李煕子さんが日本陸軍に徴用され亡くなったお父様李思R(イ・サヒョン)さんへの思いと足跡を残すため出身地に2021年6月に建てた追念碑があり訪ねた。李煕子さんに朴南順さんも同行して下さった。民族問題研究所スタッフが早朝から終日運転をして下さり総勢8人の旅だった。
 
  李思Rさんの碑の前で
 この碑は一つの展示館のようである。まず日本、朝鮮半島、中国大陸の地図上に李思Rさんが連行された地が順に記されている。前面石盤には李煕子さんが探し見つけてこられた記録が刻まれている。留守名簿に供託済み、即ち支払われなかった給与が供託されたという記載。もう一つ「靖国合祀済み」という記載。韓国人遺族には死亡さえ知らせず給与を供託し、一方で「靖国合祀」まで行っていたということがわかる。更に靖国神社に問合せ、送られてきた回答書には1959年4月6日に合祀とある。1956年厚労省が都道府県に通達を出し戦没者名簿が靖国神社にあげられたため1957年には47万人が合祀され1986年まで合祀が継続されている。ご存知の通り靖国神社は天皇のために命を捧げた者を賛美する施設であり戦前は陸海軍省の管轄であった。他の記録、兵籍戦時名簿に1944年江華島から連行されたお父様が中国で戦傷死されるまでの経緯が詳細に記録されている。大きな碑の裏に周ると、日帝強制動員の現場を記憶するとある。李煕子さんが碑の前で説明される時に強調されていたが、お父様を追念するに留まらず全ての遺族が共通する思いをここに追念したいという願いが伝わってくる。
 碑の横には 東屋が建てられ、その周りにナツメ、スモモ、ハマナス、梅、柿、小菊、桔梗、鶏頭等の草花も植えられている。家族で集まる場になっていると話された。私たちも東屋で甜瓜とミニトマトをいただいた。その後ヒジャさんお勧めの店で江華島の野菜と魚の美味しいお昼を頂き春川へ。

 春川では洪英淑さんが待っていてくださり、金景錫さんのお墓へ案内してもらった。久しぶりのお墓参りだった。お酒を供え、一人ずつお参りした。納骨堂があったころ、皆で草刈りをして お参りしたこと。地域のサッカーチームとグングンスタッフと参加した若者で試合をした思い出など次々に思い出される。金景錫さんの「ヨクキタネ」という野太い声が聞こえてくるようだった。その後洪さんと夕食を共にして短い時間だったが、久しぶりに顔を合わせて話ができたのは嬉しいひと時だった。ソウルに到着したのは夜。車の移動の間だけが雨という不思議な旅だった。

金景錫さんのお墓詣り

読書案内
 
   
『陸軍将校たちの戦後史
 −「陸軍の反省」から「歴史修正主義」への変容
     
                
          角田 燎 著 新曜社 3,190円(税込)


 戦後、戦友会や皆行社を結成するとともに、「靖国国家護持」運動を推進し、「歴史修正主義」政治団体として先鋭化させた旧陸軍将校の生き残りたちの戦後を追っている。
 英霊美化の一方で当初は反省の視点をもった活動や、「南京事件」の会員への実態調査を行い、動かしがたい事実を内外に認識させた動きがあったことなど興味深い。(古川)