在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター

「未来への架け橋」 NO.96 (2023.11.23発行)

推進協22周年記念式で
(2023年10月12日・ソウル)

「あきらめるな!あきらめたら負けだ」
  推進協とともに22年。これからもともに!

 10月12日ソウルの植民地歴史博物館で「太平洋戦争被害者補償推進協議会創立22周年記念式が開催されました。共同代表の李熙子(イ・ヒジャ)さんは、既に亡くなった戦争生存者から学んだ「あきらめるな!あきらめたら負けだ」という言葉を引用しながら挨拶しました。推進協の発足の年2000年から私たちの裁判支援活動は始まりました。当時はインターネットも普及し始めで、ハングルで書かれた陳述書をFAXで受け取り、協力者を募って翻訳していただき、ワープロ打ちする毎日でした。そして2001年6月に252名の原告でGUNGUN裁判を提訴(2次提訴も含めると414名)。「孤児のように飢え、死を隣に置いて生きる人生」と形容される過酷な戦後を生き抜いた原告の思いに寄り添いながらの22年でした。その後、韓国社会では運動が結実し、真相糾明法をはじめ法律制定や制度に生かされてきました。一方、加害者である日本側の裁判結果や日本政府の対応はというと、現在の戦没者遺骨DNA鑑定の姿勢も含め、被害者が死に絶えるのを待つかのような対応です。「あきらめたら負けだ」と立ち向かう韓国の皆さんの闘いを今後も支援していきます。今後ともご支援ください。

「あきらめるな!あきらめたら負けだ」
    太平洋戦争被害者補償推進協議会共同代表
             李熙子(イ・ヒジャ)さんからの挨拶

 
  挨拶する李熙子(イ・ヒジャ)さん
 太平洋戦争被害者補償推進協議会が多くの方々のご協力を得て開所して22 年が経ちました。今日のこの場は、盛大な記念式というよりは、これまでお会いしたかった方々と一堂に会し、これまで話せなかったことも話し合い、22 年間を共に歩んできた多くの方々を一緒に記憶するために設けました。コロナ19 のパンデミックは、どんな困難にもお互いに会って力と勇気を与えていた私たちを長い間会えなくしました。身体的な苦痛だけでなく、無力感と孤立感という精神的な苦痛も私たちの運動を一時停止させました。初期の最盛期に精力的に活動されていた生存被害者の方々はすでに私たちのそばを去り、私たち遺族も今や80、90 代になりました。私たちは、これまで数え切れないほどの困難と難関を経験してきました。推進協は出発からが難関を克服するための道でした。推進協結成のきっかけとしては、まず「通義洞事件」を思い起こします。

 1999 年10 月21 日午後4 時頃、ソウル市鍾路区通義洞3 丁目の事務所で起きた出来事です。30 人余りの人々が押し寄せ、支部の会員と事務職員の胸ぐらをつかみ、外に引っ張り出し、事務所を閉鎖してしまいました。そして翌日から事務用品と資料をトラックで運び出し始めました。この事件の主動者は、これまで一緒に活動してきた人たちでした。かれらがなぜそのような行動をしたのか、とても心が痛く、悲しいことでしたが、何のためにそうしたのか聞きたくもありませんでした。事件当日に現場にいた人たちは怒りの中ですぐに告訴しようという意見も出ましたが、そうしませんでした。訴訟で時間を浪費するよりも、被害者のための仕事に精を出すことの方が重要だと考え、他の会員も共感してくれました。11 月19 日にソウル支部臨時総会を開催しました。その時、遺族会とは別に、ソウル支部として独自の活動をしていこうと心を一つにしました。すぐに解決しなければならない二つの宿題がありました。安定的に活動するための事務所が必要だったこと、そしてこれまで一緒に活動してきた日本の連帯団体と新たに関係を築く必要がありました。日本の連帯団体は、被害者記録調査、戦後補償裁判、遺骨調査、追慕事業など、すべての作業で関わりが深く、また実質的な支援をしてくれていたため、独自の活動へと方向性を決めた私たちの決定を伝えつつ、今後の関係の整理が必要でした。日本の連帯団体と継続的に活動することを決め、2000 年1 月15 日、鍾路区楽園洞の鍾路オフィステル505 号室で開所式しました。その日から、悲壮な覚悟をしました。「ここで必ず被害者の権利を回復する具体的な成果を出さなければならない」、「日帝時代に独立運動をした先祖たちは、食べることすら容易でなかったのに、国を取り戻すために命を懸けて活動された方々を思うと、私たちはれっきとした事務所まであるのだから、本当に最善を尽くさなければならない」という決意と覚悟を何度も繰り返しました。

 
  イ・ヒジャさんとチャン・ワニク弁護士
 強制動員被害者が望んでいるのは、補償以前に、日本の植民地支配によって苦しみを受けたという事実を公式的に認められ、家族の生死だけでも確認することでした。これは被害者にとって最低限の権利でした。ですから、真相究明は強制動員被害者問題の解決の第一の要件であらざるを得ません。政府に真相究明作業に乗り出させるためには、法律が必要でした。チャン・ワニク弁護士に法律をつくってほしいと依頼し、民族問題研究所、歴史問題研究所、韓国挺身隊問題対策協議会と共に「日帝強占期強制動員真相糾明連帯」を結成することになりました。2001 年4 月、チャン・ワニク弁護士がつくった特別法草案をもって公聴会を行い、その年の10 月、キム・ウォンウン議員ら69 人が特別法を発議しました。キム・ウンシク事務局長が特別法推進委員会の事務局長を務め、実務者は民族問題研究所からウ・スミさんを派遣しました。強制動員被害者問題の解決に推進協事務局長の役割が大きく感じられる瞬間ごとに、希望の力が生まれました。

 推進協を結成して、恨が宿った被害者の声に全力を注いでいるうちに、事務所の運営に問題が生じ始めました。2002 年後半、当時は日鉄裁判、グングン裁判、日韓協定文書の公開訴訟、特別法制定活動、無資料遺族の資料調査、遺骨問題など、様々な事業を進行しているうちに、急激に事務所の運営費すら捻出できなくなりました。被害者たちの恨が積み重なった宿題の風呂敷をどうするのか、無数の悩みを抱えながら、過去を振り返って考えながら、また新たな勇気が必要でした。そうして一日一日、被害者たちの悩みを抱きしめながら、閉塞していた道が開かれました。2003 年2月10 日、民族問題研究所に移転することになりました。追い出された私たちの手を最初に握ってくれた日本の連帯団体があったからこそ、数年間の活動を活発に続けることができたとすれば、この時は、民族問題研究所が手を握ってくれたからこそ、これまで日韓共同連帯活動の幅を広げながら、やりがいと失望の連続の中で推進協の活動を続けることができました。民族問題研究所が推進協と手を握って共にしてくれたからこそ、推進協が繰り広げていたグングン裁判、日鉄裁判、三菱裁判などの訴訟運動を継続して支援することができ、特別法制定以降も、新しい国内訴訟を提起することができただけでなく、2006 年、靖国反対共同行動を結成し、国際連帯活動を繰り広げることができました。

 
これまでの原告の写真がパネルに  
 言葉では言い表せない数え切れないほどの日々の中で、様々なエピソードもありましたが、それでもその中心で生存被害者の方々が推進協を守ってくださり、兄弟姉妹のような遺族の方々の温かさが大きな力になりました。生存被害者の方々は悲しい歴史の生き証人でした。父の顔も知らない遺族たちに何でも教えてあげたいと思われ、些細な話でも伝えようと努力してくださいました。私が活動の中でに覚えている方々は、キム・スンギル、チョン・ギヨン、オ・へンソク、カン・インチャン、イ・ビョンジュ、イ・ジェソプ、キム・へンジン、チョン・チャンヒ、チョン・サンファ、コ・ヒデ、イ・ヨンジン、キム・ギュス、チュ・ソッポン、シン・チョンス、ヨ・ウンテク、クァク・クィフン……。そして親戚の叔母のような存在であったチェ・ヒスン、ユ・チャニ、チョン・オクナム、アン・ヒス、ナ・ファジャなどのハルモニたちが何度も日本の不二越に直接抗議訪問に行かれ、雨の中でも屈せずに闘っていた姿が鮮明に残っています。私たちのそばを去った方々ですが、いつも私の心の中にいる方々です。

 生存者の方々のお話の中で忘れられない言葉は、「植民地時代に生まれたことが罪だ。日本はいつも被害者が死ぬことばかり願っている。そしてあきらめることだけを望んでいる」ということでした。「あきらめるな、あきらめたら負けだ」という言葉を力強く強調されました。一度も聞いたことも習ったこともない強制動員の実態を教科書のように教えてくださった方も生存被害者の方々でした。途方もないその道の道しるべとなってくださった方々、その方々の話を手がかりに、父の記録をどのように探せばいいのかが分かりました。文書に数行で残された記録が何を意味するのか、その方たちの話を通して、気づき、学ぶことができました。あらためて私たちの丘となってくださった生存者の方々が胸が痛くなるほど恋しいです。そして、「あきらめるな」という言葉を身をもって実践されているイ・チュンシク、ヤン・クムドクさんがより心に残る今日です。

 そして、今日この場にご出席くださった皆さまが、推進協を今まで支えてくださいました。在韓軍人軍属裁判支援会、日本製鉄元徴用工裁判支援会、靖国神社合祀撤回訴訟支援会、「戦没者遺骨を家族の元へ」連絡会、不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会などの日本の連帯団体の多くの活動家、市民、専門家、弁護士の方々のおかげで、被害者たちは自分の被害を日本の法廷で堂々と明かすことができました。日本語は話せませんが、140 回以上、日本に行くたびに、温かい心で手を握ってくださり、助けてくださった方々がいらっしゃったからこそ、私は長い間活動を続けることができました。

 
  22周年のケーキカット
 日韓連帯の幅が広くなり、企業裁判が韓国の法廷での闘いにつながり、民主労総、韓国労総や様々な社会団体の若者が参加しました。被害者原告が自ら出て行くことができない現場で、1 人デモや記者会見を力強くおこなう姿に胸がいっぱいになり、心強く感じました。新しい希望が見えました。私たちが歩んできた足跡を記録し、記憶し、未来と平和の灯火となる若者がいてくれて、今まであきらめずに活動してきたことにやりがいを感じています。何よりも、孫の世代まで、この運動を引き継ぐ一歩は大きな意味があると思います。

 このすべての方々に報いる道は一つだと思います。無念の死と被害を受けた被害者の方々の名誉と人権を回復するために、生き残った私たちの心の安らぎと平和のために、日本政府と加害企業に真の謝罪と反省をさせることが、これまで苦労しながら共に歩んでくださった方々の努力に報いることだと思います。

 これまで長い間おこなってきたすべての活動の結果、被害者たちの力不足のせいではなく、日韓の政治権力の力に押され、志を成し遂げることができませんでした。だからこそ、被害者の方々が生きている間に真の解決がなされることを期待しています。被害者の方々があきらめずに活動してきたこの問題が、ずっと記憶され、二度とこのような悲劇が繰り返されないように、私たちの苦しい経験が大事な歴史的な糧となることを願っています。そのために、ここに植民地歴史博物館がつくられ、私たちの歴史がここに収められました。ここにいらっしゃるすべての方々の努力、汗と涙がこのような大切な土台をつくってくれたのですから、これからも植民地歴史博物館で私たちの話が続いていくことを願っています。

 今日、この博物館に、22 年目を迎えた推進協を応援するために集まってくださった皆さま、心から感謝申し上げます。

(一部を割愛させていただきました)

推進協と共に22年 私たちが歴史だ (木村)

 
いつも明るい遺族の皆さん  
 10月12日、太平洋戦争被害者補償推進協議会創立22周年の記念式典が、ソウル植民地歴史博物館で開かれた。本来20年という節目に開かれるべきだが、コロナのせいでやっと22周年に開かれることになった。コロナで行き来ができない間はZOOMで何度か会議を開催。数人の遺族とスタッフは東京での集会で会うこともあったが、ソウルで一堂に会するのは久しぶりだ。この集会には、推進協と共に活動されてきた各団体が参加された。参加団体は推進協の長年にわたる活動がいかに多くの運動と共に歩んできたか 指し示す道標のようだった。

 開会の辞の後「強制動員被害者と日韓市民が共に歩んだ22年」という映像がスクリーンに映し出された。次々と流される映像は懐かしくもあり、すでに亡くなられた方々の姿に 思わず涙がこぼれる。ついお名前を呼んでしまっていた。

 
  姜宗豪(カン・ジョンホ)さんの娘さん
カン・スユンさん
 集会には姜宗豪さんの娘さんと息子さん、お孫さん2人も参加された。仁川空港から植民地歴史博物館へ向かう車中で姜宗豪さんが既に亡くなられたと聞いていた。姜さんは日本で開かれた「強制動員被害者に聞くまだ終わってない話」で「父の記録を探したいです。それが子供としての父に対する最後の道理であると考えます。日本政府は最小限の誠意でも見せてください。持っている資料を全面公開し民間団体と韓国政府の調査活動に積極的に協力してください。そうすれば私のような恨を持つ遺族達に少しでも慰労となるでしょう」と訴えておられた。その後、年金記録から西大洋漁業統制株式会社(現マルハニチロ)所属第26北新丸の機関長をしていたことが分かり、2014年下関港で海に向かってチェサをあげられた。海に向かって積年の思いと共に「アボジー」と叫ばれた。

 
集会後にご家族と記念撮影  
 記念式典に参加された姜さんの娘カン・スユンさんは、追悼の辞で「日帝強占期被害者に対する国家の無関心が問題視される前に、実は自称『世界で一番愛する娘である私』ですら、父の痛々しい過去から顔を背けていました。私から率先して私の下の家族やその子孫が、祖父と父が植民地生活によって受けた苦しみについて、日本政府の真の反省と責任を果たすように、私自身から関心を持ち一助となって長い歳月、恨を抱いてきた父の悲しみを少しでも和らげてあげたい」とメッセージを寄せられた。

 この夏、ヒジャさんが「裁判は直近の遺族から次の世代に引き継がれていく」と話しておられたが、本当に次の世代、更に先の世代まで引き継がれていることを目の前にする集会だった。ヒジャさんのメッセージ「あきらめるな、あきらめたら負けだ」は、これまで闘いを継続されてきた方々の思いも引き継ぐものとして発せられた言葉だ。

【姜宗豪(カンジョンホ)さんのGUNGUNニュースの記事】
        2014年5月31日発行 77 より抜粋

 
  下関の海に向かってチェサをする
姜宗豪(カンジョンホ)さん
 朝から下関図書館で、当時の船着き場の様子など写真で確認。林兼商店の社史なども重要な本数点を確認した。昼からは関釜連絡船の発着場、動員された朝鮮人の収容施設跡などを見学。そして会社跡地へ、跡地には太平洋漁業株式会社の小さな碑がある。数百メートルの海岸線と向こう岸一帯を林兼が独占していたそうだ。そこから100メートルほどの林兼商店の船が出入りした海岸でチェサを行うことにした。食事の後、チェサを始めようとすると、姜宗豪さんが果物を買いたいと言い出した。簡単に行うつもりだったようだが、現地に来てみると、果物も買ってしっかりやりたいと思うようになったという。みんな大至急買出しに行く。海岸に向かってのチェサは、また思いが入る。埋め立てで変貌したとはいえ、アボジが見た海が、アボジが南洋に出ていった海が目の前に広がっているのだ。「アボジー!」と海に叫ぶ姜宗豪さん。しっかりと祭祀をやり遂げた。「アボジー!」と呼んだのは初めてだという。祭祀の時、目の前に、アボジがいたのだろう。そして姜宗豪さんはお父さんに対する恨みが消えたという。日本軍が強制動員したのになんて辛い話だろう。

**民間戦没船遺族**
 日本軍に徴用された民間戦没船は7240隻とされるが、小さな船会社の船や漁船も多く、大半は詳細な記録が残っていない。犠牲者は日本人の場合、「準軍属」として戦傷病者遺族等援護法認定され、遺族に年金給付されているが、韓国人は国籍条項により除外されている。

「韓日過去清算運動の記憶と展望」国際会議が開催(古川)

 
国際会議の模様  
 翌日10月13日は、植民地歴史博物館の向かい側にある韓国殉教福者修女会講堂で「韓日過去清算運動の記憶と展望」国際会議が開催された。

  「日本の過去清算の成果と課題」を矢野さんが発表。これまでの戦後補償裁判の歩み、大法院判決以降、安倍政権による介入によって作り出された「嫌韓」世論、尹錫悦政権による「3・6解決策」の問題点等をわかりやすく解説。「被告企業にとっては、解決策に基づく第三者弁済が進んでも、それで自らの債務(慰謝料)がなくなる訳ではなく、今度は財団が求償権を持つことになる。尹政権は求償権の行使は想定していないと言ったが、求償権の時効は10年、尹政権の任期が終わった後はどうなるか分からない」「強制動員という重大な人権侵害を解決するためには、@加害の事実を認め、A被害者に謝罪し、Bその証として償いのためのお金を支払い、C過ちを繰り返さぬための措置を講じる、これが不可欠。」と強調した。

  その後、チャン・ワニク弁護士をはじめ、原告の闘いを支えてきた日韓の方々がそれぞれの立場で展望を語られた。

上田さん「遺族とともに歩いてきた」 木村さん「遺族とつながりを大切に」 国際会議後みんなで記念撮影

 私たち「戦没者遺骨を家族のもとへ連絡会」から上田さんが、2010年の証言集会での遺族との出会いから始まる「記録」と「遺骨」を探し出す取り組みをGUNGUNニュースの写真を交えながら振り返り、今後は形見である「郵便貯金通帳」の返還を求める運動構築への決意を語った。
 
  またGUNGUNの木村さんは、遺族に寄り添ってきた運動を振り返った。これまでに亡くなったイム・ソウンさんやナム・ヨンジュさんたちとの交流やチェサに立ち会うことを通じて日本人、一市民として何ができるのかを語った。

3日目は江華島・李煕子さんの父「李思R追念碑」を訪ねるツアーへ(木村) 

 
  江華島にある追念碑
 ソウル3日目は、李煕子さんが2021年に故郷の江華島に建てた父・李思R(イ・サヒョン)追念碑を訪ねるツアーに参加。ソウルからバスで江華島へ向かう。バスは漢江沿いを走り、江華大橋を渡って江華島へ。最初に訪ねたのは草芝鎮(チョジジン)、江華島事件の現場である。1875年9月の雲楊号事件とは、日本が内海で測量と示威行動を繰り返し、朝鮮側の砲台からの砲撃を意図的に誘発した。砲撃を受けるや、ただちに反撃に転じ南にある永宗島を占領した。日本が軍事力を背景に侵略を始める端緒となった事件だ。昼食は韓定食。地元の野菜を使った店で、李煕子さんが 3軒も下見をして下さったとか。その後、平和展望台(ピョンファ・チョンマンデ)へ。韓国と北朝鮮の国境には何か所か展望台が設けられているが、その一つを訪ねる。北朝鮮まで海峡の距離は2,3q。展望台になっていて双眼鏡が四方に設置されていた。

 
追念碑で碑文を朗読  
 いよいよ最後に訪れたのが「李思R追念碑」。土地はヒジャさんの親戚の方が提供して下さったようだ。碑にはヒジャさんのお父さんが強制動員された傷跡(足跡)が地図上に刻まれている。江華から龍山、更に中国大陸へ渡り、南京・漢口で従軍。野戦病院の患者後送の際に襲撃に会い、広西省柳川の兵站病院から移送された全県第181兵站病院で死去された。それはヒジャさんが一つ一つ記録を探し見つけてこられた足跡だ。もちろんこの碑はお父様への追念碑ではあるが、強制連行被害者の傷跡として記憶するための碑であると記されている。碑の前でヒジャさんの説明があり、東京から参加された3人の方が碑文を朗読した。その後、隣の老人会館でヒジャさんの親戚の方が手作りされたトットリ(ドングリの粉を固めたもの)と地元のマッコリでもてなしてくださった。最後のバスの中はノレで盛り上がった。ぜひ多くの人に碑を訪ねて欲しいと思う。

韓国人遺骨返還の厚労省との話し合いの継続と到達点(上田)

 私たちは韓国人遺骨のDNA鑑定と言う方法を通じて遺骨を兼官するように取り組んできました、2023年を終えるにあたり経過と到達点を整理して報告します。

なぜ遺骨返還が進まないか?

 大まかにいうと、当初の名前のある遺品が一緒に出れば韓国人とすると言う見解は崩し、国会での表向きの発言としてはDNA鑑定を韓国側と協議していくとの見解を維持させている。鑑定に踏み切れない理由として謝罪の問題が出てきたが、過去軍人軍属の返還について祐天寺で行ってきたという厳しい追及の中で、理由が「日本人が終わっていないから」ということに変わってきている。だからと言って「終わればする」と明言しているわけでもないのが現状である。評価は難しい、謝罪がネックになっているとすれば、追及が厳しすぎるのでまだ日本人の未審議数が1800件あまり残っていると逃げているのか、実際に未審議件数が少なくなれば進んでいくのかは分からない。(2023年3月末、日本人6913件の申請、鑑定審議数5050件、未審議1863件)おそらく判断を先延ばしするための方便と考えるのが妥当なところであろうか。

あくまでも鑑定開始を求める!

 我々は、沖縄戦遺骨収集ボランテアガマフヤーの具志堅隆松さんと共に、沖縄南北の塔から仮安置所に移管された400の遺骨の追加鑑定や、海没遺骨の収集など対象遺骨の拡大を求めている。厚労省の「日本人が終わってから」では、いつまでたっても終わらないほど戦争犠牲者は多いのである。韓国人遺族との照合鑑定開始を強く求めていくしかない。

 
  1月18日,、国との意見交換会で
イ・ヒジャさん
 韓国人問題への対応が進まないことに憤りを感じるが、自信を持って押さえておきたいことが何点かある。

 一つは、「日本人の遺骨鑑定も真面目にやらないのに韓国人のことをするはずがない」と考えて進めてきた。沖縄県民の鑑定を実現した時点で、「ここまで来たら1000人は申請してもらいたい」と言っていた話が、太平洋地域の鑑定も広がり、沖縄で3500件、全部で7000人近い申請を実現していることだ。

 二つ目にタラワ島で日米韓の共同鑑定を実現させ韓国人遺族1名、日本人2名が遺骨と照合合致した。やればできることを証明した。これが太平洋地域への鑑定に繋がっている。

 三つ目は、我々が2012年ナムヨンジュさん、コ・イニョンさんと共にニューギニアでのチェサ、2013年沖縄へコンスチョンさんをお連れし調査活動を行ってから、2014年の遺骨交渉の開始以降、遺骨問題をずっとあきらめず闘い続けてきたと言うことである。 それは、グングン裁判の「遺骨を持っていないから返す責任はない」というひどい判決を許さない闘いを続けていると言うことだ。

これまでの経過

●2014年6月23日、初めて厚労省と交渉するも、韓国人とわかるものが遺品として一緒に出れば、外務省を通じて連絡するとするも、実質的に何もしないのと同じ、対案としてDNA鑑定を要求する。

●2016年、遺戦没者遺骨収集推進法の成立にあたり、厚労委員会で韓国人の鳥圧愛について質疑する。塩崎元厚労大臣から「韓国政府から具体的な要請あれば真摯にそれを受け止めて政府部内で適切な対応を検討」。

●2017年7月から沖縄戦遺族のDNA鑑定に沖縄県民の参加認めさせる。2021年10月から太平洋地域の遺族のDNA鑑定が始まる。

●2022年9月、沖縄の取り組みと連帯を深め、ガマフヤーと国との意見交換会で追及するが、返還に向けた条件が整っていない、タラワ島の遺骨の返還に関与するよう外務省に要求。

●2022年11月14日、国会質疑(良鉄美議員)、2022年10月末でDNA鑑定は日本人6670件の申請、鑑定審議数4478件、未審議数2192件、韓国政府との協議を粘り強く進めていく。

●2023年1月、意見交換会でタラワ島の遺骨の返還について謝罪が問題なら祐天寺で行えて同じことをすればよいと外務省を追及。

●2023年5月、意見交換会、沖縄の遺骨返還DNA鑑定は厚労省が担当すると回答、厚労省は韓国人遺骨のDNA鑑定が始められない理由として、日本人が終わっていないことを主張、2023年3月末でDNA鑑定は日本人6913件の申請、審議官定数5050件、未審議1863件。

12・8長生炭鉱・国との意見交換会にご参加を! (上田)

 
長生炭鉱のピーヤ(排気塔)が
今も海に
 
 12月8日長生炭鉱水非常を歴史に刻む会が国との意見交換会を行う。1942年2月3日、山口県宇部市にあった海底炭鉱が水没し183名が犠牲になる。そのうち136名が朝鮮人労働者。未だ遺骨は引き上げられていない、今も暗く冷たい海に眠ったままである。逃げようにも逃げられない強制労働の環境で働かされた。事故当日はネズミが動き回り、危険だと労働者が入るのを拒否したが管理者によって無理矢理入坑させられた。刻む会のみなさんが、韓国人軍人軍属のDNA鑑定を政府に求める意見交換会に何度も参加いただいていた縁で、私が刻む会の政府交渉チームに入ることになり協力している。衆議院第一議員会館国際会議室で午後3時から、韓国からご遺族も初めて参加する。韓国人遺骨問題の存在を大きく知らせ、日本政府に真剣に植民地支配の残された大きな問題、遺骨問題に取り組ませなければならない。植民地支配で犠牲になったご遺族の気持ちはみんな同じだ。みんなで一つになって前進したい。
日時:2023年12月8日(金)15時より(開場14時30分)
         ※ロビーにて入館証を配布します
場所:衆議院第一議員会館 国際会議室

読書案内
 
   
『朝鮮人シベリア抑留
 −私は日本軍・人民軍・国軍だった
     
                
     金孝淳(キム・ヒョスン)著 2900円+税 東京外国語大学出版会


 アジア太平洋戦争末期日本に参戦したソ連軍の捕虜となりシベリアに移送され抑留生活を送ったのは日本人だけではなかった。朝鮮半島にも施行された徴兵制により敗戦直前に徴兵された朝鮮出身の「日本兵」がいた。彼らは徴兵〜抑留〜戦後と壮絶な人生を送った。満州で自爆特攻を命令されソ連軍の戦車へ爆弾を抱えて突撃して亡くなった人、ようやくシベリアの過酷な抑留生活を終えて分断された「南」の祖国へ帰ろうとして38度線で銃撃され故郷を目の前にして亡くなった人、幸い祖国に戻っても再び銃をとって闘わなければならなかった朝鮮戦争の時代、そして反共体制下でソ連のスパイと間違われて逮捕、刑務所で服役させられてなおその後も常時監視下に置かれる人生を送らなければならなかった人たち。日本人抑留者に対してはようやく2010年に特別措置法が作られ給付金が支給されることになったが朝鮮人は戦傷病者遺族等援護法と同じく「国籍条項」により排除された。著者によるとシベリアからの帰還者でつくるシベリア朔風会の最後の会員が2022年に亡くなったとのこと、この問題を歴史に埋もれさせてしまわないためにもぜひとも一読を。(中田)

GUNGUNインフォメーション

12月2日(土) 13:30〜 南京12月証言集会2023「関東大震災時における朝鮮人・中国人虐殺は「南京」へと続いた…私たちは 排外主義・史実隠蔽を許さない!」
    PLP会館 5F大会議室
    講師:田村光彰 (みつあき)さん
    主催:南京大虐殺60ヵ年大阪実行委員会

12月8日(金) 15:00〜 長生炭鉱の遺骨を故郷と家族の元へ 12・8国との意見交換会
    衆議院第一議員会館 国際会議室 ※ロビーにて入館証を配布します
    主催 長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会

12月8日(木) 18:30〜 琉球人遺骨返還訴訟 大阪高裁判決−その意義とこれから−
    PLP会館4F中会議室
    講師:松島泰勝さん(原告団団長) 丹羽雅雄さん(弁護団団長)
    主催:琉球遺骨返還請求訴訟を支える会・大阪

12月9日(土) 14:00〜 南京の記憶をつなぐ2023ドキュメンタリー上映/講演
    エルおおさか・南館5Fホール
    映画「ウィルソン医師−南京孤独のたたかい」上映
    講演:高文軍さん「私と南京−歴史、大虐殺の事実調査、戦争中の父」
    主催:南京の記憶をつなぐ2023

12月20日(水) 18:30〜 神戸・南京をむすぶ会 12月集会
    神戸学生青年センター「ウエスト100」2階ホール
    中村平さん講演会「台湾高地先住民との関わりから考える脱殖民化」

2024年2月7日(水) 14:30〜 京都主基田抜穂の儀違憲訴訟判決
    京都地裁大法廷