在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター 「未来への架け橋」 NO.96 (2023.11.23発行) |
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推進協22周年記念式で |
「あきらめるな!あきらめたら負けだ」 |
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「あきらめるな!あきらめたら負けだ」
1999 年10 月21 日午後4 時頃、ソウル市鍾路区通義洞3 丁目の事務所で起きた出来事です。30 人余りの人々が押し寄せ、支部の会員と事務職員の胸ぐらをつかみ、外に引っ張り出し、事務所を閉鎖してしまいました。そして翌日から事務用品と資料をトラックで運び出し始めました。この事件の主動者は、これまで一緒に活動してきた人たちでした。かれらがなぜそのような行動をしたのか、とても心が痛く、悲しいことでしたが、何のためにそうしたのか聞きたくもありませんでした。事件当日に現場にいた人たちは怒りの中ですぐに告訴しようという意見も出ましたが、そうしませんでした。訴訟で時間を浪費するよりも、被害者のための仕事に精を出すことの方が重要だと考え、他の会員も共感してくれました。11 月19 日にソウル支部臨時総会を開催しました。その時、遺族会とは別に、ソウル支部として独自の活動をしていこうと心を一つにしました。すぐに解決しなければならない二つの宿題がありました。安定的に活動するための事務所が必要だったこと、そしてこれまで一緒に活動してきた日本の連帯団体と新たに関係を築く必要がありました。日本の連帯団体は、被害者記録調査、戦後補償裁判、遺骨調査、追慕事業など、すべての作業で関わりが深く、また実質的な支援をしてくれていたため、独自の活動へと方向性を決めた私たちの決定を伝えつつ、今後の関係の整理が必要でした。日本の連帯団体と継続的に活動することを決め、2000 年1 月15 日、鍾路区楽園洞の鍾路オフィステル505 号室で開所式しました。その日から、悲壮な覚悟をしました。「ここで必ず被害者の権利を回復する具体的な成果を出さなければならない」、「日帝時代に独立運動をした先祖たちは、食べることすら容易でなかったのに、国を取り戻すために命を懸けて活動された方々を思うと、私たちはれっきとした事務所まであるのだから、本当に最善を尽くさなければならない」という決意と覚悟を何度も繰り返しました。
推進協を結成して、恨が宿った被害者の声に全力を注いでいるうちに、事務所の運営に問題が生じ始めました。2002 年後半、当時は日鉄裁判、グングン裁判、日韓協定文書の公開訴訟、特別法制定活動、無資料遺族の資料調査、遺骨問題など、様々な事業を進行しているうちに、急激に事務所の運営費すら捻出できなくなりました。被害者たちの恨が積み重なった宿題の風呂敷をどうするのか、無数の悩みを抱えながら、過去を振り返って考えながら、また新たな勇気が必要でした。そうして一日一日、被害者たちの悩みを抱きしめながら、閉塞していた道が開かれました。2003 年2月10 日、民族問題研究所に移転することになりました。追い出された私たちの手を最初に握ってくれた日本の連帯団体があったからこそ、数年間の活動を活発に続けることができたとすれば、この時は、民族問題研究所が手を握ってくれたからこそ、これまで日韓共同連帯活動の幅を広げながら、やりがいと失望の連続の中で推進協の活動を続けることができました。民族問題研究所が推進協と手を握って共にしてくれたからこそ、推進協が繰り広げていたグングン裁判、日鉄裁判、三菱裁判などの訴訟運動を継続して支援することができ、特別法制定以降も、新しい国内訴訟を提起することができただけでなく、2006 年、靖国反対共同行動を結成し、国際連帯活動を繰り広げることができました。
生存者の方々のお話の中で忘れられない言葉は、「植民地時代に生まれたことが罪だ。日本はいつも被害者が死ぬことばかり願っている。そしてあきらめることだけを望んでいる」ということでした。「あきらめるな、あきらめたら負けだ」という言葉を力強く強調されました。一度も聞いたことも習ったこともない強制動員の実態を教科書のように教えてくださった方も生存被害者の方々でした。途方もないその道の道しるべとなってくださった方々、その方々の話を手がかりに、父の記録をどのように探せばいいのかが分かりました。文書に数行で残された記録が何を意味するのか、その方たちの話を通して、気づき、学ぶことができました。あらためて私たちの丘となってくださった生存者の方々が胸が痛くなるほど恋しいです。そして、「あきらめるな」という言葉を身をもって実践されているイ・チュンシク、ヤン・クムドクさんがより心に残る今日です。 そして、今日この場にご出席くださった皆さまが、推進協を今まで支えてくださいました。在韓軍人軍属裁判支援会、日本製鉄元徴用工裁判支援会、靖国神社合祀撤回訴訟支援会、「戦没者遺骨を家族の元へ」連絡会、不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会などの日本の連帯団体の多くの活動家、市民、専門家、弁護士の方々のおかげで、被害者たちは自分の被害を日本の法廷で堂々と明かすことができました。日本語は話せませんが、140 回以上、日本に行くたびに、温かい心で手を握ってくださり、助けてくださった方々がいらっしゃったからこそ、私は長い間活動を続けることができました。
このすべての方々に報いる道は一つだと思います。無念の死と被害を受けた被害者の方々の名誉と人権を回復するために、生き残った私たちの心の安らぎと平和のために、日本政府と加害企業に真の謝罪と反省をさせることが、これまで苦労しながら共に歩んでくださった方々の努力に報いることだと思います。 これまで長い間おこなってきたすべての活動の結果、被害者たちの力不足のせいではなく、日韓の政治権力の力に押され、志を成し遂げることができませんでした。だからこそ、被害者の方々が生きている間に真の解決がなされることを期待しています。被害者の方々があきらめずに活動してきたこの問題が、ずっと記憶され、二度とこのような悲劇が繰り返されないように、私たちの苦しい経験が大事な歴史的な糧となることを願っています。そのために、ここに植民地歴史博物館がつくられ、私たちの歴史がここに収められました。ここにいらっしゃるすべての方々の努力、汗と涙がこのような大切な土台をつくってくれたのですから、これからも植民地歴史博物館で私たちの話が続いていくことを願っています。 今日、この博物館に、22 年目を迎えた推進協を応援するために集まってくださった皆さま、心から感謝申し上げます。 (一部を割愛させていただきました) |
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推進協と共に22年 私たちが歴史だ
(木村)
開会の辞の後「強制動員被害者と日韓市民が共に歩んだ22年」という映像がスクリーンに映し出された。次々と流される映像は懐かしくもあり、すでに亡くなられた方々の姿に 思わず涙がこぼれる。ついお名前を呼んでしまっていた。
この夏、ヒジャさんが「裁判は直近の遺族から次の世代に引き継がれていく」と話しておられたが、本当に次の世代、更に先の世代まで引き継がれていることを目の前にする集会だった。ヒジャさんのメッセージ「あきらめるな、あきらめたら負けだ」は、これまで闘いを継続されてきた方々の思いも引き継ぐものとして発せられた言葉だ。
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「日本の過去清算の成果と課題」を矢野さんが発表。これまでの戦後補償裁判の歩み、大法院判決以降、安倍政権による介入によって作り出された「嫌韓」世論、尹錫悦政権による「3・6解決策」の問題点等をわかりやすく解説。「被告企業にとっては、解決策に基づく第三者弁済が進んでも、それで自らの債務(慰謝料)がなくなる訳ではなく、今度は財団が求償権を持つことになる。尹政権は求償権の行使は想定していないと言ったが、求償権の時効は10年、尹政権の任期が終わった後はどうなるか分からない」「強制動員という重大な人権侵害を解決するためには、@加害の事実を認め、A被害者に謝罪し、Bその証として償いのためのお金を支払い、C過ちを繰り返さぬための措置を講じる、これが不可欠。」と強調した。 その後、チャン・ワニク弁護士をはじめ、原告の闘いを支えてきた日韓の方々がそれぞれの立場で展望を語られた。
私たち「戦没者遺骨を家族のもとへ連絡会」から上田さんが、2010年の証言集会での遺族との出会いから始まる「記録」と「遺骨」を探し出す取り組みをGUNGUNニュースの写真を交えながら振り返り、今後は形見である「郵便貯金通帳」の返還を求める運動構築への決意を語った。 またGUNGUNの木村さんは、遺族に寄り添ってきた運動を振り返った。これまでに亡くなったイム・ソウンさんやナム・ヨンジュさんたちとの交流やチェサに立ち会うことを通じて日本人、一市民として何ができるのかを語った。 |
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3日目は江華島・李煕子さんの父「李思R追念碑」を訪ねるツアーへ(木村)
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韓国人遺骨返還の厚労省との話し合いの継続と到達点(上田)
一つは、「日本人の遺骨鑑定も真面目にやらないのに韓国人のことをするはずがない」と考えて進めてきた。沖縄県民の鑑定を実現した時点で、「ここまで来たら1000人は申請してもらいたい」と言っていた話が、太平洋地域の鑑定も広がり、沖縄で3500件、全部で7000人近い申請を実現していることだ。 二つ目にタラワ島で日米韓の共同鑑定を実現させ韓国人遺族1名、日本人2名が遺骨と照合合致した。やればできることを証明した。これが太平洋地域への鑑定に繋がっている。 三つ目は、我々が2012年ナムヨンジュさん、コ・イニョンさんと共にニューギニアでのチェサ、2013年沖縄へコンスチョンさんをお連れし調査活動を行ってから、2014年の遺骨交渉の開始以降、遺骨問題をずっとあきらめず闘い続けてきたと言うことである。 それは、グングン裁判の「遺骨を持っていないから返す責任はない」というひどい判決を許さない闘いを続けていると言うことだ。 これまでの経過 ●2014年6月23日、初めて厚労省と交渉するも、韓国人とわかるものが遺品として一緒に出れば、外務省を通じて連絡するとするも、実質的に何もしないのと同じ、対案としてDNA鑑定を要求する。 ●2016年、遺戦没者遺骨収集推進法の成立にあたり、厚労委員会で韓国人の鳥圧愛について質疑する。塩崎元厚労大臣から「韓国政府から具体的な要請あれば真摯にそれを受け止めて政府部内で適切な対応を検討」。 ●2017年7月から沖縄戦遺族のDNA鑑定に沖縄県民の参加認めさせる。2021年10月から太平洋地域の遺族のDNA鑑定が始まる。 ●2022年9月、沖縄の取り組みと連帯を深め、ガマフヤーと国との意見交換会で追及するが、返還に向けた条件が整っていない、タラワ島の遺骨の返還に関与するよう外務省に要求。 ●2022年11月14日、国会質疑(良鉄美議員)、2022年10月末でDNA鑑定は日本人6670件の申請、鑑定審議数4478件、未審議数2192件、韓国政府との協議を粘り強く進めていく。 ●2023年1月、意見交換会でタラワ島の遺骨の返還について謝罪が問題なら祐天寺で行えて同じことをすればよいと外務省を追及。 ●2023年5月、意見交換会、沖縄の遺骨返還DNA鑑定は厚労省が担当すると回答、厚労省は韓国人遺骨のDNA鑑定が始められない理由として、日本人が終わっていないことを主張、2023年3月末でDNA鑑定は日本人6913件の申請、審議官定数5050件、未審議1863件。 |
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