在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター 「未来への架け橋」 NO.94 (2021.7.10発行) |
|
日本の支援者からの便りに |
タラワで発見された遺骨の韓国遺族が判明、故郷へ! |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皆さまに会いたい気持ちを込めて、ご挨拶申し上げます。 「コロナ時代」を過ごした昨年は、本当に苦しく、もどかしく、大変な1年でした。人と人の出会いを恐れなければならない1年でした。毎日が本当に長く感じる1年でした。皆さまも、日々感染を予防しながら過ごす中で、ご苦労が多かったのではないでしょうか。 心配で、気になっても、会いに行くこともできず、電話をかけることすらできませんでした。言葉の壁があるからです。心を分かち合うことができない状況の中で、皆さまと共にした時間がどれほど大切だったのか、痛感し、悲しくもなりました。
いま、私は、これまで積み重ねてきた韓日市民交流が本当にどれほど大切なものだったのかを、心の奥底から感じています。皆さまが共にしてくださったおかげで、幸せな時間を過ごしています。皆さまが共にしてくださったおかげで、痛みを治癒することができています。私たちの友情を忘れず、私たちが共に歩んできた道を無駄にせず、明日の希望が平和につながるよう願っています。そして、日本政府がきちんと反省するよう、これからも諦めず、努力していきます。 2021年、皆さまのご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。 太平洋戦争被害者補償推進協議会 李熙子 (新年発行ニュース用に寄稿いただきました。お届けするのが遅くなり大変申し訳ありません。) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「遺骨は家族のもの・戦争基地に投げ込むな!」
沖縄でのハンストテントが始まった。残念ながら私は仕事で2日目からの参加。19日と20日は県庁前広場、21日から23日は摩文仁の平和記念公園にテントは移される。「第1次ハンストは予想以上の反応があった。遺骨が混じった土砂を新基地建設に使わせないという遺族の声を知事に伝えたい」と具志堅さんは昼の集会で訴えた。 6月20日 ハンスト2日目(沖縄県庁前) 5時に家を出て10時前に那覇空港着。沖縄の暑さに驚く。蒸し暑い。県庁前ハンストテントに直行する。「遺骨は遺族のもの 戦争基地に投げ込むな」の垂れ幕が中心に掲げられている。この垂れ幕はこの後もずっとテレビや新聞に映し出された。1次ハンストの後、4月に厚労省・防衛省交渉があった時に、日本兵遺族のお孫さんが「祖父は国に従い沖縄に行き言われた通り死んできました。しかし遺骨は家族のものです。国のものではありません。」と言った。これはハンスト前日19日のTBS報道特集でも伝えられ、「遺骨は遺族のものです」がハンストの合言葉となった。県民遺族も日本兵遺族も共通の思いを根底においた闘いのシンボルとして掲げられた。島ぐるみ宗教者の会や3月に結成された沖縄のガマフヤー支援の会、東京の日本山妙法寺などが協力して座り込む。
熱中症になるような暑さが2日目も続き、具志堅さんもまいっている。今日は昨日より厳しいらしい。座っているだけで体力が消耗し、体の温度が上がってくるのが分かる。緊急事態宣言が沖縄のみ延長されたことで県庁前にはほとんど人が通らない。日曜日のにぎやかさがまるでない。でも遺族は激励にやってくる。「コロナだから子どもたちから外に出たらダメと言われたけれど、知らん顔してきました。」と語るおばあちゃん。具志堅さんと固い握手を交わす「絶対負けられないよ」と。水を持ってきてくれる人。カンパを持ってきてくれる人。皆遠くからわざわざやってきてくれている。決して通りすがりではない。テントでも前日のTBS報道特集が話題になっていた。「20分もやっていた。遺族の声がしっかり入ったいい番組だった。」
とにかく暑いし体温が上がる。具志堅さんは地下駐車場で10分ほど体を冷やしてきたそうだが、もう一度行くことを勧める。「1時間前に言ったので・・」というが、1時間おきに行かないと熱中症で倒れたら大変だと説得し、また10分ほど離れてもらう。30代後半の若者がやってきて「昨日のテレビ見ました。自分は知らなかった。海に投げ入れるなんて。絶対許されない!」と署名に駆け寄った。別の30代の若者も怒っていた。「どんな気持ちでみんな自決していったと思っているんだ」声は震えていた。本土では集団自決のことも知らない人がほとんどかもしれない。6・23が沖縄慰霊の日であることを知らない人が75%に上ると報道されていた。しかし沖縄は若者まで怒りに震えていた。1次ハンストでは見られなかった光景だ。1次ハンストで衝撃を受けた本土のマスコミ関係者がしっかりとした映像・コメントをつくり2次ハンスト・慰霊の日にむけて取り組んできた結果と言える。 具志堅さんはこの暑いスタートの2日でほとんど体力を消耗してしまった。5時の行動終了と同時にテントで朝まで寝込んでしまったそうだ。 6月21日 ハンスト3日目(平和記念公園に移動) 10時に摩文仁へのテント移設が完了する。雨が降っていて、人の流れもほとんどない。11時になると一人の遺族がテントに来られた。テントで座っている具志堅さんの前で、降り続く雨で濡れている地べたに両膝と両手を付けて、傘もささず長く頭を下げている。「具志堅さん、家族のためにありがとう」と私には聞こえる。具志堅さんも同じように頭を下げている。「ご遺骨とご遺族のためにがんばりましょう」と私には聞こえてくる。雨の中で終日、ハンストテントでの行動が続いた。昨日までのような暑さもなくお腹は減るが体力は急激に落ちることはなかった。
昼すぎ女性と具志堅さんが話す周りを囲んでマスコミが取材している。遺族の方と話をしていると思っていたら、後から聞いたらあの赤木ファイルの赤木雅子さんだと聞いて驚く。「戦没者を2度殺すな」という看板に夫と同じだと共鳴したと言う。わざわざ日帰りで応援に来たとのこと。翌日赤木ファイルが公開された。 ハンスト3日目 行動終了後
ハンスト3日目 真夜中 0時も過ぎみんな眠りにつく。今晩は雨が降るらしい。もし雷が鳴りだしたら危険なのでトイレに駆け込もうとみんなで確認する。大きな運動会のテントに5人。外で小さなテントが3つ。うとうととしていると雨が降り出した。眠りについた2時、突然土砂降りの雨がテントを打つ。この音はニューギニアでお父さんを亡くしたコ・イニョンさんと現地のホテルで聞いた雨音と同じぐらいの大きな音だと思い出しながらいると、バタン・バタン・バタンと大きな音でみんな飛び起きた。テントの雨よけのシートの重りの椅子が吹き飛ばされた音だ。それから突風がふく雨嵐の状態でずぶ濡れになりながら、テントを飛ばされないように1時間必死でテントを押さえていた。3時が過ぎると風がやみテントを抑える手や足を離すことができた。すると私は突然おなかがすいてきた。他の人もいっせいに「おなかが減った」と言い出した。皆で不思議がっていると「人間というのは安心するとおなかが減るんだなあ。」と誰かが分析し納得した。その後も雨でずぶぬれのテントの雨除けシートを飛ばされないように足で抑えながら空腹のままみんな寝込んでしまった。後から聞いた話だが、映画を撮りに小さなテントで寝ていたカメラマンが「テントが吹き飛ばされたので、ハンストテントにカメラを持って逃げ込んだが、皆が嵐と格闘している場面をとれてよかった。」と言っていた。映画人根性を見た。ハンストテントの楽しい思い出だ。 6月22日 ハンスト4日目(Zoom記者会見)
いよいよ10時になる。テントにも人が集まりだし、マスコミもどんどんズームに入ってくる。やるしかない!と定刻でズームの報道提供が始まった。具志堅さんの短い発言の後、米退役軍人のダグラス・ラミスさんが発言する。ダグラスさんは「ベテランズ・フォー・ピース」という米退役軍人の平和団体を作っている。「遺骨が入った土砂を基地に使うなんてグロテスクだ。信じられない。先輩の眠っている土砂を基地には使わせない!」「米国は宗教に熱心な人が多い。これはおかしいと思うだろう」などと訴えた。また「具志堅さんの手紙を英訳してアメリカのDPAA(米国防省捕虜・行方不明者調査局)に送り3日前に届いたことを確認したので何らかの返事が来るだろう」と話した。
韓国からイ・ヒジャさんが発言した。沖縄戦遺族のパクチュナさんコン・スチョンさんは、足が痛かったり、体が悪く参加できないとのこと。「動員した日本は遺骨を家族に帰さなければならない責任がある」「私たちが闘うのは家族だからだ。戦没者の血の染み込んだ土砂を戦争基地に使うのは絶対に許さない」と声を大きくした。
沖縄戦遺族で81歳になる城間恒人さんの訴えは衝撃的だった。「父と兄妹8人を亡くし3人の兄弟が遺骨が見つからない。当時、死んだばかりの遺体は踏み越えていけるが、数日たつと腐ってお腹が膨れてぶよぶよになる。子どもの私には踏み越えることもできない遺体がそこら中にあった。それが南部だ。私の3人兄弟の骨が入っているかもしれない。南部の土砂を基地に埋めるなんて絶対に許せない」。具志堅さんは「城間さんの話を聞いただけでも南部土砂での辺野古埋め立ては絶対に許せない。なんとしても止めます。」と決意を語った。このズームの報道提供では国内で沖縄テレビ放送・赤旗そして韓国ではハンギョレ新聞・連合ニュースが報道した。今後いくつかが予定されていると聞く。 城間さんの話を聞いて「戦没者の血と肉と骨が染み込んだ南部の土砂」という言葉のリアリティーを本土の人たちに伝えていかねばと思う。ダグラス・ラミスさんイ・ヒジャさん城間さんの訴えはしっかり伝わり報道された。 6月22日(摩文仁平和記念公園) お昼の集会が12時から始まる。具志堅さんも韓国や台湾、アメリカの遺族と連携していく方向を訴える。昼からも署名の集まりは人の流れがないので鈍い。1人の方とDNA鑑定の話になりDNA鑑定の申請を受け付けることになった。目が覚めた。明日は23日だ。遺族が続々と慰霊にやってくる。毎年平和記念公園の片隅で数千枚のビラを配りDNA鑑定の呼びかけをしていたのを思い出した。昨年はコロナのためにできなかったので、やりたい人がいるはずだ。具志堅さんは座り込んでマスコミや遺族の対応に追われるため、明日は私1人で署名していただいた遺族一人一人にDNA鑑定を呼び掛けようと決意する。 6月23日 ハンスト5日目 朝(摩文仁平和記念公園) 昨日お寺で寝て元気を回復した私は、お寺で朝から温かいお茶を飲み6時にハンストテントに到着。毎朝誰かが新聞を持ってきてくれる。「金沢市で南部土砂の採掘反対の議会決議が上がったって」と話になる。全国に広がっていくんだろうなと思う。 日本山妙法寺の面々が7時半から平和行進に出るので、今日は頑張ってテントの行動をしよう、DNA鑑定の呼びかけをしようと最後の力が湧いてくる。一方テントで毎日泊まる具志堅さんの体力が限界にきているのが見ていてわかる。今日は遺族が平和の礎にお祈りするため続々とやってくる。式典はコロナの緊急事態宣言の影響で30人でやるそうで、目と鼻の先だ。署名をしよう、具志堅さんを激励しようと、次々遺族がやってくる。毎年23日には小さなテントを張り行動しているが、今年は違う。県民1人1人が怒っている。「絶対こんなこと許してはダメ。がんばりましょうね」と皆、具志堅さんに声をかける。 署名では遺族用の署名が一般の人と分けて受けつけられている。知事に遺族の声を伝えようという考えだ。遺族用の署名をしてくれる人にDNA鑑定の声をかける。「どこで亡くなったかわからないんですよ。遺品が出たわけでもないし」と言うので、「そのためにDNA鑑定があるんです」「すぐそこの安置所に700の遺骨がある。そのご遺骨を鑑定しているんです。そのご遺骨と遺族のDNAを合わせるんです」と答える。23日は18家族が応募した。日本山妙法寺の女性のお坊さんも「ご遺骨は見つかっていますか。ご遺骨が800ほどあってご遺族と照合するんです」と話しかけだした。丁寧に優しいことばで数家族の申請をいただいている。日本兵遺族のお孫さんの女性もDNA鑑定の声をかけ出した。私の目の前でどしゃ降りの雨の中取り組まれているDNA鑑定の集団申請の呼びかけは、「科学」という難しい話ではなく、まさしく宗教者や遺族の愛の活動だ。 知事がテントに
デニーさんがやってきた。2人が握手する。具志堅さんから「辺野古基地の設計変更申請を不許可にするとき、南部土砂の使用は人道的に許させないことを不許可の理由に入れてほしい」と訴えた。その後、遺族から知事への訴えがあった。知事は「できることを一生懸命頑張りたい」と答えた。フラッシュがたかれると同時に「デニーさん頑張れ!」の声があちこちから起きる。拍手が次々起きる「デニーさん頑張れ!」の声。私はなんという現場にいるのか、沖縄の遺骨を含む南部土砂の採掘問題が県民に戦争を思いおこさせ、亡くなった家族のことを思い起こさせ、遺骨を戦争基地に投げ込むな!血が染み込み肉が腐り骨が混ざった南部土砂を掘り返すな!遺骨を守れの声が知事の大きな後押しとなっている。6月23日慰霊の日、沖縄の心は具志堅さんとともにあった。 知事がテントを離れてから 少し遅めの昼集会が始まった。慰霊に来た遺族もたくさんおられ、テント周辺に300人はいる。少し雨がやんだがテントは次々と署名に来る遺族やDNA鑑定の呼びかけでごった返している。すると中学生と付き添いのお父さんがやってきた。「遺骨を3体見つけたんです。弁当箱に軍の部隊の名前や氏名が書いてある。どうしたらいいでしょうか」とスマホの写真を見せてくれる。コロナの関係でボランテアが海外に行けないことや、具志堅さんのたたかいもあり今年に入り県の遺骨発掘が活発化している。2020年3月には8体の子どもを含む完全な遺骨が見つかって話題となり今DNA鑑定を待っている。日本青年遺骨収集団も沖縄に入り20体の遺骨を昨日収集したそうだ。この中学生も関心を持って見ているから遺骨を見つけ相談に及んだと思う。仮安置所で700体の鑑定を待つ遺骨と言っていたが、800体に迫っていくかもしれない。具志堅さんの集会発言の後、早速具志堅さんと中学生を引き合わせ連絡先を交換する 集会では遺族の署名が400人、一般の署名が800人テントで集まったと報告された。発言を求められ皆さんの前に立つ。「鑑定を待つ遺骨が平和記念公園内に700体あり、3月にも8体のご遺骨が見つかり、昨日もボランテアが多くのご遺骨を見つけたそうです。次々増えている。遺族のDNA鑑定は県民・日本兵遺族合わせ1000名になり、法制定以降DNA鑑定で1人のご遺骨が北海道に帰りました」と説明した後、国の責任について2つ訴えた。「未だご遺族との合致が少ない理由を、厚労省は亡くなった人数にくらべて遺族の申請が少ないと言っています。なぜ私たち民間団体に遺族の申請を任せっきりなのか国がやるべきことではないのか!」多くの拍手が起こった。そしてもう一つ「戦没者が眠る南部の地、祈りの場である南部の地を守ること、戦跡公園として守ることが国の責任なのに、掘り起こすとはどういうことだ!」と訴えるとまた大きな拍手が起こった。 私は飛行機に乗るため3時過ぎにテントを離れたが、沖縄の地元テレビが6時からハンストテントを現地中継したいという連絡が入り、5時終了の予定を6時半テント撤去に変更し具志堅さんはハンストを続行するとのこと。本当に身を削る闘いだ。
25日朝日新聞の全国紙に厚労省の戦没者遺骨DNA鑑定の広告が出ている。「沖縄・硫黄島・タラワ環礁(キリバス共和国)の戦没者遺骨をご遺族のもとへ」遺族へのDNA鑑定の呼びかけと10月から地域を限定せずに実施される予定についても書かれている。 5月に川田龍平議員を通じて国会で、遺族への周知はホームページではなく新聞広報や郵便を通じて行うように質疑してもらった成果だ。しかし、全国紙に加えて北海道や西日本新聞などに出ているのに、沖縄主要2紙には掲載されている様子がない。沖縄県民を無視するのか!と怒りがわいてきた。さっそく具志堅さんと相談を開始する。具志堅さんは全国の地方自治体決議実現に向けて手紙を書くと言っている。 東京の日本山妙法寺の方から7月15日の東京での韓国人遺骨問題の宗教者の学習会講師の打ち合わせ電話がかかってきた。太り気味の私の体は4キロやせて少しすっきりした。疲れもとれ、気持ちは沖縄のエネルギーで充満している。 韓国人遺族のDNA鑑定集団申請という東京での大きな闘いの準備を進めていく。 ◆国際Zoom記者会見の模様をご覧いただけます。 ⇒ https://youtu.be/RFVmeSEBkfM |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南太平洋タラワで収骨された戦没者遺骨が韓国の遺族の元へ!
・ハワイのDPAAのチン・ジョンヒョン博士は、日本のNGOが収集した遺骨がDNA検査などの個人を識別する手続きも経ずに、現地で直ちに火葬することを知り、2018年4月この事実を韓国国防部の遺骸発掘鑑識団に知らせた。2018年9月21日行政安全部過去事関連業務支援団はDPAAに対しては遺骨の管理状況と処理計画について問い合わせ、日本に対しては遺骨の任意の処分を禁止するように要請した。 ・2018年10月29日韓国政府は、韓国人と推定される遺骨について、米国とキリバス共和国に対しDPAAが発掘したアジア系の遺骨について日本に一括して引き渡すことを禁止するように申し入れた。 ・2018年11月8日日本政府は韓国政府に対しDNA鑑定のための遺骨を除いては火葬する方法をとっており、韓国人と推定される遺骨を発見した場合は韓国に通報する予定と説明した。(つまり韓国人とわかる遺品が無ければ知らせないということ) ・2018年12月14日韓国行政安全部他関係者がハワイDPAAを訪問。韓米の円滑な協力関係のために業務協約(MOU)を締結した。 ・2018年12月27日韓国政府は行政安全部を中心に、国立科学捜査研究所(NFS)などと関係機関協議体をつくり、支援団は2019年3月から遺族の遺伝子検査のために全国83に保健所の協力を得て検体を採取し391人の遺族をのうち、184人に対し2019年6月まで遺伝子鑑定を実施した。 ・2019年3月19日から4月1日までハワイとタラワの保管所において、9月22日から10月1日までの間はタラワのベティオ島においてあらに発見された遺骨の試料を採取した。 その資料は152個(ハワイ72個タラワ80個)である。 ・2019年4月日本は厚労省関係者が遺骨の資料を持ち帰った。 ・2019年8月26日DPAAハワイ支部において、国立科学捜査研究所(NFS)とDPAAハワイ支部長との間で業務協約が結ばれた。この場でタラワ#46について遺族と親子関係99.9996%の成立の可能性を明らかにした。遺骨本人チェ・ビョンヨン(崔乗淵)さん。全羅南道霊光市で80代の息子2人が待つ。 ・国科捜の鑑定書は2019年10月24日に発行され、2019年10月30日付けで日本の大学研究所にて作成された鑑定書もDPAAに送付され、米国のAFDILの鑑定書は2019年11月6日である。 (アメリカの態度) ・2018年8月時点「DPAAが行うべきは米軍の行方不明者を捜すことで終わり」「もし韓国政府の要請に協力する場合、これまで日本と太平洋地域での円滑な遺骨発掘などにより積み重ねてきた友好的な協力関係に亀裂が入り得ること、また韓国政府が人道主義的次元でなく韓日の歴史関係を政治的イシューにする恐れがある」と懸念を表明。 ・これに対し韓国政府が外交部を通じ「政府の人道主義的立場と韓国人の遺骨の奉還の意志をつたえ、駐ホノルル領事館もDPAAハワイ支部を訪問して関心を促した。 ・2019年8月26日DPAAハワイ支部において、国立科学捜査研究所(NFS)とDPAAハワイ支部長との間で業務協約が結ばれた。 (日本との話し合い) ・2018年10月30日 遺骨に関する韓日課長級実務会議を日本側が拒否 ・2019年11月6日 タラワで発掘された遺骨で韓国人が確認され日本外務省で課長級実務協議が行われた。5つの議題の中でタラワで確認された韓国人遺骨について、2008年から2010年に東京の祐天寺から奉還された軍務員の例を挙げ同一条件(遺族弔慰金・遺族の経費・日本側高官の謝罪)で礼遇するように要請したが、遺骨が現在米国に管理されているのでこの事案は米韓で話し合う事項だと韓国の意見を断った。 ・2020年1月7日、日本外務省の要請により政府ソウル庁舎にて課長級実務協議が行われた。主な議題は「民間労務者の遺骨奉還」タラワの遺骨と沖縄の犠牲者に対する遺伝子検査の対照は、日本側の要請により議題から除外された。 (返還に向けて) ・遺骨はキリバス共和国タラワ環礁ペティオ港にあるヒストリーフライトの保管所に預けられているが、コロナでストップ。日本政府はかかわりを持とうとしていない。 「今後の課題」 2019年、政府はこれらの犠牲者の遺骨を奉還するために忙しく現場を訪ね歩いた。日本、米国、ロシア、中国をはじめ、太平洋戦争激戦地の関連諸国と遺骨奉還問題を協議した。韓国人と推定される遺骨が発掘されたという消息が聞こえてくれば、遺族と迅速な身元確認手続きを踏むために、国立科学捜査研究院に遺伝子識別情報のデータベースも構築した。
タラワに残された韓国人犠牲者の確認は、韓国と米国、日本が参加した中で、科学的分析と国際協力によって得られた重要な事例である。韓国は、米国が憂慮した韓日歴史問題とも結びつけなかった。純粋な人道主義的次元から遺骨の奉還が行われるだろう。 私たちは無謀な戦争によって犠牲となった韓国と中国、台湾など多くの国の若者が犠牲になったことを記憶しなければならない。遠い異国の地で故郷を懐かしんで死んでいった彼らの遺骨のかけらだけでも家族のもとに返す取り組みには、お互いに粛然と謹んで哀悼の意を表するべきであろう。 硬直した韓日関係のトンネルの終わりが見えない。歴史を忘れて欲だけを前面に立て生きていく人々がつくり出した結果である。無謀な戦争で死んでいった韓国と日本の若者たちを思えば、遺骨奉還の問題は政治の論理に覆われてはならない。日帝強制動員犠牲者の遺骨の奉還が、許しと反省の人道主義の次元で行なわれる時、硬直した韓日関係をひも解く糸口になるだろうと思う。突然襲ってきたコロナ禍事態により、故?崔炳連氏の遺骨をいつ奉還できるか先が読めない。戦場に連れられたとき、生まれて100日も経たなかった息子は80歳の高齢になっても父を慕っている。コロナ19が一日も早く消滅し、二人の親子が再会を果たす日を待ちわびている。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
読書案内 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
GUNGUNインフォメーション |