在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター 「未来への架け橋」 NO.92 (2019.9.7発行) |
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強制動員問題解決のための国際会議 |
植民地支配の清算から目を背ける安倍政治にNO! |
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遺骨問題で国際会議参加のため韓国へ(上田)
14日午後からは国際会議に参加。報告者は17人。一人目の報告が終わったぐらいから会場は大混乱となった。ある遺族団体が「自分たちが国際会議の構成員に呼びかけられていない」と騒ぎ、会議妨害が組織的に始まった。主催者側は何度も注意をするが、会議を混乱させるのが目的のようで収拾がつかない。結局、途中でいなくなった。報告者もだれも驚いていない。激動日韓情勢の中で何をしたらいいのか分からない人たちがいて、こういうことが起きているのだと、妙に納得する。 さて、今回私はレポート文書の「はじめに」を、最も力を込めて短く書いた。「安倍内閣は植民地支配被害者に対し彼らと遺族を冒とくし、加害者の過去を忘れさせ、加害者の歴史を消し去ろうとしている」と。報告時間が少なく「はじめに」の部分は省略し遺骨問題を報告したが、ハンギョレはこの「はじめに」の部分を引用し報道した。私の怒りが8月15日韓国市民の怒りと同じだったということだ。遺骨問題の前進は次回のニュース(10月第5回厚労省交渉)まで待っていただくとして、会議では崔洛(チェ・ナックン)さんが5月に家族を連れてお父さんの動員地、貝島炭鉱跡を私たちと訪問したことを報告。また沖縄の沖本さんが本部町の韓国人遺骨と日本人遺骨が埋葬された場所で遺骨を発掘し韓国に奉還するために会を作ったことを報告した。沖縄では朝鮮人遺骨問題が県民のDNA鑑定とともに解決すべき課題として大きく報道されている。この日は慰安婦問題の集会も屋外で大々的に行われていた。 強制動員問題解決のための市民大会・行進に参加 いよいよ8月15日当日。解放74周年「強制動員問題解決のための市民大会」と行進がソウル市役所前広場で開催された。台風の影響の雨の中2000人が集い、日本大使館まで行進した。李煕子(イ・ヒジャ)さんが集会で激をとばす。日鉄・不二越原告も参加し、雨の中デモの先頭に立つ。強制動員問題での大規模なデモは初めてだそうだ。民主労組が動員をかけている。「安倍内閣を糾弾する」「強制動員を謝罪しろ」「歴史の主人公は私たちだ」コールは続く。すごく感動する。「反日デモ」とレッテルを貼られる理不尽さを感じる。昼から夕方にかけていろいろな団体が雨の中、強制動員問題の屋外集会を繰り広げていた。 夕方になると、反安倍の大集会が光化門広場で始まった。会場に向かう途中の文在寅退陣集会は確かに組織されていたが、混沌としていて高齢者が多い印象だった。しかし反安倍の大集会は、若い人や子連れ、中高生などが集まりどんどん膨れ上がる。安倍政権を批判する歌や音楽が披露される。雨も上がりみんな楽しそうで元気だ。一時のNO!JAPANのスローガンはなくなり、「NO安倍」一色になっている。主催者は10万人、テレビは3万人と表示しつつ数万人と言っている。多すぎてよくわからない。市民が不買運動に自発的参加しているので集会参加のみが市民にとっては意思表示の中心ではないというが、それでもすごい。 夜、テレビでは 韓国の独立運動の女性闘士ユ・ガンスのテレビドラマをやっていた。日本の警察に監獄で痛め続けられている。植民地支配で日本が何をしてきたか。何年、韓国を植民地にしたかさえ多くの日本人は知らない。朝鮮で何をしたかほとんど知らない日本人が教育やテレビやインターネットで作られてきている。 2019年8月15日韓国のデモの中で、植民地支配被害者を韓国社会が守るという大きな歴史の一歩が築かれたことを感じた。一方で、加害者が被害者のようにふるまう日本の現実の中で、韓国人軍人軍属の遺骨問題という事実を沖縄から本土に広げていくことの意義が大きくなっている。 まずは10月第5回厚労省交渉に全力を上げ、韓国人沖縄戦遺族167名のDNA鑑定データーと遺骨との照合を日本政府に認めさせなければならない。
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母の遺骨を探す70代の女性は、「当時1歳10か月ぐらいだったが、おんぶされていた母が頭に銃弾を受け即死した。祖父母が帯を外して逃げてくれた。翌日祖父母は母が倒れた場所に行ってみたが、遺体はなかった。後日祖父母がこのあたりだったという場所から石を拾ってきてお墓に入れた。今はどこだったか場所も分からないが、自分が生きている間にDNAで遺骨が見つかれば」と話された。 喜屋武さんは「甥になるが申請は可能か」と質問。「国からの通知に死亡場所は石原と記されていたが、所属していた石部隊の生き残りの人から浦添の壕から出たところで弾が当たったのを見たという証言を聞いた」。別の女性からも「父と伯父の戦死公報が届いたが まったく同じ文章で名前だけが違っていた。国は全然わかってなくて、南部であればどこか書いておけばいいという風に記されたと思われた」と。また「家族8人が亡くなったが内2名の遺骨だけがある。当時10歳だったので、南部であることしか分からない」という証言もあった。 具志堅さんは質問に応えて、喜屋武の近くで兵の遺骨収容をした時のことを「多分女性、しかも高齢と思われる遺骨が出てきた。軍民混在だったことが分かる。年寄り、子どもの遺骨が一緒に出てくる。敗残兵なのか何も持っていない場合もある」「遺族に送られてくる死亡通知は、たいてい部隊が全滅した日と場所が記されている」「国ははじめ県民にも資料を出してくれといっていたが、やっと出す必要はなくなった」(沖縄戦の実相とかけ離れ、国ですら分からないことを県民に資料を求めるのは無理難題)。また捕虜収容所について「怪我をして捕虜収容所で亡くなった場合、家族に知られていないことが多い。金武の収容所で亡くなった230名中68名のウチナンチュについて平和の礎で検索すると、2名以外は違った場所が記録されていた」。 北海道出身で妻が沖縄出身という方は「父の兄が沖縄戦で亡くなっている。具体的なことは聞いていない。沖縄に来て遺骨収容を熱心にされている事を実感した。北海道で実感する事はなかった。情報を集めて、これからも参加したい」と。東京から追悼式に参加するため息子や孫5人で来たという方は「父は戦争の末期に沖縄へ送られた。小学校2年生の時に遺骨箱をもらいに行った。蓋を開けると中には砂が入っていた。前回DNA申請したが、照合するものはなかったという回答が来た。けれど全て終わったわけではない。諦めないでやって欲しい。生きている限り頑張っていきたい。親父の骨を墓に納めてあげたい」と語られた。 摩文仁で戦後遺骨を拾い集めたという方からは「当時拾った遺骨は魂魄の塔に納めたが、戦没者墓苑に移されてしまったのか」という質問が出された。具志堅さんは「魂魄の塔には、戦没者墓苑に分骨したと表示されている。各地にある慰霊の塔を確認したい。中を見せてほしいと言っている。遺骨が残っていれば、DNA鑑定の対象になる。国も慰霊の塔を調査すると言ったが、動かない。一刻も早い調査をしたい。マスコミも是非追及してほしい」と呼びかけた。 スタッフから「沖縄で収容される遺骨には 韓国人の遺骨が100人中2人の割合で混ざっている。韓国で今DNA鑑定の申請に参加したいという声が上がっている。協力してやっていきたい」また「具志堅さんは8月15日東京の戦没者追悼式で一人ででもチラシ配布をして、沖縄だけでなく南洋群島の戦没者遺族にも呼びかけ、遺族に遺骨一片たりとも返して欲しいという思いを訴えていきたいといっている」と8月に引き続き行動を継続することが伝えられた。 具志堅さんは「国に要請をする時に遺骨を返して欲しいというお一人お一人の声が大切。それを背中に受け、どうしてもやって欲しいと国に声を上げていくことができる」と訴えるが、今回も具志堅さんの背中を強く押す意見が出された。受付の名前を書くのもつらいというように、74年以上前に起こった事を昨日のことのように語る遺族の方々の姿を胸に焼き付けていきたい。
6・23慰霊の日に摩文仁でDNA鑑定集団申請を受付
毎年ご高齢の方が長い時間立ったまま大切な体験を聴かせてくださる。13歳の時摩文仁へ先生に連れられて遺骨収容をしたという高齢の男性は『このあたりは』と周囲を指差しながら「遺骨を踏まないで歩ける場所はなかった」と。思わず自分の足元を見てしまった。雨の中だったが、テントの中で申請される姿が一日中見られた。数人の戦没者名をどう書けばよいか、しかも海外移住先での死没もと尋ねた方は娘さんと一緒に家で書いてくると数枚の申請書を持って帰られた。 今回集まった申請書は22日説明会での15枚と合わせて70名分。その他電話での問い合わせ、申請書郵送の依頼もきている。6月27日にもう一度説明会を開き、8月15日までに集まった分は具志堅さんが直接厚労省に提出する。 説明会で北海道からの参加者が、「沖縄に来て遺骨収容が熱心にされていることを実感した」と発言されたが、私たちも沖縄内外の温度差をどう埋めていくかが問題と感じる。国が戦没者に責任を取るという当たり前の仕事をやるまで見届けたい。遺族の元へ一日も早く遺骨が帰るよう力を尽くしたい。 |
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崔洛さん家族による
翌日は朝から、貝島炭鉱跡にある炭鉱記念館を訪問するとスタッフの方が「案内しましょう」と当時の寮跡などを案内してもらう。2014年に現地を訪れた際、偶然当時のことを知る山中勇さんと出会ったが、今回も電話してみると、「すぐに行きます」と駆けつけてくださり、急遽公民館で交流会。山中さんは当時11歳という少年時代の記憶から家族の皆さんからの当時の様子や光景などの質問に答えてくださった。「寮には朝鮮人・中国人がいた。朝鮮に人は長いパイプで家の前に座りタバコを吸っていた。葬儀の光景が印象的。大きなのぼりを立てて、泣き手がいた。貝島炭鉱から逃亡した人の集まっていた炭鉱が近くにあった。労働者は相当圧迫があったと思う。当時の学校には朝鮮の子も来ていた。子供同士にいじめはなかった。こういう日韓市民の交流が大事、政府間がもめているだけ。私が生きている間はいつでも来てください」と言ってくださり、最後は公民館前の坑口碑で記念撮影した。その後、別の第5坑口記念碑まで移動し、家族によるキリスト教式での追悼会。碑にお父さんの写真と帰国を待ち続けて亡くなったお母さんの写真を並べ、家族のメッセージを読み上げる。ナックンさんの感動的な手紙に皆が感涙。涙、涙。法事の後はきちっと会食したいという弟さんの要望で、和食の店で寿司会席の食事。その後、「温泉に入りたい」という一行の要望に応えて別府へ向かった。翌日は別府の地獄から、阿蘇火山を経て熊本へ抜ける九州の大自然を満喫していただき、福岡へと戻った。 「お父さんお母さんを追悼したい」という家族の絆を感じる感動的なツアーだった。
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ノー!ハプサ第2次訴訟
判決は、原告の訴えを一切事実認定しなかったにも関わらず、「被告國神社には、一宗教法人として憲法20条1項の規定する信教の自由が保障されているところ…我が国における信教の自由の保障の基本的な枠組みに照らせば、本件合祀行為等が信教の自由の保障の及ぶ適法な行為」と遺族に無断で行われた國神社合祀を「適法」とまで言った。 今回の判決のもう一つの特徴は、「植民地支配」について、一言も言及していないことだ。原告側は植民地支配下に行われた朝鮮での民衆弾圧と加害者の國神社合祀、原告の肉親の悲惨な死の実相、侵略神社としての國神社に合祀される韓国人遺族の苦痛を詳細に明らかにしてきたが、判決は「原告らは、被告國神社の有する『歴史観』なるものをるる論難するが、上記判断を左右するものではない」と歯牙にもかけない。2011年7月21日のノー!ハプサ第1次訴訟一審判決が「韓国国籍を有する原告らが、植民地時代に日本国に徴兵、徴用されて第二次世界大戦の戦場に赴き、死亡した者の遺族であることを踏まえると・・・原告らの歴史認識等を前提にすれば、理解し得ないわけではない」と、曲がりなりにも「植民地支配」に言及したことと比較しても著しい後退だ。本件訴訟は植民地支配下に軍人軍属として強制動員し、死に至らしめながら、戦後は一切の戦後補償措置から排除する一方、遺族に無断で日本政府が國神社に戦没者情報を調査し提供し、宗教行為である合祀を國神社と共同で推進し、その結果、植民地支配の加害者と一緒に天皇の侵略戦争を担った「神」として祀られるという苦しみを遺族に負わせ続けている事件である。遺族の苦しみの根源は何かということを出発点にしてはじめて、國神社合祀の暴力性が理解できる。ところが、裁判所の関心は、國神社合祀事務が形式的に合憲・合法かどうかにしかない。そういう意味では、裁判所は本件訴訟の本質を全く理解しないまま判決を書いたと言わざるをえない。 今回の判決は、植民地支配の歴史的事実さえ認めず、アジアの民衆からの人権回復の訴えに憎悪をむき出しにするヘイトスピーチと本質的には変わらない。日本社会の現状を象徴する判決であったと言える。だからこそ我々は負けるわけにはいかない。6月7日、原告らは東京高等裁判所に控訴した。不当判決に立ち会った、原告、弁護団、支援者で、これでもう終わりだと考える者は誰もいない。 |
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第14回「平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動」(8月11日)
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