在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター 「未来への架け橋」 NO.91 (2019.3.9発行) |
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ソウルで3・1独立運動の日に |
遺骨を故郷・家族の元へ帰すため、 |
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1月28日南英珠さんが亡くなられたと訃報が入った。南英珠さんのお兄様、一家の跡継ぎの南大鉉さんは1942年20歳で徴兵された。戦後も消息がわからず、お母様は心労のための病で1946年に亡くなられ、一人息子の消息を探し求めたお父様も間もなく亡くなった。南英珠さんは「両親の悔しさを必ず晴らさなければならない。兄を安らかに眠らせる責任がある」と消息を探し、2003年ようやく留守名簿からお兄様の記録「1944年8月10日南洋諸島ニューギニアのヤカムルで戦死。同時に靖国に無断合祀」が判明した。 その後ニューギニア日本人遺族の岩渕宣輝さんの助力により、高仁衡さん(2012年10月逝去)と共にニューギニアに行ったのは、2012年。高仁衡さんのお父様の死没地ボイキンと、南英珠さんのお兄様の死没地ヤカムルへ行き、祭祀(チェサ)をあげた。前日、南英珠さんはホテルの部屋で、韓国から持ってこられたお兄様のための白いチョゴリを広げ 丁寧にしわを伸ばしておられた。青く広がる海に向かって、オラボニー!(お兄さん)と叫ばれた声を思い出す。道なき大変厳しい行程であったが、帰ってからも「もう一度行きたい。今度はお兄様にご飯をいっぱい食べさせてあげるのだ」と言われていた。南英珠さんはいつも李煕子さんと共におられた。2次のノーハプサ原告となり、李煕子さんも心強かったと思う。大阪では李煕子さんと一緒にキムチ教室にも来ていただいた。ニューギニア行きのサポートをしていただいた日本人遺族の阪本良子さんからは、私が韓国に行く度に南英珠さんへのお手紙を預かり、また返信を持ち帰った。いつも私たちにも気を使って下さった。もうソウルで会えないと思うと寂しく残念だ。しかし今も南英珠さんの叱咤激励の声が心の中に響く。何とか応えていきたい。(木村) |
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「遺骨を家族の元へ」
また、私たちは日韓の研究者との交流も進め、DNA鑑定で日本と朝鮮半島の遺骨の区分が可能なこと(これは主に縄文人のDNAが日本民族の特徴となっているため。)、DNAが取れなくても安定同位体比の検査により、日本出身か朝鮮出身か区分可能である(韓国の朝鮮戦争の遺骨の分析資料と比較すれば可能)ことを、厚労省に突きつけてきている。つまり遺骨を韓国に返すことは日・韓両政府が決断すれば可能なところまで来ている。南英珠さんと出会い、慰霊の旅は終わったが、私たちは韓国遺族への遺骨返還の旅を歩んできた。その最後の局面で南英珠さんが亡くなられたのは残念でならない。ご冥福をお祈りするとともに、私たちはこの韓国人遺骨返還の旅をやり遂げることを南英珠さんに約束する。 「たとえ一片でもいい遺骨を帰してほしい」の遺族の思いに応えよう!
現在、沖縄の県民と国内の軍人合わせ600人を超えるDNA鑑定の照合が行われている。結果は思わしくないが、遺族の皆さんは「まだ終わっていない」と前を見据えている。20万人が亡くなったと言われる沖縄戦で84体の遺骨と700人の遺族の鑑定では照合の対象が少なすぎると言わざるを得ない。仮安置所には500の四肢骨があり、南北の塔からも500以上の遺骨が移管されている。慰霊の塔には手つかずの遺骨がたくさん眠っている。また遺族についても厚労省も県も完全に広報をサボタージュしている。ガマフヤーなど市民団体だけが継続して集団申請運動を担っている状況です。遺族に残された時間は少ない。 沖縄では、沖縄戦以外の海外戦没者(フィリピンなど)も鑑定を望む声が上がり厚労省に集団申請名簿を受理させている。関連して新たな動きが起きている。 硫黄島(東京都小笠原村)で、戦死した日本兵で所属部隊がいた地域で収容された保管されている遺骨が焼骨されず(DNA鑑定できる)保管されている。遺族がDNA鑑定を望んでいるが厚労省は身元が分かる遺品が無ければ鑑定はしないと拒否している。遺族は「たとえ一片でもいい遺骨を帰してほしい。そのためにまずDNA鑑定を」と訴えている。硫黄島での戦死者は2万人約1万体の遺骨が収容されている。現在2名がDNAの鑑定で身元が判明した。 沖縄でも、当初は「遺品が出なければ鑑定しない」と厚労省は繰り返していたが、のちに部隊記録によって遺品が無くても鑑定するとされた。さらに軍の死亡記録自体が根拠が薄いことを追及し、沖縄中南部の戦死記録のある軍人、記録の無い県民遺族のDNA鑑定の集団申請も受理させ鑑定を行っている。沖縄でできたことは硫黄島でも、どこの島でもできるはずである。この取り組み自体が遺族の気持ちを少しなりとも癒してきたのは事実である。遺骨収容推進法は家族に遺骨を帰すのは国の責務であると明記した。責任放棄の理屈を言うのが厚労省の仕事ではないはずだ。硫黄島の遺族の皆さん、アジア太平洋地域の遺族の皆さんと更に連携を築きDNA鑑定事業の次の段階に進む決意だ。 |
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東アジアの平和のための
15日具志堅さんが試掘されている宜野座収容所跡で発掘を行った。収容所跡は沖縄中部宜野座村惣慶にある。美しい砂浜の広がる海岸からアダンが群生する中に潜り込むように入り、数分歩くと現場があった。道の途中に半分に割られた墓石が3体寝かされていた。具志堅さんは石に刻み込まれた「仲里ツル」という名前を示しながら、「家族が目印として建て、そこから遺骨を掘り出した時に既に遺骨を収容したという印に墓石が割られたのだろう」と話された。先に進むと1メートルぐらい掘られた場所が現れた。この穴を更に1メートル程掘ることと、周囲も試掘をするのが今日の作業。当時の地表から更に埋められたであろう分掘り起こす必要がある。具志堅さんが前回発掘した時ここから頭蓋骨の一部が見つかったという。若者たちが先頭に立ちスコップで掘り上げる。周囲では作業の妨げになる朽ちた倒木を移動したり、足場にある滑る草を刈り取る。せっかく参加したのだから、私も盛り上げられた土を周囲に移動させる作業に加わった。昼食後も発掘は続いた。多分花立てにでもしていたのであろうガラス瓶と電池に使われていた古い炭素棒が出てきた。今回は残念ながら遺骨を見つけることはできなかったが、祭壇を作り、具志堅さんが持ってこられた頭蓋骨に浜辺に咲いていたお花を供えて、ささやかな追悼を行った。
具志堅さんから収容所について話を聞いた。「沖縄には14の収容所があり、9か所の埋葬地があった。収容所に入ったら助かったと思っただろうが、辺野古のオガワでは4000人余りが収容された内1017人が亡くなっている。死因は飢えとマラリア。逃げることも許されない中、食料はなく年寄りと子どもが先に亡くなった。ここに収容された人数の記録はない。近くのフクヤマの収容所で3000人ぐらいと言われているので、おそらく同じ規模だったと予想される。ナカノ収容所では兵と一緒に朝鮮人軍夫も収容されていたであろう。民間の収容所には おそらく朝鮮人女性も入っていたはずだ。一人で収容され一人で亡くなった人は判らない。大浦崎収容所など一度も遺骨収容がなされていない。遺骨収容は本来 国がやるべきことなのに、国は「そこに本当に遺骨があるのか」と言う。収容所跡から遺骨が出ることを示さないと国は動かない。犠牲者の遺骨を平等に故郷に帰れるようにしたい」 朝鮮人も埋葬されている本部での追悼式
犠牲はどのようなものであったか。1945年1月、彦山丸が渡久地港で軍需品を上陸用舟艇に積み替え荷揚げをしていたところ、2度米軍の空襲を受け沈没した。海中に飛び込んだ者にも銃撃があり犠牲者が出た。当時のことを中村英雄氏や島袋正弘氏は浜で薪を集めて火葬しているのを見ていた。浜から少し上がったところに遺骨は埋葬された。具志堅さんによれば薪の火葬は高温でないためDNA鑑定が可能かもしれないと。地権者の方からも遺骨収容について理解し承諾してくださっている。遺骨発掘は可能だ。 また、「渡久地港で船の上で並ばされた朝鮮人が、ロープを束ねたようなものでぶたれているのも見た。また、ぶたれた朝鮮人が海に落ち、沖縄の人が助け上げたところ、今度は助けた沖縄の人が日本兵に叩かれた。その様子を見て、兵隊は神兵と教えられていたのに怖いなあと心底思った」との証言が残っている。(沖本富貴子さんが集められた) 東アジア共同ワークショップは国を越えて若者たちが協力して遺骨発掘を行うことを目的に進められてきた。夜に開かれた交流で、殿平善彦さんは「日本国籍を持つ以上、我々には責任がある。遺骨発掘は、国家の代わりをするものではなく、国家の責任をより明らかにする作業だ」と。また参加者からは「汗を流しながら共にする発掘により、被害と加害、国籍の壁が少し無くなったように思った」ということが繰り返し語られていた。参加者の交流は宿舎移動の間も含めて継続され、今後に繋がる交流ができた。沖本さんは、シンポジウムで「墓標に名が記されている人の情報、家族を探し,充分話を聞くことが第一ではないか。参加者が手分けし情報を集め共有できないか。そのうえで、遺骨発掘を始めるべきだ」と提起されたがその通りだと思う。 沖縄で遺骨を待ち望む遺族は高齢化している。この場所は埋葬されている人が特定されている。他で見つかる遺骨に比べ家族の元へ返すことができる可能性が高い。その上韓国人の遺骨が出てくる可能性も高く、その家族もわかっている。条件がそろっている。日本人遺族、韓国人遺族、遺骨の帰る先が一件でも見つかれば、希望となるのではないか。 “遺骨を家族の元へ”大切な出発点になるように思う。
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遺骨が伝える「生きたい」メッセージ
この方は埋葬遺骨です。このように手を折り曲げて鉄兜を顔にかぶせていることから埋葬された方。仲間が埋めてあげているんです。お腹の上で指を組んでいます。残念ながら名前のあるものは出てこなかったです。この方もDNA鑑定ができるように頭蓋骨から歯を採取しました。 ホームレスの人に作業をやってもらいました、よく「ホームレスの人ってちゃんと働きますか」と質問されますが。すごくよく働いていただきました。最初は戸惑うのですけど、遺骨が出ると何の指示も必要ありません。それどころかお昼時間になってもやめないんです。終了の5時になってもやめないんです。これは竹串です。金属でやると骨を傷つけるんです。この方が工夫して鉛筆状の木を作って掘っているのです。遺骨に対する思いやりなんです。この方たち55人の半数は本土から来た人たちでした。その中に自殺するために沖縄に来たという方がいました。そんなときに遺骨収集作業に誘われて参加したら、自分も死んだらこういう風になるんだと思ったそうです。この兵士たちは死にたくて死んだわけではない、むしろ生きて帰りたかったのだということがわかって、なのに自分は死のうとしていた。自分はこの遺骨を家族の元へ返してあげたいと、そして自分も帰ると言うんですよ。これって命の教育です。意図したわけではなかったのですが、うれしかったです。 これはこの方が掘り出した遺骨です。上半身がないんです。ここに掌があります。上半身がバラバラになっています。お腹の真ん中に何かありますね。拡大するとわかりますかね。これお金なんですよ。硬貨で五銭。お守りに使われていたんです。戦場に行く人が「死線(四銭)を乗り越えて生還できますように」という意味です。千人針といって腹巻に縫い込んであるのですが、真嘉比で4例出ています。母親だったのか、奥さんだったのか、家族が生きて帰ってほしいという思いの強さなんだろうなと感じました。暑い沖縄で身に着けていたというのは生きて帰りたかったというのがあると思います。そう考えると何とかしてこの人たちを家族の元へ返してあげたいと思うわけです。 これは縦に埋まっているのですが、実はかんざしなんです。2本持っていたんです。聞き取りの中で沖縄で出征する息子に母親が自分の身につけているものをお守りとして持たせたというのです。 これは西原村の幸地という所での現場です。普通原野で亡くなって何年か経つと肉がなくなってへしゃげて広がってしまうのですが、この人の場合は生きているうちに土砂に埋まってしまったのか、4人ともうつ伏せで、被弾した後に運ばれている。段々わかってきたのはこの人たちは全員負傷した後、痛くないような状態にさせてもらっているのです。歩けなくなった後、仲間が運び込んで一人ずつ寝かせて、この人は腕が痛くないように枕をかませていたのです。この人は足を交差させています。見ると左足首に砲弾の破片が食い込んでいて、右足を下に枕にするようにしています。これは湯呑茶碗です。ここに万年筆があります。でも名前はありませんでした。ここに米軍の小銃弾があります。入口からここに撃ち込んでいるのです。この人の頭蓋骨は粉砕しています。この人は水筒を握ったまま亡くなっています。湯呑茶碗にはひびが入っています。おそらく運び込んだ人がそこを去る際に「後で迎えに来るからな」と言って水を残していったのだと思います。そういう情景がこの人たちを見ると思い浮かびます。 今の一番の問題は遺族の高齢化。この作業ができるのはあと何年かしかないと思う。2015年にやっと遺骨収集推進法ができた。法案で「遺骨を家族に返す」とあり、そのためにDNA鑑定を充実させるという。そして遺骨収集をする法人を立ち上げた。しかしこの法律がまだ機能していない。沖縄のDNA鑑定で思わしい成果が出なければ南方までは拡大しないという風にしようとしているのではないかと懸念しています。 |
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最初に原告の意見陳述が行われた。柳さんは「私は1945年1月21日に生まれました。 父は私が生まれる前日の1月20日に動員されました。出産を控えた臨月の妻を後にして、まもなく生まれる子どもの顔も見られないまま、戦場に連れて行かれた父のことを思うと、あまりにも心が痛いです。その後、父からは生まれたばかりの私の写真を送って欲しいという手紙が来たそうです。『元気にしている。息子に会いたい。息子を見たいので写真でも撮って送ってもらいたい。数日でも遅くに来たのなら、息子の顔を見てきたはずなのに…』と書かれていたそうです。」と、柳さんが生まれる1日前に動員されてしまった父への思いを語り、「学校へ通うのができなかったのはもちろん、生きるためにいろんな仕事をしなければなりませんでした。ガム売り、靴磨き、新聞売りをしながら生きてきました。あまりにも生きるのが大変だったので、何度も自殺を考えたことがありました。」と遺族の苦しみを訴えた。そして、陳述を「私は家系を継ぐために、大変苦労をしながらも、死なずに生き残った父の唯一の子です。子としての道理を尽くしたいので、もう一度強く求めます。靖国から父の名前を取り消してください。」との言葉で締めくくった。 最終弁論が予定されていたので、原告、被告双方から最終準備書面が提出された。原告側の最終準備書面は157ページにもなるもので、はじめに(総論・第1章)を内田雅敏弁護士、法律論(第2・3章)を大口昭彦弁護士、事実関係(第4〜5章)、山口自衛官合祀事件最高裁判決批判を浅野史生弁護士、最後に結語(第7章)を再び大口弁護士が陳述した。 大口弁護団長は「韓国人である原告らは、ただ、自分の父・兄、そして自分たち遺族を、人間らしく扱うことを、日本国・國神社に要求しているのである。そのような原告らに対して『あなた達は、あの当時は日本人だったんだ』などとことさらに言って、韓国人の心の奥底の傷を改めて、わざわざ掻きむしるような理屈を敢えて持ち出して、2019年のこの現時点において、1910年(韓国併合)・1939年(創氏改名)・1943〜44年(志願兵制度・さらに徴兵徴用)・1945年8月14日に、時計の針を巻き戻すことを、原告らに要求する権利は、日本国・國神社・全ての日本人には何らないことは明白である。貴裁判所が、この最も端的な理に立って、アジアの歴史において重要な意味を持っている本件事案について、それに相応しい、情理兼ね備わった判断を示して下さることを切に望む次第である。」と弁論を結んだ。 年度内判決が予想されていたが、裁判長は5月28日(火)午後3時に判決言い渡しと宣告した。 |
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