在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター 「未来への架け橋」 NO.90 (2018.8.4発行) |
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植民地歴史博物館建設基金寄贈式で |
「戦没者遺骨を家族の元へ」は世界基準で現在の課題! |
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厚労副大臣に沖縄戦県民遺族のDNA鑑定申請名簿を提出(上田) |
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今年も沖縄で6・23慰霊の日にあわせ集団申請受付(木村)
23日は梅雨明けの日差しを浴び摩文仁で申請受付 23日は、摩文仁の平和祈念公園と魂魄の塔周辺で、チラシ3000枚を配り、集団申請を呼びかけた。 開始前に沖縄恨之碑の会の沖本富貴子さんと一緒にGUNGUNの沖縄戦遺族、権水清(クォン・スチョン)さんの父、云善(ウンソン)さんの名が刻まれた平和の礎に向かい、花とごはんを供えた。礎にはそれぞれ家族の方がお参りに来られている。誰も来られないだろうからと、沖本さんが供物を用意された。近づくと数人の人影が。話を聞くと琉球大学の学生で、先輩の一人が後輩数人連れと、九州からの女性(映画「あんにょん・サヨナラ」でヒジャさんを知ってますという)2人だった。ここに権さんがおられたら、どんなに喜ばれたかと思った。権さんは待ち望んだ刻名をまだ見ていない。 その後、梅雨が明けた沖縄の突き刺さるような日差しの下、集団申請の呼びかけを行った。各地からピストン運行のバスが到着すると、降車する人にチラシを配布。今年はその場で申請書が書けるよう、机を二つ用意した。遺族36人の申請があった。チラシを配ると お一人お一人が亡くなった家族の話を聞かせてくださる。「船が沈んだから、探すことはできない」という方も。沖縄ではマスコミが具志堅さんの活動を伝えている。23日の朝もNHKで具志堅さんが登場するドキュメンタリーが放映されていた。チラシを受け取りながら、「具志堅さん知ってるよ」「頑張ってね」と声がかかる。「本当は国がやるべき事ですよね」と応えながら、炎天下申請を呼びかけた。
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植民地歴史博物館がオープン間近!
植民地支配の歴史遺産が残る南山・龍山エリアの中心に位置
博物館を出てFW開始。まずは博物館から西方向へ徒歩5分にある孝昌公園へ。ここにはもともと朝鮮22代王たちの墓があったところ。龍山に日本軍が入り、ここを公園に作り変えてしまった。光復(独立)後、金九(クム・ク)がここに整備したのが、植民地支配中に樹立した「韓国臨時政府」の主人公、「李奉昌」「尹奉吉」「白貞基」の墓で、まだ遺骨は入っていないが、安重根の墓も用意されている。墓を下りて回り込んだ場所に建っているのが金九博物館だ。すでに入館時間を過ぎていたが、交渉の末、退館時間厳守を約束し入館させていただいた。韓国臨時政府樹立の背景の充実した展示が無料!今度時間をとって見にこようと思った。2階の大きな窓からは李承晩政権に暗殺された金九の墓が目の前に見える構造が印象的だった。その後は夕食タイム。おいしいプルコギを食べ、その後2次会でチョッパル(豚足)の店へ。これが実においしかった。 2日目はホテルから地下鉄で忠武路駅下車。駅からすぐ南の観光地、南山韓屋村へ。ここ南山一体は、1905年に乙巳(ウルサ)条約に基づいて日本が統監府を置いたエリアだ。忠武路から昌徳宮に至る一直線に延びた道路は、昌徳宮にいる朝鮮の国王が統監府に拝謁するために作った道路だという。韓屋村の上に抜けた先にあるトンネルの奥には軍事独裁政権下、KCIAの建物があった。そこで行われた北のスパイと決めつけた政治犯の拷問の方法は、植民地支配下で日本の警察が行った方法と同じだそうだ。日本は戦後も負の遺産を残し続けてきたのだ。南山の北から西へ回り込むと、小さな公園が。そこが統監府のあった場所だ。ここで私は思い出した。2010年日韓併合100年の年に大雨の中、統監府跡を記録する碑の除幕式に参列したことを。統監府の玄関にあった銅像の礎石をその後発見してモニュメントにしている。韓国では解放後、植民地支配下での記憶を「国恥」と呼び、記録を消してきた歴史がある。民主化と並行して、歴史を正しく検証し、記憶することの必要性が認識されてきた。今回の植民地歴史博物館もその延長線上にある。その先頭に立って切り開いてきたのが、民族問題研究所である。古い統監府の写真に写っている大きなイチョウの木や取り付け道路は現在も同じ場所にある。その後、日本赤十字社の跡や、小学校の校庭の片隅に残る「乃木神社」の手水鉢を見学。山菜ピビンパの昼食後は、いきなり長い階段を上る。視界が開けた場所は、朝鮮神宮があった場所の上で、遠くから見えるように、巨大な日章旗を取り付けた鉄塔があった場所だ。坂道を下っていくと安重根記念館があり見学。その後、植民地博物館に戻った。
植民地歴史博物館のキーワードは人権・平和・未来 1階ホールで建設基金寄贈式典が行われた。日本側の賛同者から寄せられた1034万円5千円の基金を「つなぐ会」代表の徐勝(ソ・スン)さんと庵迫由香さんから贈呈。 韓国建設委員会の李離和(イ・イファ)委員長が「植民地歴史博物館のキーワードである人権・平和・未来をテーマに日韓市民が交流し、未来につなげていく空間にしたい」と挨拶。李煕子さんは、太平洋戦争被害者補償推進協議会としての歴史を振り返り、「活動の痕跡である資料が散逸して捨てられてしまう心配がなくなった」と胸中を語られた。
式典の後は、いよいよ博物館の常設展示を見学。これまで韓国内や日本から収集してきた貴重な植民地支配下での品々が展示。治安維持法での検察資料なども展示されている。本来、日本人が他国で何をやったのかを日本国内で展示すべき品々である。2階フロア全てを常設展示に使い、以前の展示に比べて広くなった分、見やすく、また映像なども交えて小学生にもわかりやすく工夫されている。今後、テーマを定めて展示内容に変化を加えていくという。展示も最後に差し掛かったとき、野木さんが私に「ヒジャさんへの贈呈式をしてください」と言う。先日東京でこの式典に合わせて、GUNGUN裁判の横断幕をヒジャさんに寄贈したのだった。2003年の追加提訴の際に九州の岡添さんから贈られた黄色の「靖国合祀やめて!遺骨を返して!」という横断幕は、当時新聞の一面を飾った。その後も不当判決の際などで原告の背景にあったものだ。今後もGUNGUN裁判や「あんにょん・サヨナラ」の資料などを整理して寄贈したい。
博物館お披露目の後は、推進協議会の会員の皆さんが準備してくださった夕食会。ビュッフェ形式でおいしい料理を食べながら交流を深めた。 博物館は8月29日正式にオープンする。龍山・南山エリアへのFWとあわせて、積極的に活用していきたい。
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ノー!ハプサ第2次訴訟第16回口頭弁論の報告(山本)
これを受けて、裁判所は合議に入りました。しばらく出てこないため、裁判打ち切りも心配されましたが、結果的には、原告本人6人の尋問を採用すること、残りの専門家証人については留保としましたが、予定されている10月の期日は開けておいてくださいと裁判所は被告らに伝えました。また、原告らの事実認否の要求に対しては、裁判所からも被告に対して促し、調書にも残すことを明言しました。 いよいよ、9月から原告本人尋問が始まります。同時に専門家証人の採用に向けて、韓国側とも協力し、準備を進めていきたいと思います。6月9日には韓国の民族問題研究所の新しい事務所ビル(1・2回は植民地歴史博物館)で弁護団と証人候補、原告本人尋問予定者の皆さんとで会議を持ち、勝利に向けた決意を固めました。 本人尋問は被告からの反対尋問も予想されます。これまで以上に多くの傍聴者で原告を支えていきたいと思います。
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長崎で「明治日本の産業革命遺産」集会を開催(中田)
その後各「遺産」の存する地域の取組みとして「戦時下長崎における中国人・POW強制労働」平野伸人さん(長崎の中国人強制連行裁判を支援する会) 「長崎の朝鮮人強制労働」新海智弘さん(純心女子高等学校非常勤講師)「三井三池炭鉱と強制労働」城野俊行さん(前大牟田地区高等学校人権・同和教育研究協議会会長)「八幡製鉄所と強制労働 『「世界文化遺産として隠さず歴史の記載をしよう』」兼崎暉さん(八幡製鉄所の元徴用工問題を追及する会)の報告を受けました。 集会感想にも「日本の負の歴史を学ぶことができました。語り継ぐことが大切だと思います。」「初めて知ることがたくさんあっておどろきと感動でいっぱいです。」「この種の講演には初めて参加しましたがとても参考になりました。」などこれまで地元でもあまり知られていなかったこの問題を100名余りの参加者を得て開催することで理解の裾野が少し広がったのではないかと感じることの出来た集会でした。 |
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