在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター 「未来への架け橋」 NO.87 (2017.7.15発行) |
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沖縄・摩文仁の遺骨仮安置所前で |
「ひとかけらでもお骨を、父を母の元に返したい」遺族の声に向き合え! |
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ガマフヤーとともに沖縄戦遺骨DNA鑑定への集団申請行動を開始!!(上田)
ハードルを上げる厚労省に対し、県民の声を反映させるための集団申請 数か月前の3月31日、厚労省は75の歯のある遺骨を、300名の軍人遺族の鑑定をしたが該当者ゼロの結果だったと発表した。ガマフヤーは「3・31厚労省発表 沖縄戦遺骨「身元特定無し」の結果をうけて改善要請の声明」を衆参厚労委員全員に配布した。厚労省が行ったDNA鑑定の遺族への呼びかけに関して、「鑑定呼びかけが軍人遺族にとどまり沖縄一般県民への呼びかけが行われなかった。厚労省は沖縄県の責任にするが、この事業は「国の責務」で行われる事業であること考えれば、国の責任は重大である。・・厚労省は、不確かな戦死記録に固執せず、沖縄戦の戦死者全体と遺族全体を照合するやり方に方針変更すべきだ。今回の「身元確認ゼロ」の結果を見るならば、遺族への呼びかけのやり方の根本的見直しが必要であり、それが鑑定への参加を望む遺族の願いである」という内容だ。 4月20日参議院厚労委員会で、川田龍平議員の遺骨問題での質疑が行われた。鑑定する遺族が少なすぎるという指摘に対し、塩崎厚労大臣は「今年度は・・広報を広く通じて呼びかけるということでご遺族の側からのDNA鑑定の申請を募る」ことを表明した。これは画期的であるが、同時に厚労省官僚は死亡場所確認の必要性を委員会で示唆するなど、いくらでもハードルを上げることができるものであった。もはや遺族に時間はなく、厚労省との力関係を変える必要があった。「6・22戦没者遺骨を家族の元へ6・22沖縄集会」の開催と、遺族のDNA鑑定集団申請の呼びかけを行うことによって、論争の場所を国会から沖縄現地に移した。 5月19日琉球新報は1面トップ記事で「沖縄戦戦没者遺骨、民間人DNA鑑定も申請。ガマフヤー集団で初、7月にも」と伝えた。この日から状況は大きく変わった。NHKが集団申請の取り組みを全国放送し、本土の全国紙も集団申請に参加する遺族の声を取り上げるようになる。6月23日には朝日新聞が社説で沖縄戦遺骨のDNA鑑定について取り上げた。集団申請希望者は7月2日現在100名になった。各新聞社は1人1人の思いを体験から詳しく報道するようになった。「11人の家族の内9人を失った。だれの遺骨も見つかっていない」という遺族のガマでの経験が証言される。遺族の皆さんが「最後の機会」としてこのDNA鑑定にかけていることが報道されている。遺族の集団申請参加の証言記事を読むと心も体も引き締まる。 朝鮮人軍属は行方不明のまま「行方不明の人こそDNA鑑定を!」 韓国人遺族の問題に話を移す。22日の朝、李煕子(イ・ヒジャ)さんと朝食をとりながら話していた。「張完翼(チャン・ワニク)弁護士は今回私が頼んできてもらった。DNA鑑定への韓国人参加について張完翼弁護士に強力で有効な方法を推進してもらう。韓国に帰り次第、沖縄の状況を話合い、新政権に対する要請方策を検討する」ということだ。今回の集団申請に韓国人遺族は参加しないが、それは日本人軍人遺族・沖縄県民遺族の鑑定参加の拡大が韓国人遺族の道を切り開くという中で、韓国新政権への要請が最も効果があると判断してのことである。22日集会では「日本政府が沖縄に動員された韓国人の死亡記録が無いため行方不明と規定し、鑑定対象外としていること」を厳しく批判した。厚労省の「日本人でも死亡記録のない人は鑑定対象ではないのだから差別はない」という無責任な主張は暴露され着実に批判を受けてきている。行方不明のまま放置してきた責任が問われているのだ。韓国の連合ニュースもこの集会を伝えた。
7・12集団申請予定者名簿を提出へ ガマフヤーは7月12日、DNA鑑定集団申請予定者名簿(第1次)と要請書の提出を参議院会館で行う。沖縄県選出国会議員や本土で応援いただいてきた国会議員も同席する。厚労省の遺族からの申請枠組みが、死亡地などの証明を求めたり、希望する遺族を選別排除したりすることが無い様に要請する。当日は100名を大きく超える集団申請予定者名簿を提出する。私たちグングン裁判を支援する会は、「戦没者遺骨を家族の元へ連絡会」としてガマフヤーを全力で支える所存だ。 最後に、いつもグングンニュースを編集してくれていた大釜さんが5月26日亡くなった。大釜さんはいいニュースができるといつもにっこりした顔で喜んでいた。このグングンニュースが大釜さんに届いて読んでもらっていることを信じている。 |
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まず具志堅さんが遺骨DNA鑑定申請に至る経過を報告。「ガマの中から遺骨を探して遺族に返すことをやってきた。国は名前の書かれた遺品が一緒に出てくる条件をつけたが100体中5体もない。2008年シベリアの遺骨を全部DNA鑑定した。沖縄もやってくれとずっと要請してきたが、国は南方だから難しいと言ってきた。ところが、2009年真嘉比から出た172体のうち記名のある万年筆と一緒に出た遺骨があった。平和の礎で名前を検索し千葉の方とわかり、地元新聞で呼びかけると遺族から連絡が入りDNA鑑定の結果、遺骨を遺族に返すことができた。DNA鑑定で返った初めての人だった。沖縄では県の仮安置所に遺骨が700体ある(その後、南北の塔から600体も加わり計1300体)。DNA鑑定が昨年7月から始まり、国は遺骨の出た所にいた日本軍部隊名簿から戦死者遺族301人に呼びかけ、調べたが1件も合わなかった。先ほどの千葉の人も遺骨は、戦死通知に記載された地名とは違う場所から見つかっている。問題は、国が呼びかける遺族を決めてしまっていること。遺骨から歯だけを検体にしているが、外国では歯を重要視せず、四肢骨から取っている。沖縄戦の特徴は、誰がどこで亡くなったかわからないこと。兵隊の犠牲より住民の犠牲が多かったこと。国は住民も鑑定に参加できると言っているが、国や県に任せておけない。7月に厚労省に集団申請をするので、今日申請書を書いて出して欲しい。申請は遺族が亡くなった身内に近づこうとすること。亡くなった身内を自分の所へ引き寄せようとすること、そのことが、亡くなった人にとって供養になる」と申請を呼びかけた。 次に白真勲参院議員から議員として遺骨問題にかかわってきた経緯が話された。「厚労大臣にDNA鑑定の為には焼骨を止め保存すべきだと追及すると、千鳥ヶ淵にお納めしご供養するのが遺族のご意向ではないかと答弁された。米・韓ともDNAをデータベース化し遺骨を家族の元へ返している。一人でも多くの方をご家族の元へ返していかなければならない。具志堅さんと遺骨収容現場に立った時、木々が鬱蒼と茂った中にあるガマの横に、手榴弾と米軍の薬きょうがあった。72年間どういう思いでそこにおられたのか胸が痛くなった。何としてもお骨だけでも家族の元へ返してあげたい。私たちは国会でがんばります。皆さんと一緒に大きなうねりにしていきましょう」とエールを送られた。 参加者の胸を打った遺族からの発言 安田さん:「沖縄でDNA鑑定という新聞記事に飛びついて一昨日電話し、今日の集会を知った。沖縄戦で兄と父、祖母とその兄弟12名が亡くなった。一つの遺骨も見つからない。具志堅さんがボランティアとしてガマフヤーをなさっていることに感激している。国に沖縄の人がもっと声を上げることを希望します。故郷に帰りたいのはみんな同じ思い。国がもっと早くしてくれていれば、遺族の亡くなる前にできたと思う」 野原さん:「1944年生まれで生まれた時には父は亡くなっていた。祖母と姉2人の4名が亡くなった。伯父と兄で父の遺骨を探しに行ったが見つからず、近くの石を拾って墓に納めた。戦争というのは惨たらしい。いまだに遺骨が遺族の元へ返されていない。一日も早くDNA鑑定で遺族の元へ返して欲しい。たくさんの遺族が待ちわびている。学校で保護者と言えば親父だが、同級生で父は3分の1。大多数は母の名だった。それぐらい激戦地だった。戦争は二度とやって欲しくない。辺野古に新基地建設、けしからんことを政府はやろうとしている。沖縄の自然を壊してほしくない。遺骨を遺族の元へ一日も早く返して欲しい気持ちでいっぱいだ」 上里さん:「とにかく情報を得たいと思って来た。親は師範学校に行っていた兄の死を信じなかった。いつも水屋の中に洋服がきれいに畳んで入っていた。いつでも帰ってきたらすぐ着させられるように。それを昨日のように覚えている。2年前に墓を作ったが、中は空っぽ。力を貸してください。遺族の願いをかなえてください」
遺骨を家族に返すことは、国の戦争責任を全うさせること 具志堅さんは集会の中で何度も「国は住民への戦争責任を果たしていない」と繰り返された。「国が決めるのではない、私たちが主権者。そういう姿勢で厚労省に対してきた」と訴えられた。戦争に一家の柱である父や息子を連れだし、あるいは住民を巻き込みながら、国の戦争責任の取り方は不完全だ。今も戦場に遺骸を放置し、追悼式では決まってうわべだけ戦死者に「尊崇の念を持って」と言う。今回の沖縄集会は戦争遂行の為に封印されてきた遺族の感情を表に出す機会だったと思う。私は今まで沖縄の人々の被害を分かったつもりでいたが、集会で、また翌日6.23戦没者追悼集会でDNA鑑定申請呼びかけチラシを配る中で、お一人お一人の凄惨な話を聞き、これほどのことかと思い知ることになった。 具志堅さんと申請される沖縄の遺族の方々と共に国が責任を果たせるよう働きかけ、全ての戦没者遺骨を家族の元へ返していきたい。
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6月21日韓国チームが沖縄に着いた日、本部町で朝鮮人埋葬の証言をお聞きしましたが、その詳細について、「沖縄恨之碑の会」の沖本さんに寄稿していただきました。
健堅で住民からの証言を集めていた折りに、地元の方から14人の墓標が写っている写真があることを教えてもらった。朝鮮人らしき3人の名前も認められる。墓標が1945年1月22日沈没した彦山丸の犠牲者であることが分かったのは、竹内康人氏が公表している「強制連行期朝鮮人死亡者名簿」に一致した名前があったからだ。 当時、中村英雄氏や島袋正弘氏は浜崎(現健堅)の浜で薪を集めて火葬していたのを見ている。埋葬した場所も特定でき、今は盛土されているが地主も遺骨収集について承諾をしてくださった。ガマフヤーの具志堅さんによれば、薪の火葬は高温でないためDNA鑑定が可能かもしれないとのこと。戦後72年過ぎたが、朝鮮人の遺骨が特定されて故郷に帰った例はまだない。平和の礎に今年、お父様の名前が刻銘された権水清さんは、刻銘によって子孫としてやるべきことの半分は果たしたが残りの半分は遺骨を探して持ち帰ることだと述べられた。今年79歳になられる。沖縄の地には日本政府によって家族と切り離された挙句切り捨てられた朝鮮人の恨が行き場のないまま深く埋もれている。 墓標にあった金萬斗さんを探して韓国で甥と会うことができた琉球新報社の李記者によると、「父と叔父の萬斗さんは一緒に連行され、萬斗さんは戻ってこなかったが、父は日本で労役につき拷問を受けたつらい日々であった、と生還後語り続け、戻って来ぬ弟を思いながら恨は解けず死ぬまで苦しんでいた」と語ったそうである。萬斗さんについて「消息は全く無かったがまさか沖縄で亡くなっていたとは」と驚きを隠せない様子だったそうだ。沖縄で犠牲になったことさえ知らない家族は金萬斗さんだけの話ではない。日本政府が沖縄戦の朝鮮人に対して何一つ責任を取っていないことを痛感する。 6月21日、来沖した李熙子さん一行と本土の「戦没者遺骨を家族の元へ」連絡会の皆さんで本部町健堅の現場に駆け付けた。急な日程であったにもかかわらず、本部町立博物館長をはじめ地域の方々10人余りがすでに集まって我々を迎えてくださった。戦争体験者を中心に二度と悲劇を繰り返さないよう次世代に引き継ぐ活動を地域で熱心にされている方たちである。地主の親戚でもある我部政男先生の進行で、火葬の様子や当時の状況を知っている方から説明を受け、現場を直接確認することができた。李熙子さんは埋葬された場所にお酒をまき、長いあいだ苦悩にまみれた魂の鎮魂を祈った。 そしてこの日ガマフヤーの具志堅さんから重要な提案がおこなわれた。健堅の遺骨収集を北海道で行われた東アジア共同ワークショップのような形で、沖縄・本土・韓国の若者たちが手を携えてできないだろうか、遺骨収集の過程で共通の認識を持ち未来につなげていきたい、というものだった。戦争体験者が年々少なくなる中で、次世代への継承は急務である。地元の皆さんもからも応援したいという言葉があり、今後の方向性が見えた集まりとなった。今後はその実現のための具体化がなされていくことになる。この遺骨収集を通じて何が見えてくるのか、そして何が生まれるのか、期待している。 |
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これまで、原告側は明治以来の日本の朝鮮支配と加害者合祀、不当な韓国人合祀について詳細な事実に関する主張を行い、被告側に認否を迫ってきました。これに対し、被告側が今回準備書面を提出してきましたが、被告側は新資料集の都合のいいところだけを抜き書きし、「一般的な調査回答業務の一環」と主張するだけの内容で、原告の提示した事実はほとんど無視しています。「民族的人格権は生成過程の人格権であり、事実の認定が極めて重要」と原告代理人は裁判所に迫りましたが、裁判所も積極的に認否を求める対応をとる様子がなかったのは大変残念です。 今後、11月28日(第13回)、3月20日(第14回)と口頭弁論が進行協議を挟みつつ進められます。原告としても現状の裁判の進行のまま形式的な証人尋問に進むわけにはいきません。次回裁判には被告側の今回の準備書面に対する更なる反論を準備し、被害の実態を明らかにする事実審理の実現に全力を注ぎたいと考えています。(山本) ノー!ハプサ第13回口頭弁論 11月28日(火) 午前10時30分〜 東京地裁103号法廷 |
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GUNGUNスタッフの大釜さんが逝去!
大釜さんもニュース85(2016.9.24発行)の読書案内に下記著者の「神国日本のトンデモ決戦生活」の原稿を寄せている。その結びに「近年『本当はスゴイ日本、日本人』系の出版、TV番組が増えてきている。2006年第一次安倍内閣発足以降『こんなスゴイものがある日本』だから『日本人としての誇りを持とう』という戦前、戦中のような空気は強まっていると著者は警告しているが、同感である。(大釜)」と記している。教員を長く努めた大釜さんの日本の侵略の歴史に対するこだわりを垣間見るのは私だけではないと思う。余りにも早すぎる死に哀悼の言葉も見つからない。只々ご冥福をお祈りする。(中田) |
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読書案内 『日本スゴイ』のディストピア −戦時下自画自賛の系譜 早川タダノリ 著 青弓社 1800円 いま私たちは、国会質問で公然と「八紘一宇」を持ち上げる議員が処分もされず、時の政権が「教育勅語」の教材使用は問題なしと閣議決定する政治状況にいる。手垢にまみれた感があるが「歴史に学ぶ」という言葉をもう一度真剣に噛みしめなければならない。著者はこの本以外にも「『愛国』の技法」「神国日本のトンデモ決戦生活」など戦前の本や宣伝物などを題材に「戦前回帰」とも言える今の政治状況に警鐘を鳴らしている。著者によると1931年の満州事変を機に「日本スゴイ」を唱える日本主義、日本精神論を説く本が激増したという。国際連盟を脱退し「孤立無援」となっていく日本は、この「国難」を乗り越えて総動員体制を構築しアジア侵略戦争に突っ走っていくが、それを支えるイデオロギーとして活用されたのが、「日本第一」を唱える日本主義・日本精神論だった。民衆には、日本人がいかに世界中で優れた民族であるかを啓蒙し、「少国民」たるこどもには植民者としての心得を教育し、天皇を頂点とするナショナリズムの高揚と差別排外主義に彩られた植民地主義の鼓舞で、日本は破滅の道を歩んでいく。そして現在、まさに次のディストピア(地獄社会)を迎えるか否かの瀬戸際にいる。(中田) |
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