在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター 「未来への架け橋」 NO.80 (2015.4.4発行) |
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3月22日山口県宇部市で行われた |
「今はDNA鑑定だけで身元を特定できるケースが少なくない」(読売新聞) |
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日本兵の遺骸を探して 3月1日、ベラップ村へ。途中悪路でなかなか進めない道も。村に着くと道路下から出てくる遺骸を収容した箱を見せてもらう。中から頭蓋骨を含め、数人分の遺骸が収容されている。その後ゲニム村へ立ち寄り、発掘した遺骸の仮安置所を製作してもらうよう要請。 3日、再びプアイ村へ。遺骸発掘作業を手伝うといきなり頭蓋骨が出てくる。ここからは、日本兵の遺品も発掘されている。戦時中、船で遺骸をここまで運んだのか、あるいは水葬した遺骸がここに流れ着いたのか、経緯については不明であるが、今回の状況から推定して、まだ50体ほどは発掘される可能性がある。 4日、ジャヤプラから空路2時間でビアク島へ。まず西洞窟へ行く。ここは日本軍が連合軍に追い詰められた激戦地。展示館があり、周囲には多くの戦闘遺品が展示されている。危険だが、ピンがついたままの手榴弾もある。少し離れた場所に遺骸仮安置小屋がある。中には周辺で発掘された多くの遺骸や袋に入ったままの遺骸が並べられている。苔むした道を進み、橋を渡ると、大きな洞窟の上部から下が見える。大きく回り込んだ場所に慰霊碑があり、そこから階段が続き、下の洞窟へ降りることができる。戦争から70年たっている今も、焼け焦げたドラム缶が闇の中に転がり、表現しがたい霊気が漂っている。 ムサキ島をあとにし、20分でインソバビ島へ。細長い島だがこの島には水上民家、陸上民家、教会が複数、小学校がある。宿泊用に向かい側の水上民家を提供していただいた。夕食を食べ終わると徐々に暗くなるがまだ7時。長い夜が始まる。 6日、船でアイブラボンディ島へ20分。小さな島だが、水上、陸上に民家が約20軒と教会がある。村長、牧師と話をする。前年の調査時に民家の横に石で蓋をした穴があり、その中に日本兵と思われる遺骸が多数あることがわかっており、死者を天国に送るために今回掘り出したい旨を話す。了解が取れ、牧師と全員でお祈りし、作業を開始した。この島は戦後無人島で、住み始めた人が放置された遺骸をこの穴に収容したという。村人の墓は少し離れた場所にあり、関係ない遺骸を民家のすぐ隣に埋めるというのが不思議に思える。長老も含め村人が作業に協力してくれる。蓋をあけるといきなり頭蓋骨が数体見える。掘り出すと大量の赤蟻が動き回る。一つ一つ注意しながら取り出すと、次から次へと新たな遺骸が現れる。頭蓋骨の下からは大腿骨や骨盤などが出てくる。運びだした先で、ヤシの葉の上に遺骸を並べる。完全な頭蓋骨だけでも数えると38ある。不完全なものを含めると40体以上か。今後はここに仮安置小屋を製作することになった。この日は天気は晴れ、赤道直下の日差しが強烈に照り付ける。インソバビ島へ戻る海は鮮やかなエメラルドグリーン。こんな美しい島々で戦闘が行われ、多くの人が餓死したのだ。元のコリド港経由で、3時間かけてビアク島のホテルに戻った。 戦後70年。「英霊」と持ち上げられる当事者はこうやって放置され続けているのだ。この中には3000人の台湾人も含まれる。現実をしっかりこの目に焼き付けて現場を離れた。 |
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集会ではまず現地の刻む会から小畑太作さんが長生炭鉱の問題を詳しく報告。水非常とは炭坑の浸水事故のことをそう呼ぶそうだ。1942年海底坑道の沖合1キロで183名が浸水で死亡し、そのうち136名が朝鮮人だった。地元では事故をどうとらえるかの様々な議論を経て、1991年3月「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が発足し、@全犠牲者の名を刻んだ追悼碑の建立 Aピーヤ(水上に2つ浮き出た排気塔)の保存 B証言資料の収集編纂を目的に活動が始まった。1992年には大韓民国遺族会が発足。2013年2月追悼碑が完成し、2014年5月遺骨等収集課題への取り組みを正式開始するようになったという経過が報告された。 「触るな。あとで家族が迎えに来るから」(具志堅さん) 2つの報告に続き、地域と強制連行の掘り起しの報告が、山口県、九州、広島地域からあり、「強制連行なかった論」を考える報告が、強制労働・慰安婦などの問題で報告された。参加者は100人を超え韓国からも推進協の3名が参加をした。 翌日の長生炭鉱の水没事故の現場を巡るフィールドワークは大きく盛り上がった。犠牲者の全聖道さんの息子、全錫虎(チョン・ソッコ)さんが証言。「小学校5年生の時お父さんを炭鉱で失い、補償もなく社宅も奪い取られ日本では馬小屋の片隅で生活をした。韓国に帰ったが生活が苦しく兄弟はそれぞれ住み込み奉公に出た。学校にも行けず父を恨んだ。私たち家族は口では言えない苦労をしてきたが今となり家族を置いて亡くなった父の無念が大きかっただろうと思うに至った」と。全さんは、父の亡くなった後の馬小屋での生活を語ろうとして、当時を思いだし涙とともに絶句してしまった。記念碑は民間の力で建てられ日本人・朝鮮人のすべての犠牲者の名が記されている。日本人の名を載せたくないという韓国人遺族の声もあったそうで説得に時間がかかったそうだ。 石炭の積み出しトロッコや、朝鮮人寮などの後を見ながら最後海で2本の排気塔(ピーヤ)の見える浜辺に出た。全錫虎さんが叫ぶ「アボジー・アボジー」ピーヤの向こうの海の中にお父さんがいるのだ。どこで亡くなったかわからず探し回る苦しみも、目の前の海にお父さんがいるのに陸上に出してあげられない苦しさもかわることがない。具志堅さんは証言の後全さんと抱き合っていたが、私に言った。「フィールドワーク盛り上がりましたね。こんな取り組みが日常に行われるようになればいい」。まったくその通りだ。 戦後70年、今安倍内閣は10年計画で遺骨を収容していく計画を立てている。戦争する国家への思想統一をはかる切り札として遺骨を回収し国家的儀礼をおこない続けるためである。再び、靖国神社も我々の前に、公然と登場してくることは間違いない。彼らは100万人に及ぶ戦場に放置された遺骸(戦争犠牲者)を再び戦争を始めるための道具として10年をかけて再利用しようとしている。アジアに残る100万人の遺骨を、リアリテイある「今の日本を支えてくれた」存在として利用し、とてつもない大がかりな思想統制を行おうとしてくるに違いない。 私たちは、「戦争と植民地支配で犠牲になった人たちの遺骨を家族に返す」というすべての戦争犠牲者の権利回復の運動をこれに対抗させていかねばならない。生きているものが死なない、殺さないための運動(憲法9条を守る運動)と、戦争で死んだ人たちの権利を回復する(遺骨を家族に返す・靖国の名簿から外す)運動を同時に行っていかないと、安倍内閣の進める「戦争を行える国づくり」、それを支える戦争を支持する思想統制に対抗することはできない。 強制動員真相究明全国研究集会が昨年から2年間、遺骨を家族に返す運動を再び柱に据えた取り組みを行った意義は大きい。 |
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ノー!ハプサ(NO!合祀)第2次訴訟 第3回口頭弁論報告(山本) さらに朴さんは意見陳述の中で「韓国が植民地だった時期、韓国人を苦しめ、殺害した日本軍と警察が靖国神社にいる。また、父を引っ張っていき、軍人として訓練させ、戦場で死ぬようにさせた人々も靖国神社に一緒にいる。今私の父は靖国神社で、このような人々と同じ扱いを受けている」と指摘した。前回裁判の準備書面2、今回裁判の準備書面3・4で原告側が指摘したように、江華島事件で戦死した水夫が合祀されて以来、朝鮮の軍事支配の過程での日本軍・警察の戦死者が靖国神社には多数合祀されている。 1910年の韓国併合条約が対等な立場で締結されたというのは歴史の偽造だ。併合以前から、日本は主権国家である朝鮮に軍用電信や軍用鉄道を引き、その周辺に「軍律」と呼ばれる軍事法制を敷き、電信切断などの妨害行為を行った者、犯人を匿った者は死刑に処せられた。1900年代初めに朝鮮全土で沸き起こった義兵闘争に対して、日本軍は絶滅作戦を実施し、その過程の戦死者280人が靖国神社に合祀されている(「靖国神社忠魂史」)。日本軍側の記録「朝鮮暴徒討伐誌」によれば、日本側戦死者136人に対して、義兵側の戦死者は1万7,779人となっている。これをジェノサイドと言わずして何をジェノサイドと言うのか。1910年には「韓国併合奉告祭」が靖国神社で催されている。韓国人にとって、靖国神社はまさに「侵略神社」なのだ。 2月25日に「安倍談話」の原案を検討する「21世紀構想懇談会」の第1回会合が開催されたが、こうした歴史の事実に向き合うことができなければ、日本への信頼を回復することは不可能だ。歴史歪曲の「安倍談話」など許してはならない。 ノー!ハプサ(合祀) 第4回口頭弁論 5月27日(水)10:00〜 東京地裁103号法廷 |
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ノー!ハプサと報告集会に参加して(木村) 朴さんが戸籍をようやく作ったのは、25歳の時。私は現在、父の記録がない遺族のために手がかりを求めて、郵貯銀行、年金事務所等を訪ねるが、担当者から生年月日が正しいかと問われ歯がゆい思いをする。ヒジャさんと戸籍の話をすると、どの遺族も同じと聞く。遺族の戦後たどった生活と苦しみは、まだまだ伝わっていないと感じた。 「靖国の子」山中恒さんの講演会 夜にはノーハプサ特別企画として児童文学作家、山中恒さんの講演会がもたれた。「靖国の子」が昨年12月に出版されている。靖国は軍事施設として機能してきた。国体原理主義で天照大神に由来する万世一系の天皇が代々日本を統治していくことは、永久不変であり、世界をも統治すべきというもの。山中さんを含む当時の子どもたちが如何にその教育に染められてきたか。未だに教育勅語を言えるし、書けるとすらすらと諳んじられた。敗戦の時には中学生だったが、自決しようと思ったが、当然自決するだろうと思われた人がだれ一人死なないのでやめたと。 |
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読書案内 靖国の子 −教科書・子どもの本に見る靖国神社 山中 恒 著 大月書店 1600円+税 1931年生まれの児童文学作家・山中恒は、少年時代に熱狂的な愛国少国民に仕立て上げられていたことを見つめなおし、戦争のための教育にこだわり続けてきた。代表作の一つには、ノンフィクション『ボクラ少国民』がある。 戦死者の遺児は「靖国の子」と呼ばれ、忠義に厚く最も勇ましい少国民を演じる役割を負わせられていた。父や兄の死を悲しむより、復讐を誓う敵愾心が求められた。他の少国民は、「靖国の子」に見習えと、絵本、雑誌、教科書、歌や綴り方などを通して、そのけなげさに同感するように仕向けられた。「とうちゃんは神さまになって、やすくにじんじゃにゐる」「お父さん、きっとお父さんの名誉にかけて立派な日本人になります」。褒め称えられた遺児の姿は、国のため君のため忠義を尽くす手本として、少国民を戦争に駆り立てる格好の宣伝材料として使われていった。 本書では、当時の史料が豊富な写真や引用文で紹介され、そのしくみが解き明かされている。その行間には、「あゝ一億の 畏み祈る 国護る宮 靖国神社」と歌っていた著者の、もう二度と「靖国の子」を登場させまいという思いが込められている。(塚本) |
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