在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター 「未来への架け橋」 NO.79 (2014.11.9発行) |
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慶煕大学で行なわれた |
「日本も沖縄も韓国もアメリカも」関係なく |
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韓国人戦死者の遺骨調査に関して厚労省から回答
南太平洋上の島での遺骨について具体的な収容数を回答 これまでの遺骨の収容数について、「ペリリュー島で7,600 ミレ環礁で340 メレヨン環礁で3,100 ブラウン環礁で8」などの数を具体的に回答しました。「南太平洋上の島」は玉砕の島が多く、戦死者も限定されます。遺骨が見つかれば個人を特定できる可能性が高いのです。厚労省自身も「孤島のケースは、島全体が墓と見ることもできるかも知れない」と認めています。戦後、米軍が遺骸を埋葬しているケースも多くあります。DNA鑑定さえできれば、遺骸から韓国人遺族の父・兄を判別することは可能だと考えられます。 熱帯地方でもDNA採取可能であることが回答で明らかに これまで、熱帯地方のような環境で放置された遺骸からはDNAが採取されないという意見がありました。しかし今回、具体的な地名をあげて、DNA鑑定できたかどうかを尋ねました。すると、「フィリピンで1体、パプアニューギニアで2体、サイパン島で1体の身元が判明した」と回答がありました。遺骸の状況次第では熱帯地方でも採取可能なのです。
韓国人兵士・軍属の遺骨について回答 「外国の方はその政府で」と 「日本政府の遺骸発掘事業に韓国遺族も正式に参加できるようにしてほしい」という要望に、「遺骨収集帰還事業は日本国政府として実施するものであり、外国の方については、当該国政府が実施する同様の事業に参加することが基本と考えます」と答えています。要するに「日本兵の遺骨は日本政府が調べる。韓国人は韓国政府でやってください」と言うのです。「可能性があるので韓国政府でやります」と言えばどうなるのでしょうか? また「遺骨が韓国人と確認できれば韓国政府と協議する」と言っていますが、どうやって韓国人と判別するのか?厚労省は「韓国人と確認できるというのは、遺骸そばに持ち主のわかる遺品が必要」と言っています。しかし遺品が遺骸と一緒に発見されるのは非常に稀ですし、遺品の持ち主が遺骸の人とは限りません。 では確認する方法はないのか? あります。DNA鑑定です。そこでDNA鑑定について、厚労省の考え方を追及しました。 11年前の「DNA検討会の指針」を盾にDNA鑑定を拒否 「発掘した遺骸からはすべてDNA検体をとり、可能な限り個体として保存してほしい。希望する遺族のDNA情報を収集してほしい」という要望に、厚労省は「戦没者遺骨のDNA鑑定は、「記録資料等から、対象となる遺族を推定できること」という条件を満たせば実施し、韓国政府と協議する」としています。「記録資料」とは遺品や埋葬記録のことです。要するに、韓国人については「遺品がなければ調査しない」し、DNA鑑定も「遺品がなければしない」と言っているのです。これでは科学的な究明を拒んでいるとしか言いようがありません。 ではこの厚労省の条件とは、どこに根拠があるのでしょうか?それは11年前、2003年に出された「DNA検討会」の指針だと言います。この情報化の進歩が著しい時代に11年も前の方針を現在も踏襲しているというのです。 遺骨は「日本人も沖縄人も韓国人もアメリカ人も」関係のない普遍的な問題 ここで、一つの注目すべき報道があります。9月30日の産経ニュース「遺骨帰還へ日米が共同作業 戦後70年に向け米側が打診」です。これによると、「JPAC(米軍の遺骨調査組織)は400人のスタッフが「全ての兵士を故郷に帰す」をスローガンに活動。太平洋地域など日米両国が激突した戦地跡でも作業に従事しているが、両国の兵士が折り重なって戦死したケースが少なくない。米側はかねて「日本側が焼骨を行う前にDNA型鑑定を行いたい」「遺骨の場所を特定するため戦史情報を共有したい」との希望を持っていた。日本政府高官は産経新聞の取材に対し、米側の要請があったことを認めた上で「前向きに検討している」と答えた」とあります。アメリカからの要請に日本政府がどう応えるのか、注目されます。 また、沖縄県では県議会や市町村で「沖縄戦遺族のDNA鑑定実施を求める意見書」や決議を多く採択しています。住民の多くは「遺骨を家族のもとへ」と思い続けているのです。遺骨問題は極めて「現在」の問題であり、かつ「日本人も沖縄人も韓国人もアメリカ人も」関係のない、普遍的な問題だということです。 遺品が残っている遺骸が少ない以上、韓国人の遺骨を遺族・家族のもとに返すためには、すべての遺骸をDNA鑑定できるかどうかにかかっています。韓国では朝鮮戦争や4・3事件の犠牲者特定のためにDNA鑑定を実施しています。右の写真は韓国の国立墓地内に設置してある看板ですが、「全国保健所遺族遺伝子サンプル(血液)採取 6.25(朝鮮戦争)戦死者 まだ帰れぬ兄弟 捜されませんか 採血対象 戦死者遺家族8親等内 国防部遺骸発掘鑑識団」と書いています。 日本政府・厚労省がDNA鑑定を拒む盾にしている「11年前のDNA検討会指針」にはどれほどの科学的根拠があるのでしょうか?沖縄をはじめ日本人遺族にとっても重要な課題であるだけに、私たちは国内外の専門家に意見を求めています。今後もご支援よろしくお願いします。 |
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春川・金景錫さん墓参り
事務所に立ち寄った後、ギョンソクさんのお墓へ。古川さんは、着くとさっそくギョンソクさんのお墓の盛り土をトントンして「ギョンソクさん、会いに来ましたよ」と語りかける。草を引き、墓石をきれいにしてから、韓国のお酒ソジュを供える。韓国式に杯をクルクル回して拝んで、墓の周りに酒をかける。みんな終わったところで、順にソジュをいただく。「飲みなさいとギョンソクさんが言ってる」と洪さん。「グングン裁判が終わって、遺族会で集まる機会もなくなり、寂しくなった」と洪さん。来年2015年、戦後70年節目の年には、たくさんで参ってここに敷物を広げて、ギョンソクさんの好きだった美空ひばりの歌を歌いましょうと洪さんと約束した。 いつも通訳でお世話になっている李相鑚先生と待ち合わせて昼食へ。李先生に連れてもらったお店で料理をいただきながら、貧しかった子どもの頃の話を聞いた。食べ物がなくマッコリの搾りかすに甘み(砂糖はなかった)を添えて食べた。酒の匂いをさせて学校へ行ったら先生に怒られた。お弁当は麦飯でそれも持って来れない子どもが3分の2ぐらいだった。その子らはトウモロコシを固めて蒸したパンを1個ずつもらっていたそうだ。 春川の町は、駅の真正面にあり、中心部を占めていた米軍基地が撤去され、立派な駅、広い道路、新しい店もたくさんできて、一変している。山登りなどの観光客が来たり、生活を楽しめるようになったのもそう昔のことではないと、李さんから話を聞く。
10月25日 日韓過去清算市民運動報告大会 この日、慶煕(キョンヒ)大学で約50名が参加し、日韓過去清算市民運動報告大会が開催された。次々と参加者が会場に集まり、「パンガウォヨ(お会いできてうれしいです)」が飛び交う。推進協のいつもの顔ぶれも多い。 来年2015年は戦後70年となる。日韓の政府間は、依然関係が冷え込んだままだ。安倍は在特会と深く関係する閣僚を起用し、世界の批判に耳を傾けることなく戦争への危険な道を突進している。日本社会もまたヘイトスピーチに見られるマイノリティ差別を許す空気が漂っている。日韓の民間レベルの協力と連帯がより強く求められている。 特別報告は、李錫兌(イ・ソクテ)弁護士から 2012年韓国大法院判決の意義と展望について。判決は「日本国家の植民地支配と直結した不法行為による損害賠償請求権は請求権協定の適用対象に含まれない」という原則と基準を提示した。この判決を生んだのは、請求権協定の問題点について指摘してきた日韓市民社会の献身と努力の結実である。解決に向けた日韓政府間の交渉を問うていく必要がある。 日本からは、上田さんと古川さんが、記録と遺骨を求める取り組みについて報告した。上田さんは一人一人遺族の名前をあげ記録を探していった過程を報告した。全ての資料が韓国に渡っていない以上、日本で各機関に申請し探すしか方法はない。今後とも日本での調査に全力で取り組むと約束した。また朝鮮人労働者、数万人の通常郵便貯金の通帳等の返還や、韓国政府を通じた日本への調査依頼等、日韓政府に求めていこうと訴えた。古川さんは、遺骨に関する要請に対する厚労省からの回答について報告した。 次に日韓会談文書全面公開を要求する会事務次長の李洋秀さんから“日韓会談の日本側文書の公開を要求してきた10年間の闘争の歴史”が報告された。3審判決では、30年を越えてもまだ不開示とするためには相当な根拠が必要だと、ほとんどの文書が公開された。行政訴訟で国家を相手に勝訴することはほとんど不可能だが勝利した。「しかし」と、日本で公開?された全面墨塗り状態のページを示しながら、「これが日本の公開文書で、世界から見ると非公開ということになります」と。団体は解散するが、今後も情報を提供したいと語った。
できる限りのことをしていきたいと決意した遺族からの聞き取り 午後からも集会は継続されたが、関西メンバーは被害者の記録を探すために、遺族の方々からの聞き取りをした。2チームに別れて合わせて6人の遺族から聞き取った。 元済赫(ウォン・ジェヒョク)さんと 朴進夫(パク・ジンブ)さんのお父さんは各々北海道、あるいはそこから南の方角にある炭鉱で落盤、爆発事故に遭い病院で亡くなられている。朴さんのお母さんは日本人で、病院でお父さんから韓国に行くように遺言された。遺言どおり韓国に帰ったが、親戚から韓国で生活することに反対され、苦労した。国交正常化してから日本に帰ろうとしたが、これも反対された。お父さんは長男だったが、弟の伯父が家を継いだために、学校にも行けず17歳で家を出た。母はいやな記憶だったので話そうとしなかったし、手紙を出すこともできなかった。母が一人で泣いているのも何回か見た。被害当事者は母だ。 次に姜スッキさんと李延龍さんの孫さんから話を聞いた。姜さんは、「父は2回日本に行った。1回目は夜に急に連れて行かれ、苛酷な労働に逃亡して帰ってきて隠れ住んでいた。2回目も家族も知らない間に連れて行かれた。広島で道やトンネルをつくる現場で、石を背負い運ぶ途中に転落、頭や足に大きな怪我をして2,3日意識を無くした。目にも怪我をして、ほこりで塵肺も患い何カ月か病院にいたが、治療の間にも仕事をさせられていた。広島で被爆もして、隣町の二人と韓国に帰って来た。帰って来た父は骨だけの姿でずっと寝ていた。日本に行く前に母と婚約していて、障害を負って帰ってきたが 母は結婚をし、家長として働き子が父の面倒を見る生活だった。小学校の頃、父の面倒をみるため学校に行けなかった。自分が14歳の時に父は亡くなった。子どもの時の思い出も、父の面倒をみる苦しい過去なので忘れようと思っていた。死んだ年齢も覚えていない。遺族会の活動を最近になって知り、父がどこにいたか知りたいと思った。話すことも苦しくて、今まで人に話してこなかった。父の友人はほとんど亡くなった。父を思うと苦しい。父がどこで働かされたか知りたい」と。 父や兄、夫を亡くした遺族の方々がどれほど大変な生活を背負われてきたか、それを思うと今後も年金や郵貯などの記録探しなど、できる限りのことをしていきたいと思う。
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ノー!ハプサ(NO!合祀) 第2次訴訟の第2回口頭弁論報告(山本)
今回、原告側からは朝鮮植民地支配と靖国神社との日清戦争までの歴史的関係についての準備書面1と、日本政府からの求釈明に対する釈明についての準備書面2を提出しました。靖国神社の歴史については、今後、日露戦争から日韓併合・植民地支配、戦時動員・太平洋戦争までを論述することを予定しています。第1次訴訟判決が、原告らの苦痛を単なる「歴史観」の問題に矮小化し、山口自衛官合祀訴訟最高裁判決を適用して切り捨てたことに対して、植民地支配は「歴史観」ではなく客観的事実であって、山口判決を適用するべきではないということを、今後も具体的に裁判所に突き付けていきたいと考えています。 今回の裁判には、大阪の「合祀イヤです訴訟」元原告お二人が参加され、裁判後の報告集会では、前日の4日に靖国神社への合祀取り消しを求める申し入れを行ったとの報告をいただきました。また、安倍・靖国参拝違憲訴訟、重慶爆撃訴訟からも連帯のあいさつをいただきました。ブログを見て、はるばる宮城県から参加された方もいらっしゃいました。嬉しい限りです。 当日夜には「九月、東京の路上で」の著者、加藤直樹さんをお招きしてのトークイベントも開催し、30人以上が参加してくださり、半数は会員以外の方でした。エスカレートする排外主義の厳しい現実とともに、それを乗り越える希望が私たちの取り組むような連帯運動の中にあることを学びました。 次回は来年2015年3月4日(水)午前10時から東京地裁103号法廷で行われます。 |
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来年2015年は、戦後70年。日韓の関係でいうと、1910年から45年までの35年間の植民地支配期間の2倍のときが経過したことになる。1965年の国交正常化から数えても50年。長い時間が経過したように思える。 しかし、日韓の関係は今、国交正常化いらい最悪とも言われる状況にある。その理由が、植民地支配の未清算にあることは言うまでもない。「慰安婦」問題、元徴用工の裁判、靖国合祀問題、独島(竹島)帰属問題…。いずれも1965年時点では解決できなかった、と言うか封印・先送り(?)したことがらである。日韓両国の多くの国民の反対を押しきって、日韓基本条約・請求権協定を結び、とりあえず「正常化」したことの“ツケ”が回ってきているというほかない。しかし、あの「正常化」を主導した権力者たちは、今、まったくその責任をとらない(鬼籍に入ってしまってもいるが)。 だから今度は市民が主導して日韓つながり直しを進める必要がある。植民地支配の被害者を置き去りにしないつながり直し、それが基本だ。「日韓つながり直しキャンペーン2015」は、そのために今運動を進めている。多くの皆さんのご協力、ご参加をお願いいたします。
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ソウル滞在記(木村) 9月末から1カ月間ソウルへ滞在しました。ちょうど祭りの季節、各地でイベントがありました。ソウル中心の光化門では、特設舞台が設けられ、チェロとピアノの演奏、コミカルバンド、舞踏、高校生コーラスまで毎日多彩なステージがありました。野外で無料なので座席の階段は 観客でビッシリ埋まりました。クラッシック演奏会場などとても入れない小さな子ども連れの家族もたくさんいました。気軽に本格的な音楽に触れられるのは、うらやましい限りでした。(特に文楽や大阪フィル等の文化を蔑ろにする大阪からは) 時間を見つけては、ギャラリー巡りもしました。これも落ち着いた場で、しかも無料で絵画や写真展がありました。生活の中に自然に文化を楽しむことのできる空間がある。私達の町もそうあって欲しいと思いました。ぜひ、この時期にソウルを訪ねて下さい。 |
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読書案内 ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。 サトウキビの島は戦場だった 具志堅 隆松 著 合同出版 1400+税 著者の具志堅氏は30年以上、沖縄戦の戦場の発掘に携わり、現在、ボランティア団体ガマフヤー(沖縄方言でガマを掘る人)の代表である。この著書では、発掘現場から知った事実から、沖縄戦の悲惨さ、非情さが、静かに淡々と紹介し、沖縄の戦後は終わっていないことを鋭く問いかける。 ガマフヤーの目的は、遺骨を元の家族の手に帰すことである。だが 、戦後60余年過ぎた今、遺族に遺骨を帰すことは至難である。 しかし、2011年11月、沖縄戦で戦死したKさんの遺骨が、家族の元に帰すことができた。その遺骨は2009年11月南部、真嘉比で発掘され、そばにあった万年筆からKという名が判明。千葉県の遺族と連絡、同意を取り、厚生労働省に遺骨の前歯を送りDNA鑑定を要請、半年後に厚生労働省から本人であるとの鑑定結果がでた後、遺骨は平和祈念公園内仮安置所から、千葉県の遺族の元に帰った。 ガマフヤー、支援者の働きは、政府・自治体を動かし始めている。「遺骨にも人に会う権利がある。」ぐんぐん裁判の原告達も、父・兄弟の遺骨を求め続けてきた。どこかで繋がることを期待するのだが・・・。 (大釜) |
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