在韓軍人軍属裁判を支援する会ニュースレター 「未来への架け橋」 NO.15 (2002.10.5発行) |
経済協力でなく個人補償を!
9月17日、小泉・金正日による初の日朝首脳会談が行われ、両首脳は日朝共同宣言に署名しました。共同宣言では「日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びを表明」し、@財産および請求権を相互に放棄し、A国交正常化ののち日本側が経済協力を行うこと、Bその規模と内容について正常化交渉で協議することが確認されました。私たちは、65年日韓経済協力方式の援用は真の過去清算とはいえないことを強く主張します。「拉致問題」を交渉取引に使おうとする日本政府を許さず、「過去の清算」をはっきりさせなければなりません。確かに「拉致」は犯罪行為であり許せません。
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「BC級戦犯者」遺族を迎え、第3回公判! 矛盾だらけの国側答弁 9月11日(水)午前11時30分より、第3回口頭弁論が行なわれました。口頭弁論そのものは短時間で終わったものの、靖国問題が重要な争点に浮かび上がった口頭弁論でした。
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原告・羅鐵雄(ナ・チョルウン)さんを囲んで 空白を埋める父の同僚との出会い
父は、羅さんが3歳のときに徴用。解放後も父は帰ってこず、母は教会の手伝いをしてわずかな収入を得て暮らしました。父は、羅さんが21歳のときに帰ってきました。死んでいたと思っていた父の突然の帰国は、言葉では表せないほどの感激でした。「BC級戦犯者」として「有罪」判決を受け、刑務所生活を余儀なくされた父は手ぶらでは帰れないと思い、釈放後もすぐには帰国できなかったのです。その父も生活は苦しく、1982年に他界しました。
駆けつけた仲間の一人・兪さんは、羅三祚さんと一緒に徴用され、俘虜収容所に配置され、「戦犯」の汚名を着せられ、チャンギー刑務所から巣鴨プリズンに移された同僚です。1942年に俘虜収容所の監視員(いわゆる、コウリアン・ガード)として徴用され、解放後も祖国には帰れず125名が有期刑を受け巣鴨プリズンに収監されました。直属上司の日本人将校は、裁判が始まる前は「責任は全て私にある」と言っていたのに、裁判では「私には全く責任はない。部下がやったこと」と責任を転嫁。「無茶苦茶だよ」と兪さん。
李さんは語ります。「巣鴨プリズンでは、@差別待遇の撤廃 A即時釈放 B釈放後の受け入れ体制の補償を要求。仮釈放となっても仕事もなければ蓄えもない。日本政府からの何の手当てもない。日本人には手厚い保護があるにもかかわらず、我々には何もない。闘わざるを得なかった。仲間で「同進会」を作り、相互に助け合った。日本人篤志家の援助でタクシー会社を始め、何とか生活できるまでになった。日本政府には35年にわたり謝罪と補償を求めてきた。裁判では8年間闘った。しかし、何も解決していない。今、立法化を求めている。 |
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応援しています!! 同進会
会長 李鶴来(イ・ハンネ)
グングン裁判の第3回公判に原告として羅鐵雄さんが来日されました。昨年来日されたときもお会いしたのですが、ゆっくり話す時間がありませんでした。今回はゆっくり話しをすることができました。羅さんの父親・羅三祚さんは私たちの同僚で、同じ巣鴨プリズンで苦労した仲間です。力が強いので「羅将軍」と呼ばれていました。
いま、裁判の支援会は、「韓国・朝鮮人『BC級戦犯者』の補償立法をすすめる会」に改組し、法案を作り、国会議員などに働きかけ、立法化を求めて運動をすすめています。羅さんは、新たに提訴しましたが、大変だろうと思います。しかし、私たちは全面的にバックアップをします。支援する会の皆さんも大変でしょうが頑張ってください。 |
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今年もボランティアツアーを開催!
昨年に引き続き、今年も韓国・春川にある金景錫さん(太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会会長)の建立した強制連行被害者の納骨堂を清掃ボランティアし、その後地元のサッカーチームと親善交流サッカー大会を行います。過去に目を背けずに、未来への友好を築くツアーです。ぜひ一緒に韓国へ行きましょう。GUNGUN原告との交流や、豊かな春川の自然に触れるプログラムも計画中です。連休中のプランですので早めにお申込みください。
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いやがらせをはね返そう! サッカー練習 ボランティアツアーへ向けて この間サッカー交流を続けてきた朝鮮初中級学校(アボジチーム)に対して、「拉致」問題便乗のいやがらせが起こっています。偏向的な報道といじめ的な行為を恥ずかしく思います。こんな時だからこそ、ボランティアツアーに向けてサッカー練習を行います。終了後はビールで交流しましょう! 10月12日(土)19時半 生野朝鮮初級学校グラウンド 18時半 JR鶴橋駅(大きい方の改札)集合 |
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ソウルからの留学生だより 丁 智恵(チョン・ジエ)さん
韓国で暮らしていると、日本との相違点で、とくに私が感じているのは「公共」に対する感覚です。韓国では人と人の距離が近く、街を歩いていても皆一定のルールを守っているような気がします。それが「礼節」というものなのかも知れないですね。初めて訪れた方は、道を歩いていて他人にぶつかられても、謝ったりもせずに通り過ぎていくので、なんて無礼なんだと感じるかもしれません。しかしバスなどが混んでいるときに、重い荷物を持って立っていると、座っている見知らぬ人が、何も言わずにその荷物をひざの上に載せてくれるのです。お年寄りが乗ってきても、若者は何も言わずにそっと席を立ち、お年寄りも何も言わずに座ります。この光景は、韓国を訪れた方なら多く目にされたことでしょう。そして、どうして何も言わないんだろうと疑問に思われた方もいるかも知れませんが、言葉を多くは必要としないのです。私は、韓国社会は「個人の総合」ではなく、「家族」であるという認識があるのではと感じています。街角にある誰でも水を飲めるようにした浄水器も、韓国社会と日本社会の違いの象徴です。日本では、韓国の街角の浄水器は安全面で実現不可能でしょう。公共に対する信頼心、家族意識、そして近年の個人主義化の到来によるゆらぎ、韓国社会は今まさに変化の真っ只中にあります。 |
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9月末、GUNGUN裁判の弁護士4名が訪韓し、原告を前に4月に始まった法廷でのやりとりや、課題、展望について報告しました(春川で約25名、ソウルで約100名の原告が参加)
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今年7月の映像に残すツアーに参加して、ソウルで朴梅子さんに会いました。「私の名は日本にもある名・・」とソウルの屋台で隣り合わせたときに、自己紹介されました。両親と姉2人の5人家族で農業を営んでいたのですが、暮らし向きは大変で、家族を助けるために「金儲けになるから」と、軍属としてお父さんは徴用されました。写真と便りが何回か送られてきましたが,1944年4月1日に死亡通知だけが届きました。このとき朴梅子さんは1歳になったばかり。全てのことは、お姉さんから聞かされました。お父さんが亡くなったあと、お母さんは勧められて再婚し、お姉さんたちは叔父宅に、梅子さんは母の実家に・・と、貧しさの中で家族は離ればなれになりました。厚生省に問い合わせ、やっと第4海軍施設部に軍属として配属され、供託金が6888円あることがわかりました。遺骨は,1948年に送還されたことになっていますが、家族のもとには届かず、不明のままです。 |
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読書案内 『「大東亜」戦争を知っていますか』 倉沢愛子 著 講談社現代新書 680円+税 なぜ「大東亜」戦争と著者は呼ぶのか。歴史が歪曲されていく危機感から「お母さん」は、あなたに正しく事実を受けとめて考えて欲しい。そのためには、当時の日本政府の戦争認識に迫るために、あえて「大東亜」と呼ぶのだと、娘ロミさんに語りながら話は進められていく。私自身に語りかけられているような錯覚を受ける。驚くほどの丁寧さで史実が明らかにされていく。事実は歪めようがない。すばらしい「教科書」として、一読をおすすめします。(小川) |
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GUNGUNインフォメーション
10月12日(土)生野朝鮮初級学校アボジチームとのサッカー練習 |