控訴審 第3回口頭弁論報告 2008年10月28日 東京高裁
いよいよ証人尋問始まる!
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いよいよ控訴審の最後、2回にわたる証人尋問が始まりました。10ヶ月ぶりの公開の弁論にもかかわらず多くの傍聴者が。昨年行われた1、2回目より多いくらいでした。
10月28日の第3回口頭弁論では、東京高裁101号大法廷で内海愛子さん(早稲田大学大学院客員教授)が証言。内海愛子さんは、韓国・朝鮮人のBC級戦犯問題の研究と解決に心根を注いでおられることは御存知のとおりです。
日本軍人軍属の経歴を隠して生活
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内海愛子さん |
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内海証言の核心は、日本の軍人軍属として徴兵徴用された方々が韓国・朝鮮人社会の中で戦後どのような苦痛を受けてきたか、靖国合祀がどう受け止められているかということにあります。「BC級戦犯者」や韓国での聞き取りを行ってきた内海さんならではの証言です。
内海さんはその聞き取りの中で、兵力動員された多くの方が戦後、「親日派との指弾を恐れ」その経歴を隠して生活せざるをえなかったこと、学校では「親日派の子ども」といじめられ、政府機関である韓国大使館員からさえも「国賊」と罵倒されたことなど明らかにしました。
また、靖国合祀についても、1980年に韓国のシンポジウムに参加した際、ある韓国人女性から兄の行方を捜して欲しいと頼まれ、探したところ彼女のお兄さんがフィリピン沖で戦死しており、同時に靖国神社に合祀されていた。このことをその女性に報告すると「今までは日本を恨むつもりはなかったが、これでは深く深く恨まざるをえません」と言っていたとのこと。韓国人にとって靖国合祀は、帝国支配そのものなのです。
第3回口頭弁論での内海愛子さん証言(抜粋・要約)
◆研究活動のそもそもの契機は、1975年にインドネシアで、日本の敗戦後におこなわれたオランダに対するインドネシアの独立戦争でゲリラとして闘い、その後「独立英雄」とされた旧日本軍の軍人軍属3人の内、2人の日本人と異なり、死亡通知も分骨などの措置もされていなかった梁七星(ヤン・チルソン)という朝鮮人軍属の遺族にせめて連絡をしようと思ったこと。
◆1980年に東亜日報のシンポジウムに出席した際、林孝順(イム・ヒョスン)さんという女性が兄の消息を知りたいと言って訪ねて来た。委任状をもらって厚生省に問い合わせたところ、1945年1月にフィリピン沖で戦死していた。しかし、この件について日本政府からの連絡は全くなく、一方で靖国神社に勝手に合祀されていた。この事実を前に彼女は、「今までは日本を恨むつもりはなかったが、これでは深く深く恨まざるを得ません。あなたには申し訳ないけれども」。
◆日本は不足する兵力を植民地に求めた。その結果、兵力動員は約24万2400人(内、戦死・戦傷病死が約2万強)。戦犯とされた朝鮮人は148人、その内129人が捕虜監視員で、その中の14人が死刑。
◆戦犯とされた人たちの戦後の境遇は甚だ悲惨なものであった。外地の刑務所から日本国内に移送されて来たものの、スガモプリズンに収容されるわけではなく、かといって祖国に帰ることもできず、横浜港に放り出され、仕方なく上野の地下道で新聞紙をかぶって寝ていたという話を聞いているし、自殺してしまったという話も何件か聞いている。
加えて祖国からは、日本に協力した者、取り分け「BC級戦犯」は国賊と見なされていたので、経歴を明らかにすることができなかった。
◆戦後、日本は植民地から動員した人たちの復員作業も連合国まかせで責任をとらなかった。
「BC級戦犯」は特に国籍を考慮されることなく罪を問われたのだが、日本が引き継いでからは戸籍と国籍条項によって補償からは排除されていった。
◆1992年の外務省の調査には、宗主国による兵力動員自体は珍しくないが、戦後の対応・補償において国籍を根拠に除外されるというのは日本だけであると記されている。
◆(日本の戦後処理について)戦争裁判では、植民地の問題とアジアの戦場については全く対応していないし、戦後賠償においても、アジアに対する占領と植民地支配の問題が検討されることはなかった。
◆戦後補償裁判において、請求棄却の判決の中で立法による解決を促したものが幾つもあるが、立法化が実現したことはない。
◆(裁判所に対して)立法府に委ねるのではなく、司法府としての責任を持った判断を示すことで被害者救済を図るという姿勢を見せてほしい。
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