2025年8月23日

青森「浮島丸」集会&フィールドワークに参加して(古川)


 8月23日、青森市内で強制動員真相究明ネットワークの「大湊海軍施設部への強制動員と浮島丸事件」テーマの研究集会と、翌日下北でのフィールドワークに参加した。
 動機はGUNGUN原告・林西云(イム・ソウン)さんのお父さん林萬福(イム・マンボク)さんが浮島丸で亡くなられているので、その真相に少しでも触れたいと思ったからだ。
 林西云さんは2009年に亡くなられたが、初来日は、02年4月「小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟」の口頭弁論だった。GUNGUN裁判第1回口頭弁論報告も兼ねた大阪での集会で、林西云さんが陳述書を読み上げた。一字一字丁寧に指で追い、たどたどしく文章を読み上げる。裁判を通じて原告と接していて痛感するのは、いかに侵略戦争を起こした責任のある日本人が戦後、朝鮮半島に戻った人々に思いを馳せることがなかったかである。林西云さんも、一家の大黒柱である父を日本に奪われてから生活が一変する。4歳の時に母が再婚し、祖母宅に引き取られるが、朝鮮戦争に巻き込まれる。教育も受けられず、11歳から布地の裁断工場で働きだすが、給料もろくに出なかったために14歳でソウルに出る。南大門市場で商品を売って暮らした林西云さんは18歳で結婚した。教育を受けられなかった林西云さんにとって、人前で話すことは苦手だった。いつも人の後ろについて歩いた。子育てが一段落ついたとき、自分と同じ境遇の人たちが韓国人遺族会として活動していることを知り、父が死ぬまでにたどった足跡を確かめるために、GUNGUN裁判の原告となった。たどたどしく文章を読む姿に、原告になってはじめて識字学級に通いだした林西云さんの戦後の苦労がにじみ出ていた。戦争被害が現在まで続いていることを象徴する姿だった。
 04年12月と05年8月、林西云さんと一緒に舞鶴の沈没現場に向かった。林西云さんのお父さん林萬福さんは、2歳の林西云さんを残し、日本軍に徴用され青森県大湊で働かされた。解放後、釜山港に向けて「浮島丸」に乗船するが、航行途中に舞鶴湾で爆沈し、亡くなった。舞鶴の前夜から通訳がいなくなり、お互い身振り手振りでやりとり。キムチチゲの調理法をめぐって日韓の違いが露呈したが、「案外おいしい」と大笑いしながら親交を深めた。翌日朝から、浮島丸の沈没現場にある「浮島丸殉難者追悼の碑」の前で、お父さんの供養をした。韓国から持ってきた果物やなつめなどのお供えと、日本で買った花束、酒を供えて祭祀を行ったあと、海に向かって花束を投げ入れた。目の前に島が二つ見える。そのちょうど真ん中くらいが沈没した現場である。「アボジー!あなたの顔を知らない娘が会いに来ました。アボジー!」そのときの姿が今もまぶたに焼き付いている。「父がどういう状況で働かされていたのか知るために大湊に行きたい」と言っていた林西云さんの遺志を胸に、空路青森へ向かった。

23日「大湊海軍施設部への強制動員と浮島丸事件」テーマに集会

 
   
 集会では今村修さん(青森空襲を記録する会)が「朝鮮人労働と大間鉄道、浮島丸」を報告。鉱山や港湾への連行があり、大間鉄道工事では警察も放置できないほどのタコ部屋による暴力があった。海軍工事では44年5月敗戦末期、大湊を拠点に戦闘する計画があり、物資が集積され、地下壕も数多く掘削され、その工事に朝鮮人が動員されたと話された。
 村上準一さん(浮島丸下北の会)は「大湊施設部への動員と浮島丸事件追悼活動」を報告、大湊は北の要として41年に大湊警備府となった。なぜ敗戦から1週間後の8月22日に朝鮮人を乗せて出港したのか、50年、54年舞鶴で船体の引き上げがあったがなぜ9年も放置したのかなど、真相を明らかにすべきと話された。
 竹内康人さんは、青森県での強制連行の特徴は鉱山や発電工事、鉄道工事への労務動員で約8000人近くが動員され、また大湊警備府関係の動員が多く、大湊施設部に4500人が動員されたことを報告。判明分だけでも大湊関係で1万3000人を超える朝鮮人が動員され、他の労務動員と合わせれば青森は2万人を超える動員数だったと話された。
 
24日「下北フィールドワーク」
 
  大間鉄道工事跡のフィールドワーク
 
  強制労働を物語る橋梁

 翌日、下北フィールドワークに参加した。行先は、下北半島北側の大間鉄道工事跡、大湊海軍工事関係の朝鮮人飯場跡、南側の大湊にある浮島丸出港桟橋跡など。
 まず下北半島の北側。大間鉄道工事は大間の要塞化に向けて戦時下に軍用鉄道として工事が進められたが、中断した。風間浦村の下風呂には鉄路用橋梁が残っている。現在では手すりが付けられ、再塗装され、駅舎も作られ、足湯が置かれるなど観光の場となっているが、ここは瀬崎組が請け負った朝鮮人の強制労働の現場である。続いて大畑の海辺にある二枚橋に残る橋梁を見学。この橋梁は加工されずに当時の雰囲気を残している。戦争遺跡であり、強制労働を物語る史跡でもある。
 続いて南側の大湊に移動。大湊には港を波から守るような形で芦崎があり、この芦崎湾一帯が海軍の拠点となった。海軍大湊警備府が置かれ、潜水艦隊、航空隊、海兵団、防備隊、工作部、施設部などの部隊が置かれた。海軍施設工事に協力する土建会社の数も多かった。現在も自衛隊の部隊の拠点である。
 戦時下、釜臥山の麓には地下壕が多数掘削され、地下工場や軍需物資の格納に利用された。この工事に多数の朝鮮人が動員。海軍施設部に動員された朝鮮人は海軍施設部の宿舎に入れられ、海軍施設工事を担った土建会社の朝鮮人は宇曾利川周辺や大平の飯場に住んだ。フィールドワークでは朝鮮人が集住した宇曾利川近くや地下壕が掘られた地区を歩いた後、常楽寺に行き、海軍の戦没者の追悼碑をみた。(この寺で下北の会による朝鮮人に関する過去帳の調査が行われた。『アイゴーの海』に掲載され、今回の集会資料に反映された。)
 寺の前の坂道を海に降りていくと、海を埋め立てた菊池桟橋跡に出る。そこの沖合が浮島丸が係留され、出発した場所だ。案内役の竹内康人さんが「8月22日という敗戦直後に浮島丸が出港した意味は何か?当時ソ連が参戦し南下。朝鮮人軍属の脱走が起こったり、ミレ島では脱走者虐殺なども起こっている。そうした治安対策や、朝鮮人による解放運動予防の一面が、早期出航の背景に考えられる」と説明。納得した。その船に林萬福さんが乗っていたのだ。浮島丸の姿と、林西云さんを思い浮かべながら黙とうを行った。
海に降りる 菊池桟橋跡

 フィールドワーク後、有志で竹内さんに場所を確認し、永下のトンネル跡に向かった。細い坂道を上がっていくとそれらしき広くなった場所に出たが見当たらない。まだ先かもしれないと進むと、別の参加者も探している最中で、一緒に先ほどの広くなった場所に戻り全員で探した。すると「あった」の声が。一段と細い道の先にトンネル跡があった。200mくらいの想像より長いトンネルだった。先に出口が見えていたので、反対側にも行ってみたが立派な工作物だった。竹内さんによると1944年完成で、敗戦時には毒ガスを貯蔵。ガス弾(イペリット弾60キロ爆弾)2000発で、戦後はむつ湾に投棄されたという。
 終戦直前まで強制労働させ、戦後は証拠を消すかのように、一まとめに送り返そうとした浮島丸事件の真相に近づけた集会とフィールドワークでした。最後に浮島丸事件の真相究明と記録を続けてこられた「下北の会」をはじめ現地の皆さんの活動に敬意を表します。

永下のトンネル跡 トンネルの反対側 トンネルの内部