2025年1月17日
1・17という運命の日に 1・17阪神大震災から30年の朝、神戸三宮の東遊園地の追悼行事に後ろ髪をひかれながら空港に急いだ。30年前の朝の記憶は昨日のことのように残っている。関西には大きな地震がないと信じ込んでいただけに、揺れの中で地震と気づくまでに時間がかかった。自宅は神戸駅の近くだったので建物は被害を受けたが倒壊は免れた。妻の実家が長田だったので、安否確認のために行った。高速道路が不通で国道もあまり車は走っていなかった。長田
戦後初の大都市災害ということもあり、地震発生直後から神戸市内部では多くの人権侵害があった。神戸市職員として許せない事案もあり、私たちは組合活動として問題提起を行っていた。長田区の南駒栄公園には日本人、ベトナム人のテント村ができており、生活保護を受けている人たちもいた。当時避難所に入っていると「衣食住」が満たされるという理由で生活保護を打ち切るという方針が出され、あまりにひどいということでTV取材も来ていたのがこの公園だった。そこで戦後50年の平和集会を企画し、招待されたのがヒジャさんだった。映画「あんにょん・サヨナラ」で描かれたが、私とヒジャさんとの運命的な出会いだった。あれから30年目の1・17にノーハプサ最高裁判決と聞き、東京行きを決めた。 自然災害と戦災 私には自然災害と戦争災害には共通点があり、解決するキーワードも同じだと感じている。生活再建への道のりに国家が冷淡であることと、日本国民が「我慢強い」点だ。昨年末ノーベル平和賞の授賞式で日本被団協の田中さんがスピーチで「何十万人という死者に対する補償はまったくなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。」と語った。「戦争損害は国民が等しく受忍しなければならない」という「受忍論」で戦争被害者の要求に背を向けてきた日本国。一方で軍人軍属だけは戦傷病者戦没者遺族等援護法で(靖国合祀とセットで)手厚く補償を行ってきた。 私は昨年6月に能登地震で被害を受けた珠洲町にボランティアに行った。そこは津波の被害も受けおり悲惨な状況だった。集落全体の古い家屋が倒壊していた。阪神大震災での最大の教訓「生命を守るために家の倒壊を防ぐ」という教訓は全く生かされていなかった。倒壊さえしなければ「圧死」も「焼死」も免れる。補強工事さえすればよいだけなのにこの国は30年間何をしてきたのか?劣悪な環境の避難所や仮設住宅の遅れも30年前と変わらないままだ。同じ昨年台湾で地震があり、発生日中には手厚い避難所が準備されたと聞いて恥ずかしい気持ちになった。 遅々として進まない国の防災対策の一方で、被災市民の力で勝ち取った成果もある。その代表が「被災者生活再建支援法」である。阪神大震災の被災市民が立ち上がり議員立法で成立させた。それまで自然災害の生活再建は「義援金」頼みだったものを根本から変えた画期的な成果だ。これまで被災者の「我慢強さ」の上に国家はあぐらをかいてきた。一方で国民意識に「新型コロナ」で話題になった「同調圧力」があり、変化にブレーキをかけていることも感じる。国家に対してストレートに批判することと、あきらめずに声を上げ続けること。自然災害も戦災も、それが未来への懸け橋になると考えながら東京に向かった。 最高裁判決で反対意見が
「判決を言い渡します。主文・・・」いつもなら20秒ほどで踵を返すように裁判官がいなくなるのだが、この日は違った。岡村裁判長は主文に加え、「事案の重要性に鑑みて」として、判決の要旨を朗読した。そして「補足意見と反対意見が付されている」と続けた。「やった!」内心そう思った。GUNGUN裁判提訴から四半世紀。裁判官から反対意見を聞くことなど、これまで一度もなかっただけに、内容はわからなくても、何か大きなことが起こっていると直感した。そして裁判所の敷地外に出て抗議集会。井堀弁護士から三浦裁判官の反対意見の内容報告を受けた。のちに判決文の写しをもらったが、そこには今までの「やってもやっても敗訴」を打ち砕く、「御用裁判」を一刀両断する文言が書かれてあった。 中でも感動したのは、次の下り。「朝鮮出身の戦没者を合祀の対象とすることについても 、被上告人が、主導的、中心的に、靖國神社と一体として、これを推進したことを前提にすると、本件情報提供行為と本件各合祀行為等も、上記目的の実現のため不可分一体の関係にあると評価することができる。そうすると、上告人らが本件各被合祀者を敬愛追慕する上で平穏な精神生活を維持する人格的利益は、現在も、本件情報提供行為と不可分一体の行為により 侵害が継続し損害が生じてぃるとみる余地がある。(略)このような場合に法益の侵害と損害の発生を待たずに 除斥期間の進行を認めることは、被害者にとって著しく酷であり、不合理である。」要するに「被害は現在も継続している」から「除斥の適用は不合理だ」と。ようやく私たちの主張が認められた、そう感じた。
午後からは、孫世代の新訴訟の原告予定者の朴善Y(パクソニョプ)さん、浅野弁護士たちと一緒に靖國神社へ行った。遊就館を見学したのち社務所へ。当初対応した神社関係者は「聞いてくる」といなくなり、残ったのは公安警察と警備員のみ。警備員は「神社側は会わないと言っている」と終始した。遺族を前に失礼な話である。朴さんからは「祖父は『中原憲泰』ではない、朴憲泰(パクホンテ)だ」と創氏名で合祀を続ける國神社に強く抗議した。金英丸さんからも「日本の遺族でも同じ対応をするのか」と抗議した。 今後「孫世代」の新訴訟へ 報告集会では、李熙子(イヒジャ)さんから「除斥などとんでもない。父の死を知らず闘いの中で知った。反対意見を聞きながら、あきらめずに闘い続けてきた意味を感じていた。感動した。子どもの道理を尽くすために闘ってきた。生存者が決してあきらめるなと応援してくれ、大きな力になった。ともに闘ってくれたからここまでこれた。今後平和な世の中を作るためにも日本は謝罪してほしい。希望をもって生きていきたい。訴訟を通じて記録を残すことが勝つことだと思っている。闘ってきた結果だと嬉しく思う。このタオルはそういう意味を込めて皆さんに贈りたい。」と参加者にタオルをプレゼントしてくれた。 今後、被害者の「孫世代」が新たな「靖国合祀絶止訴訟」を日本で継続し、さらに韓国内で軍人軍属裁判の要求内容で新たな提訴を行う予定と聞く。過去の冤罪事件や優生保護法での誤った政策による人権侵害が最近断罪されてきているが、この靖国合祀でもいつの日か断罪される日が来る。そう希望を持った一日だった。
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