2024年7月6日

ソウルでの「ミニ・トーク交流会」に参加して  (塚本)


 2024年7月6日(土)14時から、植民地歴史博物館1階ホールで「強制動員被害者運動記録写真展」のイベント「ミニ・トーク交流会」が開催された。私は「グングン裁判の要求実現を支援する会」の関西サポーターの一員として参加した。この交流会は、誰に何を伝えるためのものだったのか。参加者は30名ほどだったが、遺族の方々のほかに20代から30代の若いスタッフや青年・学生が多く集まっていた。これは、イ・ヒジャさんの「若い人たちが希望であり光である」という思いの表れにちがいない。
 キム・スンウン推進協執行委員長も挨拶で「被害者・遺族の粘り強い闘いの歩み、日韓市民の連帯の足跡を、記録写真と映像で残して伝え、『あの日』を記憶し、次につなげ、『その日』をつくるための交流会だ」と趣旨を説明された。この目的と趣旨に納得した私ではあったが、実はこのイベントへの参加にためらいを感じていた。最高裁でグングン裁判の上告が棄却された後も、遺骨の返還、被害者の記録探しなどの闘いが継続されていたにもかかわらず、古川さんや木村さんとちがって、私は10年あまりのあいだ持病やコロナで訪韓がかなわず、2018年にオープンした博物館にも来れずにいたからだ。交流会の前日、イ・ヒジャさんは私の顔を見るなり「会うのは何年ぶり?」と何度も尋ねられた。直接お会いするのは8年前の大阪以来だった。「8年ぶりです」と答える私の手を握り、再会を喜んでくれた。

「若い人たちが希望であり光である」

 はじめにイ・ヒジャさんが思いを語られた。「30年にわたる闘いの痕跡、記録を残してきた。『恨』」が多く、話したいことがたくさんあり、心の中で涙を流した」と振り返る。ヒジャさんの活動はなぜできたのか。「諦めるなと父が話してくれるかのようだった。父のいない子と言われないように、お父さんに恥ずかしくない娘として生きることにした」と。そして、「私のまいた種が実になった。大法院判決のように、諦めなければ勝つ」と。「誰が天皇のために死んだのか。ヤスクニに勝手に合祀し、日本政府だけが知って家族にも知らせない。容赦できない」。グングン裁判からノー!ハプサの2次訴訟へと闘いをつないできたヒジャさんは、今、3次訴訟を準備している。「私は三世に引き継ぎたい」「若い人たちが希望であり光である」と次世代への期待を表明した。 

イム・ソウンさんと舞鶴へ
 
  トークでの3人


 トークが始まった。大阪から参加した古川さん、木村さん、そして私は前に並んで座り、記録写真と映像を映してもらいながら話しを始めた。司会と同時通訳はキム・ヨンファンさんと野木香里さんのお二人だ。
 冒頭に映しだされた写真は、阪神淡路大震災のあった1995年にさかのぼったものだ。被災地に来られたイ・ヒジャさんと神戸市職員の古川さんが出会う。そこから2001年6月に始まるグングン裁判へとつながる。大阪での提訴ができず東京地裁への提訴となったため、法廷対策は東京で、支援の呼びかけや広報活動は関西で、という体制をとった。
 
イム・ソウンさんと04年舞鶴で  
 続いて、原告のみなさんと共にしてきた活動の足跡を写真と映像で振りかえっていった。 
 グングン裁判の原告は414名にのぼる。私が忘れることのできない原告の一人はイム・ソウンさんだ。04年12月5日から6日にかけて舞鶴へお連れした時の数枚の写真が映しだされる。ソウンさんの父マンボクさんは、「本土決戦」に備える地下壕建設のために青森県大湊に動員されて働かされていた。日本が敗戦し「浮島丸」に乗って帰国する途中、8月24日舞鶴湾で船が爆沈して死亡。その後靖国神社に合祀された。私たちはイム・ソウンさんを舞鶴へお連れした。浮島丸殉難者追悼の碑の前で供養を行ってから沈没現場に船で向かった。ソウンさんは海に花を投げこみ、「アボジー!アボジー!娘が来ましたよー!」と叫ぶ。3歳で父を亡くしたソウンさんは孤児同然の暮らしで学校に通うこともできなかったが、50歳を過ぎてから文字を覚えた。この日彼女は3日後に控える口頭弁論のために、陳述書の文字をなぞりながら読み上げて一生懸命に練習していた。今もその必死な姿が思い起こされる。それから5年後の2009年、ソウンさんは脳内出血のために急逝された。事件の真相究明や遺骨返還も放置し、靖国合祀はするという理不尽さへの怒りをかかえたまま、父の無念を晴らすことができずに他界したのだ。

全国に広がった「あんにょん・サヨナラ」上映運動
 
 05年に完成した日韓共同ドキュメンタリー「あんにょん・サヨナラ」は、靖国合祀の不条理を描きながら、加害国と被害国の壁を超えた心のつながりをつくりだした作品だ。3分間紹介ビデオと数枚の写真が映しだされた。東京「ポレポレ東中野」と大阪「シネ・ヌーヴォ」の劇場公開から上映が始まったが、学生が大学で、平和人権市民団体が地域で、大学教員が授業でと、全国各地にどんどん自主上映運動が広がったことを説明した。上映委員会事務局に携わっていた私は、各地の上映会で集めた感想文を持参して、トークの中で博物館に寄贈させていただいた。
 上映回数が減ったとはいえ、今でも「あんにょん・サヨナラ」は生きている。最近、4か国版DVDを購入した大学教員からメールが届いた。「私は10年間以上、学生たちにこのDVDを見せたり、日韓大学生が一緒に見て討論したり、お互いの感想文を交換したりしながら、かなり活用させていただいています。日韓学生がこのDVDを見て、感想文を交換すると、互いに不愉快になりぎくしゃくもしながらも互いの痛みや気持ちに寄り添おうとするところも生じてきて、ほんの少人数のほんの少しの変化を期待しながら愛用してきました」と。25年は「あんにょん・サヨナラ」完成から20年の節目を迎えるが、映画の意義は今も変わらない。ヒジャさんたちの手により第3次の靖国合祀取り消し訴訟が準備されているなかで、この映画をどのように生かすことができるか追求していきたいと思う。

ヒジャさんの思いを共有した「キムチ教室」

 
  2016年のキムチづくり
 次に「イ・ヒジャさんのキムチ教室」の写真が映しだされた。楽しみながらヒジャさんの思いを共有する場となったものだ。04年1月から08年2月までは毎年開催し、その後、16年4月にナム・ヨンジュさんも加わって開催することができた。毎回たくさんの人が集まり、キムチのほかにトッポギやタクチュクなども作ってワイワイ言いながら食した。ヒジャさんのお話を聞き、おいしい料理に舌鼓をうつ。この催しはいつも大盛況だった。
 木村さんが思い出を語る。前日木村さんの自宅にスタッフが泊まり込んで準備をした。ヒジャさんに教えてもらいながら一晩かけて白菜を塩漬けにし、材料の野菜類をひたすら刻む。私たち男性陣も、指が痛い痛いと言いながらニンニクをつぶした。天日干しの唐辛子など日本で得られないものは韓国から届けられた。ヒジャさんの食に対する姿勢、ていねいな姿勢を身をもって学ぶ取り組みだった。作ったキムチは私たちの職場や友人などに販売。古川さんは職場の同僚に宣伝し、いつもたくさんの予約を受け付けていたという。
 今回の訪韓で「次はチャプチェ教室をやろう!」という案が浮上した。ヒジャさんと一緒に「おいしい交流」をぜひ実現したいと強く思う。

裁判支援を始めたきっかけを問われて
 
 
  開会前にインタビューを受ける
 休憩ののち、私たち3人への質問と回答の時間。グングン裁判の支援運動を始めたきっかけは何か?と問われた。私は、いくつかの契機のうち一つだけ答えることにした。私の父は徴兵されて戦地に行ったが、マラリアに罹ったために日本に送り返され、マラリアは完治した。戦争が終わると日本政府は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」などの法をもとに、父への生涯にわたる経済的援助や国鉄(JRの前身)の無賃乗車などを約束した。この法制度による支出総額は50兆円にものぼるという。元気に社会生活を送っていたにもかかわらず父に対しては厚遇し、他方では韓国・朝鮮の被害者と遺族は外国人だとして、どんなに苦しみを強いられていても国籍条項によって排除した。この不条理、差別を放置したままでいいはずがない。この考えに突き動かされて支援活動を続けてきた。
 もう一つの質問は、運動をしていて、しんどかったことは何か?というもの。難しかったことは高校教員という仕事の制約のため思い通りに休暇をとって運動に参加することができないということだけだった。それよりも良かったことがある。幾人もの在日コリアンの生徒と出会うなかで、日本の植民地支配の歴史と差別の現実を勉強するようになったことが、私にとっての大きな財産だ。またこのニュースレター第2号から第38号にわたって「たまちゃんのハングル講座」を連載したが、担当の「たまちゃん」は私の教え子だ。韓国の大学を卒業した彼女は、日本で韓国でグングン裁判にかかわる通訳や翻訳で大活躍してくれた。

元気でいてくださいチェ・ナックンさん

 
  チェ・ナックンさんを真ん中に
 休憩時間にチェ・ナックンさんとお話しすることができた。グングン裁判の原告ではないが、私たちが韓国を訪れるときは必ずといっていいほど温かく迎えてくれたことが思い出された。体調がすぐれないと聞いていたので尋ねてみたら、「糖尿病のために短期間に20キロもやせてしまった」と言う。昔と変わらずスタイリッシュな白いスーツをまとってはいたが、頬がこけ、覇気は感じられなかった。ナックンさんは何度も証言集会や議員要請行動のために来日し、「父がいない苦労で学校へ十分に行けず、ソウルに家出し物乞いをして暮らした」と私たちに苦労を語った。お父さんは戦時中に日本に動員されたのち、その足取りがわからなくなっていた。日本で年金記録の調査を行なった結果、お父さんは福岡の貝島炭鉱で働いたことが判明し、14年には、お父さんの生きた地でのチェサ(祭祀)を実現することができた。別れ際にかけた言葉のとおり、「いつまでも元気で長生きしてください」と心から願うばかりだ。

 
展示を見る筆者  
 
参加者全員で記念撮影  
「種をまき、芽が出て、実がなる」まで


 私たちが座っていた後ろの壁一面には300名ほどの被害者と遺族の肖像写真が並べられていた。グングン裁判の原告のほかノー!ハプサ、日鉄、三菱、不二越の各裁判の原告たちであり、一枚一枚に苦しみ、悲しみ、怒りの歴史が刻みこまれている。その写真を見ていると、他界された原告の顔が目に飛び込んできた。ブーゲンビルの激戦を生き抜いたキム・ヘンジンさん、シベリアに抑留されたイ・ビョンジュさん、浮島丸事件の遺族イム・ソウンさん、お父さんがニューギニアで戦死されたコ・イニョンさん、ニューギニアでお兄さんが戦死されたナム・ヨンジュさん、お父さんが沖縄戦で亡くなったクォン・スチョンさん。直接お会いして、行動を共にした方たちだ。日本政府は、都合の悪い歴史を闇に葬り去り、被害者・遺族が諦めること、そしてこの世から消えるのを待っているのだろうか。許せない。 
 
 この日のミニ・トーク交流会は2時から4時までの予定を大きくオーバーし、閉会は5時をまわっていた。会場を出たところで、日本からの2人の交換留学生とノルウェイ出身で日本と韓国で研究している大学院生が紹介された。日本に、世界に、学んだことを発信してくれるようにお願いした。交流会とインタビューをとおして、強制動員被害者と共に歩いた20年あまりの歴史を振りかえることができた。「遺骨と記録に解決済みはない。ここで歩みは終わらない、諦めるわけにはいかない」と改めて思う。「種をまき、芽が出て、実がなる」というヒジャさんの言葉が実現するよう、私たちも力を尽くしていきたい。