2023年10月12日

太平洋戦争被害者補償推進協議会創立22周年の記念式典
    推進協と共に22年 私たちが歴史だ (木村)



 
いつも明るい遺族の皆さん  
 10月12日、太平洋戦争被害者補償推進協議会創立22周年の記念式典が、ソウル植民地歴史博物館で開かれた。本来20年という節目に開かれるべきだが、コロナのせいでやっと22周年に開かれることになった。コロナで行き来ができない間はZOOMで何度か会議を開催。数人の遺族とスタッフは東京での集会で会うこともあったが、ソウルで一堂に会するのは久しぶりだ。この集会には、推進協と共に活動されてきた各団体が参加された。参加団体は推進協の長年にわたる活動がいかに多くの運動と共に歩んできたか 指し示す道標のようだった。

 開会の辞の後「強制動員被害者と日韓市民が共に歩んだ22年」という映像がスクリーンに映し出された。次々と流される映像は懐かしくもあり、すでに亡くなられた方々の姿に 思わず涙がこぼれる。ついお名前を呼んでしまっていた。

 
  姜宗豪(カン・ジョンホ)さんの娘さん
カン・スユンさん
 集会には姜宗豪さんの娘さんと息子さん、お孫さん2人も参加された。仁川空港から植民地歴史博物館へ向かう車中で姜宗豪さんが既に亡くなられたと聞いていた。姜さんは日本で開かれた「強制動員被害者に聞くまだ終わってない話」で「父の記録を探したいです。それが子供としての父に対する最後の道理であると考えます。日本政府は最小限の誠意でも見せてください。持っている資料を全面公開し民間団体と韓国政府の調査活動に積極的に協力してください。そうすれば私のような恨を持つ遺族達に少しでも慰労となるでしょう」と訴えておられた。その後、年金記録から西大洋漁業統制株式会社(現マルハニチロ)所属第26北新丸の機関長をしていたことが分かり、2014年下関港で海に向かってチェサをあげられた。海に向かって積年の思いと共に「アボジー」と叫ばれた。

 
集会後にご家族と記念撮影  
 記念式典に参加された姜さんの娘カン・スユンさんは、追悼の辞で「日帝強占期被害者に対する国家の無関心が問題視される前に、実は自称『世界で一番愛する娘である私』ですら、父の痛々しい過去から顔を背けていました。私から率先して私の下の家族やその子孫が、祖父と父が植民地生活によって受けた苦しみについて、日本政府の真の反省と責任を果たすように、私自身から関心を持ち一助となって長い歳月、恨を抱いてきた父の悲しみを少しでも和らげてあげたい」とメッセージを寄せられた。

 この夏、ヒジャさんが「裁判は直近の遺族から次の世代に引き継がれていく」と話しておられたが、本当に次の世代、更に先の世代まで引き継がれていることを目の前にする集会だった。ヒジャさんのメッセージ「あきらめるな、あきらめたら負けだ」は、これまで闘いを継続されてきた方々の思いも引き継ぐものとして発せられた言葉だ。

【姜宗豪(カンジョンホ)さんのGUNGUNニュースの記事】
        2014年5月31日発行 77 より抜粋

 
  下関の海に向かってチェサをする
姜宗豪(カンジョンホ)さん
 朝から下関図書館で、当時の船着き場の様子など写真で確認。林兼商店の社史なども重要な本数点を確認した。昼からは関釜連絡船の発着場、動員された朝鮮人の収容施設跡などを見学。そして会社跡地へ、跡地には太平洋漁業株式会社の小さな碑がある。数百メートルの海岸線と向こう岸一帯を林兼が独占していたそうだ。そこから100メートルほどの林兼商店の船が出入りした海岸でチェサを行うことにした。食事の後、チェサを始めようとすると、姜宗豪さんが果物を買いたいと言い出した。簡単に行うつもりだったようだが、現地に来てみると、果物も買ってしっかりやりたいと思うようになったという。みんな大至急買出しに行く。海岸に向かってのチェサは、また思いが入る。埋め立てで変貌したとはいえ、アボジが見た海が、アボジが南洋に出ていった海が目の前に広がっているのだ。「アボジー!」と海に叫ぶ姜宗豪さん。しっかりと祭祀をやり遂げた。「アボジー!」と呼んだのは初めてだという。祭祀の時、目の前に、アボジがいたのだろう。そして姜宗豪さんはお父さんに対する恨みが消えたという。日本軍が強制動員したのになんて辛い話だろう。

**民間戦没船遺族**
 日本軍に徴用された民間戦没船は7240隻とされるが、小さな船会社の船や漁船も多く、大半は詳細な記録が残っていない。犠牲者は日本人の場合、「準軍属」として戦傷病者遺族等援護法認定され、遺族に年金給付されているが、韓国人は国籍条項により除外されている。