2021年6月19日〜25日

沖縄南部土砂採掘に反対する沖縄第2次ハンストに参加して(上田)


 2020年4月沖縄普天間基地の辺野古移設工事で軟弱地盤が見つかり設計変更を余儀なくされた防衛省が沖縄県に設計変更の申請を出した。この時南部からの土砂採掘計画も出された。南部からの調達可能量は、県内調達可能量の約7割にあたる。しかし事の重大性を誰も指摘していなかった。沖縄の過去の新聞を見ても何も載っていない。ところが2020年11月、具志堅さんがいつものように遺骨を掘りに出かけると採掘業者が土砂を掘る準備を、遺骨を掘るそばで進めていた。調べるとこれが辺野古基地の設計変更申請に伴うものだと分かった。そこで、今年3月に1人でもハンストに立ち上がろうとしたところ、相談した島ぐるみ宗教者の会の方から「みんなで県庁前で訴えよう」と言われ第1次ハンストにつながった。この闘いを通じて、辺野古基地設計変更申請の土砂採掘計画に南部の土砂が含まれていることが県民に明らかになり、県民の怒りは爆発した。
 第2次ハンストは6月23日の慰霊の日に向けて沖縄県民の心を一つにし、辺野古基地変更申請不許可の知事の判断を後押しする闘いとして再スタートした。毎年6・23は具志堅さんとともにDNA鑑定説明会と平和公園でのDNA鑑定の集団申請の呼びかけ行動を行っているが、具志堅さんと太平洋戦争被害者補償推進協議会のズーム会議(4月)で6・23を機に韓国人の集団申請を行うことが決まった。6・23は遺骨を遺族に帰すために厚労省に圧力を加える重要な闘いの日となった。
 
県庁前ハンストテントで遺族が署名  

 
  遺骨を守れ!具志堅さん
6月19日 ハンスト1日目(沖縄県庁前)
 沖縄でのハンストテントが始まった。残念ながら私は仕事で2日目からの参加。19日と20日は県庁前広場、21日から23日は摩文仁の平和記念公園にテントは移される。「第1次ハンストは予想以上の反応があった。遺骨が混じった土砂を新基地建設に使わせないという遺族の声を知事に伝えたい」と具志堅さんは昼の集会で訴えた。

6月20日 ハンスト2日目(沖縄県庁前) 
 5時に家を出て10時前に那覇空港着。沖縄の暑さに驚く。蒸し暑い。県庁前ハンストテントに直行する。「遺骨は遺族のもの 戦争基地に投げ込むな」の垂れ幕が中心に掲げられている。この垂れ幕はこの後もずっとテレビや新聞に映し出された。1次ハンストの後、4月に厚労省・防衛省交渉があった時に、日本兵遺族のお孫さんが「祖父は国に従い沖縄に行き言われた通り死んできました。しかし遺骨は家族のものです。国のものではありません。」と言った。これはハンスト前日19日のTBS報道特集でも伝えられ、「遺骨は遺族のものです」がハンストの合言葉となった。県民遺族も日本兵遺族も共通の思いを根底においた闘いのシンボルとして掲げられた。島ぐるみ宗教者の会や3月に結成された沖縄のガマフヤー支援の会、東京の日本山妙法寺などが協力して座り込む。
 
日本山妙法寺と具志堅さんが座り込み  

 熱中症になるような暑さが2日目も続き、具志堅さんもまいっている。今日は昨日より厳しいらしい。座っているだけで体力が消耗し、体の温度が上がってくるのが分かる。緊急事態宣言が沖縄のみ延長されたことで県庁前にはほとんど人が通らない。日曜日のにぎやかさがまるでない。でも遺族は激励にやってくる。「コロナだから子どもたちから外に出たらダメと言われたけれど、知らん顔してきました。」と語るおばあちゃん。具志堅さんと固い握手を交わす「絶対負けられないよ」と。水を持ってきてくれる人。カンパを持ってきてくれる人。皆遠くからわざわざやってきてくれている。決して通りすがりではない。テントでも前日のTBS報道特集が話題になっていた。「20分もやっていた。遺族の声がしっかり入ったいい番組だった。」
 
テント横の看板  
 昼休み集会では、私は具志堅さんの取り組みを紹介する役で、これまでの成果を話した。「戦没者遺骨推進法成立以降、遺品のない遺骨のDNA鑑定を認めさせただけでなく、軍人だけではなく県住民もDNA鑑定の対象にさせた。歯のある頭蓋骨だけでなく手足の遺骨も家族であり鑑定の対象とすることを認めさせた。沖縄戦以外のフィリピンやサイパンで亡くなった遺族のDNA鑑定の希望を認めさせ、希望者の名簿を厚労省に受け取らせた。DNA鑑定ができなくなる現地焼骨を止めさせた。10月からアジア太平洋全域の遺族の鑑定が始まる。」「DNA鑑定は難しい科学の話ではない。遺骨を掘る人はいるが遺族に返すまで本気で考える人はいない。これは具志堅さんの愛の闘いである」と訴える。韓国遺族のことや、支援も訴える。「着実な成果を上げてきたんだねえ」と感想が寄せられる。お寺のお坊さんからは「愛の闘い」は「キリスト教」みたいだねと言われた。
 とにかく暑いし体温が上がる。具志堅さんは地下駐車場で10分ほど体を冷やしてきたそうだが、もう一度行くことを勧める。「1時間前に言ったので・・」というが、1時間おきに行かないと熱中症で倒れたら大変だと説得し、また10分ほど離れてもらう。30代後半の若者がやってきて「昨日のテレビ見ました。自分は知らなかった。海に投げ入れるなんて。絶対許されない!」と署名に駆け寄った。別の30代の若者も怒っていた。「どんな気持ちでみんな自決していったと思っているんだ」声は震えていた。本土では集団自決のことも知らない人がほとんどかもしれない。6・23が沖縄慰霊の日であることを知らない人が75%に上ると報道されていた。しかし沖縄は若者まで怒りに震えていた。1次ハンストでは見られなかった光景だ。1次ハンストで衝撃を受けた本土のマスコミ関係者がしっかりとした映像・コメントをつくり2次ハンスト・慰霊の日にむけて取り組んできた結果と言える。
具志堅さんはこの暑いスタートの2日でほとんど体力を消耗してしまった。5時の行動終了と同時にテントで朝まで寝込んでしまったそうだ。

6月21日 ハンスト3日目(平和記念公園に移動)
 10時に摩文仁へのテント移設が完了する。雨が降っていて、人の流れもほとんどない。11時になると一人の遺族がテントに来られた。テントで座っている具志堅さんの前で、降り続く雨で濡れている地べたに両膝と両手を付けて、傘もささず長く頭を下げている。「具志堅さん、家族のためにありがとう」と私には聞こえる。具志堅さんも同じように頭を下げている。「ご遺骨とご遺族のためにがんばりましょう」と私には聞こえてくる。雨の中で終日、ハンストテントでの行動が続いた。昨日までのような暑さもなくお腹は減るが体力は急激に落ちることはなかった。
 
  平和祈念公園 雨の朝
 昼の集会で具志堅さんは「毎年この時期になるとご遺骨に安らかに眠ってくださいという。でも今年は安らかに眠れる状況じゃなくなった。ご遺骨に一緒に闘ってもらわないといけない。」と話した。私も「具志堅さんと一緒に取り組んできた責任として具志堅さんの取り組みを何度も何度も皆様に伝える義務があると思っている。初め戦没者遺骨収集推進法ができて沖縄でDNA鑑定が始まる時、案の定、軍人だけに呼びかけられ県民は排除されていた。具志堅さんは、県民を対象に入れると厚労省が認めていない段階で、集団申請で希望する県民の名簿を厚労省に提出した。沖縄の国会議員の皆さんが休会中にもかかわらずみんな集まった。マスコミも多数が参加し、その厚労省とガマフヤーの意見交換会の直後、厚労省はマスコミに県民を参加させると発表した。」と訴えた。具志堅さんのこんな話が印象に残る。「デニーさん。助けてくみそーれ」1次ハンストの県庁前で語った具志堅さんの言葉が新聞にもよく報道された。「知事助けて下さい」と言うお願いの意味でただの沖縄方言かと思っていたが、ガマで崩れた奥にいた家族と手前で助かった家族の会話だそうだ。奥にいた家族は餓死してガマで死んでしまったそうだ。こんな悲劇が背景にある言葉だと集会でみんなに説明していた。具志堅さんは遺骨を40年間掘り続け沖縄の各地であった現場の戦争の悲劇を体と心に染み込ませている。「自分がハンストしても沖縄戦の県民のように本当に死にはしない。」トイレの石鹸で頭を洗ったり体をふきますかと言っても「震災にあった人も体を洗えなくてテントで寝ていたから大丈夫」と受け入れない。
 昼すぎ女性と具志堅さんが話す周りを囲んでマスコミが取材している。遺族の方と話をしていると思っていたら、後から聞いたらあの赤木ファイルの赤木雅子さんだと聞いて驚く。「戦没者を2度殺すな」という看板に夫と同じだと共鳴したと言う。わざわざ日帰りで応援に来たとのこと。翌日赤木ファイルが公開された。

ハンスト3日目 行動終了後
 
  学生たちがテントを激励
 17時30分に行動が終わると具志堅さんもそそくさと寝だす。私も眠りにつこうとする。体力がないので寝るしかないのだ。すると、若者がぞろぞろと激励にやってきた。琉球大学の基地問題のゼミの1年生たちだ。教授が引率してきた。具志堅さんは起き上がり学生たちが半円になり講義が始まった。「ゼミに入って考え方が変わりましたか?」と学生たちに聞く具志堅さん。学生たちは「変わりました」と答える。私はテントで寝ているわけも行かず外に出て、他の人と、ぼおっとしている。1時間もすると、今度は椅子がみんなに配られさらに講義は続く。あたりも真っ暗になったころ「厚労省は遺族のためにちゃんとやってますか?」という質問に、私が呼び出され厚労省との交渉の経緯などを話すことになる。頭がもうろうとしているが、何とか答えることはできる。「厚労省は歯のある遺骨しか鑑定の対象と認めなかった。手足は鑑定できないと言うんです。遺族は手足も一片の骨も家族です。私たちは研究論文を翻訳し大臣に渡し状況を変えさせました。厚労省が本当のことを与野党の政治家に隠している。」21時も過ぎてやっと眠りにつこうとすると、具志堅さんが「上田さんお客さんだ来て」と呼び出される。遺骨収集のボランティアで沖縄に来ている青年団がガマフヤーに話があるという。幼少期に飲んだ水や食物によって安定同位体比検査で育った場所が分かる検査についてしっかりやりたいがどうすすめるかという難しい相談だ。この検査は年代が分かる検査もあり沖縄の古墓遺骨なのか戦没者の遺骨なのかもわかるので、沖縄戦遺骨鑑定に実用化が始まっている。2016年には安定同位体検査で米兵2名の遺骨が判定され米軍に帰されている。がぜん目が開き1時間以上の相談が始まった。「遺骨を遺族に帰したい、遺骨を故郷に返したい」という思いは具志堅さんの闘いで遺骨収集のボランテアの中にも少しづつ広がってきている。遺骨問題に右も左もない。「戦没者遺骨を家族のもとへ」ガマフヤーと私たちは遺骨問題のど真ん中の道を進んでいく。いったい暗闇で何の話をしていたんですか?とテントの仲間にも説明が始まった。DNA鑑定でもなじみが薄いのに安定同位体の話を分かりやすく説明するのに、また1時間が過ぎる。小さなテントで寝ていた人たちもうるさいのか関心があるのか起き出して話に加わる。ハンストテントでは色々な出会いがある。

ハンスト3日目 真夜中
 0時も過ぎみんな眠りにつく。今晩は雨が降るらしい。もし雷が鳴りだしたら危険なのでトイレに駆け込もうとみんなで確認する。大きな運動会のテントに5人。外で小さなテントが3つ。うとうととしていると雨が降り出した。眠りについた2時、突然土砂降りの雨がテントを打つ。この音はニューギニアでお父さんを亡くしたコ・イニョンさんと現地のホテルで聞いた雨音と同じぐらいの大きな音だと思い出しながらいると、バタン・バタン・バタンと大きな音でみんな飛び起きた。テントの雨よけのシートの重りの椅子が吹き飛ばされた音だ。それから突風がふく雨嵐の状態でずぶ濡れになりながら、テントを飛ばされないように1時間必死でテントを押さえていた。3時が過ぎると風がやみテントを抑える手や足を離すことができた。すると私は突然おなかがすいてきた。他の人もいっせいに「おなかが減った」と言い出した。皆で不思議がっていると「人間というのは安心するとおなかが減るんだなあ。」と誰かが分析し納得した。その後も雨でずぶぬれのテントの雨除けシートを飛ばされないように足で抑えながら空腹のままみんな寝込んでしまった。後から聞いた話だが、映画を撮りに小さなテントで寝ていたカメラマンが「テントが吹き飛ばされたので、ハンストテントにカメラを持って逃げ込んだが、皆が嵐と格闘している場面をとれてよかった。」と言っていた。映画人根性を見た。ハンストテントの楽しい思い出だ。

6月22日 ハンスト4日目(Zoom記者会見)
 
  記者会見にのぞむ具志堅さん
 嵐で無茶苦茶になった周辺の展示物やテントを朝から整理する。嵐の現場でもまた今日もハンスト行動は続く。雨の朝トイレで頭を洗ったりお茶を飲んだり気持ちはいいが、緊張している。実は今日は10時からテント現地と韓国、日本本土のマスコミを結んでズームで記者会見をすることになっている。具志堅さんに加え、米退役軍人のダグラス・スラミスさん、韓国から太平洋戦争被害者補償推進協議会のイ・ヒジャさんパク・ナムスンさん、そしてテントから沖縄戦遺族の方にも発言をいただく予定だ。私が司会者である。機器の扱いは日本山妙法寺の若者たち。9時になるとマスコミから電話が入ってくる。ダグラス・ラミスさんがテントにやってきた。
 いよいよ10時になる。テントにも人が集まりだし、マスコミもどんどんズームに入ってくる。やるしかない!と定刻でズームの報道提供が始まった。具志堅さんの短い発言の後、米退役軍人のダグラス・ラミスさんが発言する。ダグラスさんは「ベテランズ・フォー・ピース」という米退役軍人の平和団体を作っている。「遺骨が入った土砂を基地に使うなんてグロテスクだ。信じられない。先輩の眠っている土砂を基地には使わせない!」「米国は宗教に熱心な人が多い。これはおかしいと思うだろう」などと訴えた。また「具志堅さんの手紙を英訳してアメリカのDPAA(米国防省捕虜・行方不明者調査局)に送り3日前に届いたことを確認したので何らかの返事が来るだろう」と話した。
 
  DPAAに送った手紙では名前が入った
米兵の遺品(食器)の返還を申し出た
 この手紙には具志堅さんが見つけた名前入りの食器を返還したいことも書いてあり、必ず返事は来る見込みだ。今回米国からのマスコミ参加は得られなかったが、この手紙のやり取りを通して米国世論に切り込んでいく計画だ。ダグラスさんのお話が音声が入らず3回も最初の部分をやり直してもらった。嫌な顔せず何回もやり直してくれるのは、しっかり皆に訴えたいという強い気持ちがあるからと思った。辺野古の土砂問題では国会で立憲民主党の白眞勲議員が防衛省に対して南部に米軍の遺骨がある可能性について問いただし、防衛省は可能性があることを認めた。米国政府に伝えないのかという質問に、まだ決まっているわけではないのでとあいまいな答弁に終始したが、今後の一つの方向性がここにある。第2次ハンスト行動でダグラス・ラミスさんのマスコミへ発言の場を作ることができてよかったと思う。
 韓国からイ・ヒジャさんが発言した。沖縄戦遺族のパクチュナさんコン・スチョンさんは、足が痛かったり、体が悪く参加できないとのこと。「動員した日本は遺骨を家族に帰さなければならない責任がある」「私たちが闘うのは家族だからだ。戦没者の血の染み込んだ土砂を戦争基地に使うのは絶対に許さない」と声を大きくした。
 
韓国から李熙子さん  
 遺族の高齢化は日本も韓国も同じだ。2016年戦没者遺骨収集推進法の成立時、塩崎元厚労大臣は「国境を越えて日本も韓国も遺族の気持ちは同じ。韓国政府の具体的提案があれば対応していく」と答弁した。しかし現在厚労省は「塩崎元厚労大臣の発言から後退していない」と言いながら、「日本人が終わってから韓国人をする」と言い放っている。日本も韓国も遺族の高齢化は同じ問題であり、こんな対応は許せない。韓国人遺族がみんな亡くなってしまう。ヒジャさんに続き、ブラウン島でお父さんが戦死したパク・ナムスンさんも発言した。日本政府は今年の10月から沖縄以外のアジア太平洋地域の遺族のDNA鑑定の募集を開始する。ガマフヤーは韓国人・アメリカ兵・台湾の遺族へも集団申請の参加を呼び掛けている。太平洋戦争犠牲者補償推進協議会の遺族はこの呼びかけにこたえて集団申請のたたかいに参加する。
 沖縄戦遺族で81歳になる城間恒人さんの訴えは衝撃的だった。「父と兄妹8人を亡くし3人の兄弟が遺骨が見つからない。当時、死んだばかりの遺体は踏み越えていけるが、数日たつと腐ってお腹が膨れてぶよぶよになる。子どもの私には踏み越えることもできない遺体がそこら中にあった。それが南部だ。私の3人兄弟の骨が入っているかもしれない。南部の土砂を基地に埋めるなんて絶対に許せない」。具志堅さんは「城間さんの話を聞いただけでも南部土砂での辺野古埋め立ては絶対に許せない。なんとしても止めます。」と決意を語った。このズームの報道提供では国内で沖縄テレビ放送・赤旗そして韓国ではハンギョレ新聞・連合ニュースが報道した。今後いくつかが予定されていると聞く。
城間さんの話を聞いて「戦没者の血と肉と骨が染み込んだ南部の土砂」という言葉のリアリティーを本土の人たちに伝えていかねばと思う。ダグラス・ラミスさんイ・ヒジャさん城間さんの訴えはしっかり伝わり報道された。

6月22日(摩文仁平和記念公園)
 お昼の集会が12時から始まる。具志堅さんも韓国や台湾、アメリカの遺族と連携していく方向を訴える。昼からも署名の集まりは人の流れがないので鈍い。1人の方とDNA鑑定の話になりDNA鑑定の申請を受け付けることになった。目が覚めた。明日は23日だ。遺族が続々と慰霊にやってくる。毎年平和記念公園の片隅で数千枚のビラを配りDNA鑑定の呼びかけをしていたのを思い出した。昨年はコロナのためにできなかったので、やりたい人がいるはずだ。具志堅さんは座り込んでマスコミや遺族の対応に追われるため、明日は私1人で署名していただいた遺族一人一人にDNA鑑定を呼び掛けようと決意する。

6月23日 ハンスト5日目 朝(摩文仁平和記念公園)
 昨日お寺で寝て元気を回復した私は、お寺で朝から温かいお茶を飲み6時にハンストテントに到着。毎朝誰かが新聞を持ってきてくれる。「金沢市で南部土砂の採掘反対の議会決議が上がったって」と話になる。全国に広がっていくんだろうなと思う。
日本山妙法寺の面々が7時半から平和行進に出るので、今日は頑張ってテントの行動をしよう、DNA鑑定の呼びかけをしようと最後の力が湧いてくる。一方テントで毎日泊まる具志堅さんの体力が限界にきているのが見ていてわかる。今日は遺族が平和の礎にお祈りするため続々とやってくる。式典はコロナの緊急事態宣言の影響で30人でやるそうで、目と鼻の先だ。署名をしよう、具志堅さんを激励しようと、次々遺族がやってくる。毎年23日には小さなテントを張り行動しているが、今年は違う。県民1人1人が怒っている。「絶対こんなこと許してはダメ。がんばりましょうね」と皆、具志堅さんに声をかける。
署名では遺族用の署名が一般の人と分けて受けつけられている。知事に遺族の声を伝えようという考えだ。遺族用の署名をしてくれる人にDNA鑑定の声をかける。「どこで亡くなったかわからないんですよ。遺品が出たわけでもないし」と言うので、「そのためにDNA鑑定があるんです」「すぐそこの安置所に700の遺骨がある。そのご遺骨を鑑定しているんです。そのご遺骨と遺族のDNAを合わせるんです」と答える。23日は18家族が応募した。日本山妙法寺の女性のお坊さんも「ご遺骨は見つかっていますか。ご遺骨が800ほどあってご遺族と照合するんです」と話しかけだした。丁寧に優しいことばで数家族の申請をいただいている。日本兵遺族のお孫さんの女性もDNA鑑定の声をかけ出した。私の目の前でどしゃ降りの雨の中取り組まれているDNA鑑定の集団申請の呼びかけは、「科学」という難しい話ではなく、まさしく宗教者や遺族の愛の活動だ。

知事がテントに
 
  デニー知事と具志堅さんが固い握手
 式典が始まると、マスコミがテントの前で動き出した。玉城デニー知事にテントに来てほしいと事前にガマフヤーが要請したことが報道されていたからだ。事前の県との折衝で、テント前で遺族の署名や要請書は直接受け取ることはできないが訪問に来ることは確実になっていた。決定的場面を取りたいマスコミがテントの前に集結し、日本山妙法寺のお坊さんたちが最前列で規制している。どんどん雨が強くなってきた。具志堅さんと知事に訴える遺族が待機するが、式典も延び、ますます雨が降る。「テントのたまった水が落ちて濡れますよと」と声をかけられたカメラマンは「濡れるのは覚悟しています」と大きな声。
 デニーさんがやってきた。2人が握手する。具志堅さんから「辺野古基地の設計変更申請を不許可にするとき、南部土砂の使用は人道的に許させないことを不許可の理由に入れてほしい」と訴えた。その後、遺族から知事への訴えがあった。知事は「できることを一生懸命頑張りたい」と答えた。フラッシュがたかれると同時に「デニーさん頑張れ!」の声があちこちから起きる。拍手が次々起きる「デニーさん頑張れ!」の声。私はなんという現場にいるのか、沖縄の遺骨を含む南部土砂の採掘問題が県民に戦争を思いおこさせ、亡くなった家族のことを思い起こさせ、遺骨を戦争基地に投げ込むな!血が染み込み肉が腐り骨が混ざった南部土砂を掘り返すな!遺骨を守れの声が知事の大きな後押しとなっている。6月23日慰霊の日、沖縄の心は具志堅さんとともにあった。

知事がテントを離れてから
 少し遅めの昼集会が始まった。慰霊に来た遺族もたくさんおられ、テント周辺に300人はいる。少し雨がやんだがテントは次々と署名に来る遺族やDNA鑑定の呼びかけでごった返している。すると中学生と付き添いのお父さんがやってきた。「遺骨を3体見つけたんです。弁当箱に軍の部隊の名前や氏名が書いてある。どうしたらいいでしょうか」とスマホの写真を見せてくれる。コロナの関係でボランテアが海外に行けないことや、具志堅さんのたたかいもあり今年に入り県の遺骨発掘が活発化している。2020年3月には8体の子どもを含む完全な遺骨が見つかって話題となり今DNA鑑定を待っている。日本青年遺骨収集団も沖縄に入り20体の遺骨を昨日収集したそうだ。この中学生も関心を持って見ているから遺骨を見つけ相談に及んだと思う。仮安置所で700体の鑑定を待つ遺骨と言っていたが、800体に迫っていくかもしれない。具志堅さんの集会発言の後、早速具志堅さんと中学生を引き合わせ連絡先を交換する
 集会では遺族の署名が400人、一般の署名が800人テントで集まったと報告された。発言を求められ皆さんの前に立つ。「鑑定を待つ遺骨が平和記念公園内に700体あり、3月にも8体のご遺骨が見つかり、昨日もボランテアが多くのご遺骨を見つけたそうです。次々増えている。遺族のDNA鑑定は県民・日本兵遺族合わせ1000名になり、法制定以降DNA鑑定で1人のご遺骨が北海道に帰りました」と説明した後、国の責任について2つ訴えた。「未だご遺族との合致が少ない理由を、厚労省は亡くなった人数にくらべて遺族の申請が少ないと言っています。なぜ私たち民間団体に遺族の申請を任せっきりなのか国がやるべきことではないのか!」多くの拍手が起こった。そしてもう一つ「戦没者が眠る南部の地、祈りの場である南部の地を守ること、戦跡公園として守ることが国の責任なのに、掘り起こすとはどういうことだ!」と訴えるとまた大きな拍手が起こった。
 私は飛行機に乗るため3時過ぎにテントを離れたが、沖縄の地元テレビが6時からハンストテントを現地中継したいという連絡が入り、5時終了の予定を6時半テント撤去に変更し具志堅さんはハンストを続行するとのこと。本当に身を削る闘いだ。

 
  戦没者遺族に遺骨の
DNA鑑定を呼びかける
厚労省の新聞告知記事
沖縄から帰って(6月24〜25日)
 25日朝日新聞の全国紙に厚労省の戦没者遺骨DNA鑑定の広告が出ている。「沖縄・硫黄島・タラワ環礁(キリバス共和国)の戦没者遺骨をご遺族のもとへ」遺族へのDNA鑑定の呼びかけと10月から地域を限定せずに実施される予定についても書かれている。
 5月に川田龍平議員を通じて国会で、遺族への周知はホームページではなく新聞広報や郵便を通じて行うように質疑してもらった成果だ。しかし、全国紙に加えて北海道や西日本新聞などに出ているのに、沖縄主要2紙には掲載されている様子がない。沖縄県民を無視するのか!と怒りがわいてきた。さっそく具志堅さんと相談を開始する。具志堅さんは全国の地方自治体決議実現に向けて手紙を書くと言っている。
東京の日本山妙法寺の方から7月15日の東京での韓国人遺骨問題の宗教者の学習会講師の打ち合わせ電話がかかってきた。太り気味の私の体は4キロやせて少しすっきりした。疲れもとれ、気持ちは沖縄のエネルギーで充満している。
 韓国人遺族のDNA鑑定集団申請という東京での大きな闘いの準備を進めていく。
国際Zoom記者会見の模様をご覧いただけます。

   ⇒ https://youtu.be/RFVmeSEBkfM