2019年6月22日〜23日

6月沖縄戦慰霊の日
    DNA鑑定申請受付行動へ参加
(木村)



 

 
 
  那覇での集会
 6月22日、沖縄県那覇市県立博物館でガマフヤー主催「第4回戦没者遺骨DNA申請説明会」を開催した。遺族40数名、マスコミ、スタッフを合わせると50名以上が参加した。2017年から毎年浦添、南風原、名護と各地で説明会を開いてきた。梅雨末期の雨の降る中、うるま市、名護市など遠方からも参加があった。ガマフヤー具志堅さん、戦没者遺骨を家族の元へスタッフから説明の後、参加者から質問や参加の思いが語られた。
 母の遺骨を探す70代の女性は、「当時1歳10か月ぐらいだったが、おんぶされていた母が頭に銃弾を受け即死した。祖父母が帯を外して逃げてくれた。翌日祖父母は母が倒れた場所に行ってみたが、遺体はなかった。後日祖父母がこのあたりだったという場所から石を拾ってきてお墓に入れた。今はどこだったか場所も分からないが、自分が生きている間にDNAで遺骨が見つかれば」と話された。
 喜屋武さんは「甥になるが申請は可能か」と質問。「国からの通知に死亡場所は石原と記されていたが、所属していた石部隊の生き残りの人から浦添の壕から出たところで弾が当たったのを見たという証言を聞いた」。別の女性からも「父と伯父の戦死公報が届いたが まったく同じ文章で名前だけが違っていた。国は全然わかってなくて、南部であればどこか書いておけばいいという風に記されたと思われた」と。また「家族8人が亡くなったが内2名の遺骨だけがある。当時10歳だったので、南部であることしか分からない」という証言もあった。
 具志堅さんは質問に応えて、喜屋武の近くで兵の遺骨収容をした時のことを「多分女性、しかも高齢と思われる遺骨が出てきた。軍民混在だったことが分かる。年寄り、子どもの遺骨が一緒に出てくる。敗残兵なのか何も持っていない場合もある」「遺族に送られてくる死亡通知は、たいてい部隊が全滅した日と場所が記されている」「国ははじめ県民にも資料を出してくれといっていたが、やっと出す必要はなくなった」(沖縄戦の実相とかけ離れ、国ですら分からないことを県民に資料を求めるのは無理難題)。また捕虜収容所について「怪我をして捕虜収容所で亡くなった場合、家族に知られていないことが多い。金武の収容所で亡くなった230名中68名のウチナンチュについて平和の礎で検索すると、2名以外は違った場所が記録されていた」。
 北海道出身で妻が沖縄出身という方は「父の兄が沖縄戦で亡くなっている。具体的なことは聞いていない。沖縄に来て遺骨収容を熱心にされている事を実感した。北海道で実感する事はなかった。情報を集めて、これからも参加したい」と。東京から追悼式に参加するため息子や孫5人で来たという方は「父は戦争の末期に沖縄へ送られた。小学校2年生の時に遺骨箱をもらいに行った。蓋を開けると中には砂が入っていた。前回DNA申請したが、照合するものはなかったという回答が来た。けれど全て終わったわけではない。諦めないでやって欲しい。生きている限り頑張っていきたい。親父の骨を墓に納めてあげたい」と語られた。
 摩文仁で戦後遺骨を拾い集めたという方からは「当時拾った遺骨は魂魄の塔に納めたが、戦没者墓苑に移されてしまったのか」という質問が出された。具志堅さんは「魂魄の塔には、戦没者墓苑に分骨したと表示されている。各地にある慰霊の塔を確認したい。中を見せてほしいと言っている。遺骨が残っていれば、DNA鑑定の対象になる。国も慰霊の塔を調査すると言ったが、動かない。一刻も早い調査をしたい。マスコミも是非追及してほしい」と呼びかけた。
 スタッフから「沖縄で収容される遺骨には 韓国人の遺骨が100人中2人の割合で混ざっている。韓国で今DNA鑑定の申請に参加したいという声が上がっている。協力してやっていきたい」また「具志堅さんは8月15日東京の戦没者追悼式で一人ででもチラシ配布をして、沖縄だけでなく南洋群島の戦没者遺族にも呼びかけ、遺族に遺骨一片たりとも返して欲しいという思いを訴えていきたいといっている」と8月に引き続き行動を継続することが伝えられた。
 具志堅さんは「国に要請をする時に遺骨を返して欲しいというお一人お一人の声が大切。それを背中に受け、どうしてもやって欲しいと国に声を上げていくことができる」と訴えるが、今回も具志堅さんの背中を強く押す意見が出された。受付の名前を書くのもつらいというように、74年以上前に起こった事を昨日のことのように語る遺族の方々の姿を胸に焼き付けていきたい。
質問に答える具志堅さん 発言する遺族の方

6・23慰霊の日に摩文仁でDNA鑑定集団申請を受付

 
  申請書を書くための行列も
 
  取材を受ける具志堅さん
 翌6月23日は 摩文仁の追悼式会場で申請を呼びかけるチラシを配布し、申請書を集めた。雨も予想されたので、テント、机などを持って朝6時過ぎにはホテルを出発した。公園に着くと雨だけでなく強風まで吹き、テントは公園内の石柱に縛り固定した。数か所のバス停留所(式参加者のために沖縄各地から一日中バスがピストン運転されている)に設置されたテントでチラシが濡れないよう気を使いながら配布した。前日の説明会が地元紙のタイムスや琉球新報に大きく報道されており、行動も3年目になり、「具志堅さんはどこ?」などとDNA鑑定申請行動が広く周知されてきたことを感じた。東京在住の遺族の方、昨年の協力者も名古屋から来沖、具志堅さんと捕虜収容所跡の遺骨収容をした方や、琉球大学の学生たちの協力もあり、多すぎると思われたチラシ3000枚もほぼ配ることができた。  
 毎年ご高齢の方が長い時間立ったまま大切な体験を聴かせてくださる。13歳の時摩文仁へ先生に連れられて遺骨収容をしたという高齢の男性は『このあたりは』と周囲を指差しながら「遺骨を踏まないで歩ける場所はなかった」と。思わず自分の足元を見てしまった。雨の中だったが、テントの中で申請される姿が一日中見られた。数人の戦没者名をどう書けばよいか、しかも海外移住先での死没もと尋ねた方は娘さんと一緒に家で書いてくると数枚の申請書を持って帰られた。
 今回集まった申請書は22日説明会での15枚と合わせて70名分。その他電話での問い合わせ、申請書郵送の依頼もきている。6月27日にもう一度説明会を開き、8月15日までに集まった分は具志堅さんが直接厚労省に提出する。
 説明会で北海道からの参加者が、「沖縄に来て遺骨収容が熱心にされていることを実感した」と発言されたが、私たちも沖縄内外の温度差をどう埋めていくかが問題と感じる。国が戦没者に責任を取るという当たり前の仕事をやるまで見届けたい。遺族の元へ一日も早く遺骨が帰るよう力を尽くしたい。