2019年2月14日〜17日

東アジアの平和のための
共同ワークショップ@沖縄に参加して(木村)



 
自己紹介  
 2月14日〜17日、東アジアの平和のための共同ワークショップ@沖縄に参加した。韓国、台湾、沖縄、在日コリアン、日本と各方面から若者が集い、遺骨発掘とフィールドワークを行った。主催者によると参加は60名、うち韓国から15名、台湾から8名。
 15日具志堅さんが試掘されている宜野座収容所跡で発掘を行った。収容所跡は沖縄中部宜野座村惣慶にある。美しい砂浜の広がる海岸からアダンが群生する中に潜り込むように入り、数分歩くと現場があった。道の途中に半分に割られた墓石が3体寝かされていた。具志堅さんは石に刻み込まれた「仲里ツル」という名前を示しながら、「家族が目印として建て、そこから遺骨を掘り出した時に既に遺骨を収容したという印に墓石が割られたのだろう」と話された。先に進むと1メートルぐらい掘られた場所が現れた。この穴を更に1メートル程掘ることと、周囲も試掘をするのが今日の作業。当時の地表から更に埋められたであろう分掘り起こす必要がある。具志堅さんが前回発掘した時ここから頭蓋骨の一部が見つかったという。若者たちが先頭に立ちスコップで掘り上げる。周囲では作業の妨げになる朽ちた倒木を移動したり、足場にある滑る草を刈り取る。せっかく参加したのだから、私も盛り上げられた土を周囲に移動させる作業に加わった。昼食後も発掘は続いた。多分花立てにでもしていたのであろうガラス瓶と電池に使われていた古い炭素棒が出てきた。今回は残念ながら遺骨を見つけることはできなかったが、祭壇を作り、具志堅さんが持ってこられた頭蓋骨に浜辺に咲いていたお花を供えて、ささやかな追悼を行った。

倒れた墓標 掘り進む 花を手向ける

 具志堅さんから収容所について話を聞いた。「沖縄には14の収容所があり、9か所の埋葬地があった。収容所に入ったら助かったと思っただろうが、辺野古のオガワでは4000人余りが収容された内1017人が亡くなっている。死因は飢えとマラリア。逃げることも許されない中、食料はなく年寄りと子どもが先に亡くなった。ここに収容された人数の記録はない。近くのフクヤマの収容所で3000人ぐらいと言われているので、おそらく同じ規模だったと予想される。ナカノ収容所では兵と一緒に朝鮮人軍夫も収容されていたであろう。民間の収容所には おそらく朝鮮人女性も入っていたはずだ。一人で収容され一人で亡くなった人は判らない。大浦崎収容所など一度も遺骨収容がなされていない。遺骨収容は本来 国がやるべきことなのに、国は「そこに本当に遺骨があるのか」と言う。収容所跡から遺骨が出ることを示さないと国は動かない。犠牲者の遺骨を平等に故郷に帰れるようにしたい」

朝鮮人も埋葬されている本部での追悼式

 
  慰霊祭
 
  合掌
 16日は本部の駐車場で追悼式に参列した。駐車場には墓標の写真が印刷された大きな幕が掲げられ、祭壇が準備されていた。ここの駐車場に立つ墓標の写真は 1945年米国雑誌「LIFE」に掲載された。墓標に記された名前「金山萬斗」「明村長摸」は創氏改名された名で、調査の結果、朝鮮人軍属「金萬斗」「明長摸」の2人だった。追悼式は、この2人を含む14人の犠牲者の名が沖縄恨の碑の会の金さんから読み上げられ始まった。パラパラと雨が降り出す中、地元の僧侶とワークショップに来た僧侶が続けて経を上げ、参列者が黙とうした。地元住民の方々、駐車場の地権者の方も参列してくださった。
 犠牲はどのようなものであったか。1945年1月、彦山丸が渡久地港で軍需品を上陸用舟艇に積み替え荷揚げをしていたところ、2度米軍の空襲を受け沈没した。海中に飛び込んだ者にも銃撃があり犠牲者が出た。当時のことを中村英雄氏や島袋正弘氏は浜で薪を集めて火葬しているのを見ていた。浜から少し上がったところに遺骨は埋葬された。具志堅さんによれば薪の火葬は高温でないためDNA鑑定が可能かもしれないと。地権者の方からも遺骨収容について理解し承諾してくださっている。遺骨発掘は可能だ。
 また、「渡久地港で船の上で並ばされた朝鮮人が、ロープを束ねたようなものでぶたれているのも見た。また、ぶたれた朝鮮人が海に落ち、沖縄の人が助け上げたところ、今度は助けた沖縄の人が日本兵に叩かれた。その様子を見て、兵隊は神兵と教えられていたのに怖いなあと心底思った」との証言が残っている。(沖本富貴子さんが集められた)
 東アジア共同ワークショップは国を越えて若者たちが協力して遺骨発掘を行うことを目的に進められてきた。夜に開かれた交流で、殿平善彦さんは「日本国籍を持つ以上、我々には責任がある。遺骨発掘は、国家の代わりをするものではなく、国家の責任をより明らかにする作業だ」と。また参加者からは「汗を流しながら共にする発掘により、被害と加害、国籍の壁が少し無くなったように思った」ということが繰り返し語られていた。参加者の交流は宿舎移動の間も含めて継続され、今後に繋がる交流ができた。沖本さんは、シンポジウムで「墓標に名が記されている人の情報、家族を探し,充分話を聞くことが第一ではないか。参加者が手分けし情報を集め共有できないか。そのうえで、遺骨発掘を始めるべきだ」と提起されたがその通りだと思う。
 沖縄で遺骨を待ち望む遺族は高齢化している。この場所は埋葬されている人が特定されている。他で見つかる遺骨に比べ家族の元へ返すことができる可能性が高い。その上韓国人の遺骨が出てくる可能性も高く、その家族もわかっている。条件がそろっている。日本人遺族、韓国人遺族、遺骨の帰る先が一件でも見つかれば、希望となるのではないか。
“遺骨を家族の元へ”大切な出発点になるように思う。
 
シンポジウム 全員で