2018年3月16日

沖縄で「第2回沖縄戦および海外戦没者のDNA鑑定集団申請説明会」を開催(木村)



  3月16日沖縄県南風原文化センターで、「第2回沖縄戦および海外戦没者のDNA鑑定集団申請説明会」が、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」主催で開かれた。沖縄戦戦没者遺族のDNA鑑定申請は、昨年6月第一回集会以来、600名にのぼる。「手足1本であっても父であり、母である」という県民遺族の声に、「歯だけ」と言って来た厚労省も大腿骨など手足も鑑定すると表明するに至り、徐々に鑑定遺骨の対象を広げてきた。しかし沖縄で昨年の集会が大きく報道されたとはいえ、未だ周知不足だ。また「家族の中に海外死没者がいるが申請できないのか」「亡くなったのが沖縄本島でない」といった声が多く聞かれた。今回の集会は、集団申請を更に呼びかけるとともに、海外戦没者も申請をという遺族の声を国に上げていく場であった。集会には遺族20数名が参加。マスコミ関係6社、テレビカメラも会場を囲み、沖縄での関心の高さが伝わる。
 まず代表の具志堅さんから「沖縄では、遺骨が劣化していてDNAは取れないと言われてきた。しかし、DNA鑑定をずっと言い続けてきた。2009年那覇の真嘉比から名前のある万年筆と一緒に出てきた遺骨がDNA鑑定で遺族に還った。沖縄の遺骨からもDNAが取れることが証明された。2013年から沖縄で遺骨を焼くのを止めた。厚労省はDNA鑑定に条件をつけてきた。一つは、身元特定に繋がる物が出てくること。しかし兵隊の認識票すら部隊の動向を敵に知られないため集められていた。兵隊なら渡された時期により軍服のボタンが代わる等手掛かりがあるが、着物を着ていた一般住民は何も残らない。風葬の遺骨かどうかさえ分からない。二つめは、歯がある遺骨という条件。600体中84体しかない。四肢骨を鑑定してくれと要求してきた。厚労省は個体性のあるものと言っていたが、昨年12月の交渉でやっと、四肢骨が出たらやりましょうとなった。DNA鑑定の対象拡大は沖縄のめどが立ってからと考えていたが、遺族の高齢化を思うと先に延ばすわけにいかない。家族の中で、一人は沖縄で、一人は海外で戦死という場合もある。海外の遺骨も同時に申請を進めていきたい。海外からの遺骨は安定同位体で人種を分けてから、遺族のDNA鑑定をやる。安定同位体研究に予算もついた。沖縄の遺骨は各地の慰霊の塔に埋葬されており、合わせると2000体の遺骨がある。集められた遺骨は焼骨され国立戦没者墓苑に入れられたが、各地慰霊塔には残された遺骨がまだ眠っている。DNA鑑定の可能性は残っている」とこれまでの経過が説明された。

TVカメラも多数 挨拶する具志堅さん 多くの遺族が真剣に

沖縄戦・海外戦没者の遺族からの思いと質問が続々と

 
  遺族からの質問
 
  集会後取材を受ける遺族
 次に参加遺族から、それぞれの家族が亡くなられた状況や質問が出された。ある遺族は、「父と兄を亡くしており、S9年生まれの兄と私と妹が残った。この兄が元気な間に申請したい。上の兄とは離散、どこでどう亡くなったか分からない。毎年魂魄の塔と戦没者墓苑に参っている。別の兄はフィリピンで亡くなった。いくつかの島から遺骨が集められていると聞くがどうなのか」。別の遺族は、「兄を沖縄戦で亡くしている。熊本県知事から「23.8.1摩文仁方面にて死亡」という死亡通知が届いた。一緒にいたという知人から後に聞いた情報と違う。どちらが本当か」と質問。具志堅さんは「死亡通知では首里となっていた人の遺骨が真嘉比で出た。海軍で亡くなったという人が収容所で亡くなっている例もある。通知では一番たくさん戦死した場所を戦死場所にしている。最後に見かけた場所を戦死場所にした例もある。国が戦死場所を特定できない」と答えた。またある遺族は、「伯父は学徒隊で大砲を運んでいるのを見たという証言があるが、国には学徒隊は兵隊ではないので把握していないと言われた。また当時、死体を踏み越えながら肉親を探したが見つからなかった。」等々、今まで確かめようもなく胸に留められていた記憶や想いが次々出されてきた。 
 具志堅さんは最後に離散家族について触れた。「戦後収容所の中に自分の名前も言えない、住所もわからない孤児がいた。1949年首里更生院には209名。戦後労務作業で生活してきた人に、戸籍もない、一度も病院に行ったことがないという人が存在する。孤児については我々も知らなさ過ぎた。孤児に責任はない。国が呼びかけるべきだ」そして最後に「申請は皆さんができる親孝行だ。国に責任を取ってもらわないと、国はまた同じことをやる。子や孫に伝える作業でもある。国にもっと声を上げるべき」と遺族に呼びかけられた。