2017年6月21日

本部町健堅に埋葬された沖縄戦犠牲者たち
     =写真に残された墓標=

                                   (沖縄恨之碑の会 沖本富貴子)


6月21日韓国チームが沖縄に着いた日、本部町で朝鮮人埋葬の証言をお聞きしましたが、その詳細について、「沖縄恨之碑の会」の沖本さんに寄稿していただきました。

 
  埋葬当時の墓標の写真
 
  本部町で当時の様子を聞く
 沖縄戦には多くの朝鮮人が動員されたが、その中に朝鮮人部隊であった特設水上勤務第101〜104中隊(約2800名)がいた。この部隊は大邱で編成され、1944年8月沖縄に上陸した。104中隊はその足で読谷村の渡具知と本部に分かれて駐屯し、主には港で軍需物資の陸揚げ作業につくことになったのだが、12月までの約4か月間、本部の健堅(けんけん)地域に駐屯したのが第2中隊の約200人余り。渡久地港の作業のほか、伊豆味や真部山などで独立混成第44旅団国頭支隊の陣地構築に駆り出された。住民は彼らが十分な食事が与えられず、体罰を受けながら牛馬の如く酷使され、疲れきっている姿を目撃している。
 健堅で住民からの証言を集めていた折りに、地元の方から14人の墓標が写っている写真があることを教えてもらった。朝鮮人らしき3人の名前も認められる。墓標が1945年1月22日沈没した彦山丸の犠牲者であることが分かったのは、竹内康人氏が公表している「強制連行期朝鮮人死亡者名簿」に一致した名前があったからだ。
 当時、中村英雄氏や島袋正弘氏は浜崎(現健堅)の浜で薪を集めて火葬していたのを見ている。埋葬した場所も特定でき、今は盛土されているが地主も遺骨収集について承諾をしてくださった。ガマフヤーの具志堅さんによれば、薪の火葬は高温でないためDNA鑑定が可能かもしれないとのこと。戦後72年過ぎたが、朝鮮人の遺骨が特定されて故郷に帰った例はまだない。平和の礎に今年、お父様の名前が刻銘された権水清さんは、刻銘によって子孫としてやるべきことの半分は果たしたが残りの半分は遺骨を探して持ち帰ることだと述べられた。今年79歳になられる。沖縄の地には日本政府によって家族と切り離された挙句切り捨てられた朝鮮人の恨が行き場のないまま深く埋もれている。
 墓標にあった金萬斗さんを探して韓国で甥と会うことができた琉球新報社の李記者によると、「父と叔父の萬斗さんは一緒に連行され、萬斗さんは戻ってこなかったが、父は日本で労役につき拷問を受けたつらい日々であった、と生還後語り続け、戻って来ぬ弟を思いながら恨は解けず死ぬまで苦しんでいた」と語ったそうである。萬斗さんについて「消息は全く無かったがまさか沖縄で亡くなっていたとは」と驚きを隠せない様子だったそうだ。沖縄で犠牲になったことさえ知らない家族は金萬斗さんだけの話ではない。日本政府が沖縄戦の朝鮮人に対して何一つ責任を取っていないことを痛感する。
 6月21日、来沖した李熙子さん一行と本土の「戦没者遺骨を家族の元へ」連絡会の皆さんで本部町健堅の現場に駆け付けた。急な日程であったにもかかわらず、本部町立博物館長をはじめ地域の方々10人余りがすでに集まって我々を迎えてくださった。戦争体験者を中心に二度と悲劇を繰り返さないよう次世代に引き継ぐ活動を地域で熱心にされている方たちである。地主の親戚でもある我部政男先生の進行で、火葬の様子や当時の状況を知っている方から説明を受け、現場を直接確認することができた。李熙子さんは埋葬された場所にお酒をまき、長いあいだ苦悩にまみれた魂の鎮魂を祈った。
 そしてこの日ガマフヤーの具志堅さんから重要な提案がおこなわれた。健堅の遺骨収集を北海道で行われた東アジア共同ワークショップのような形で、沖縄・本土・韓国の若者たちが手を携えてできないだろうか、遺骨収集の過程で共通の認識を持ち未来につなげていきたい、というものだった。戦争体験者が年々少なくなる中で、次世代への継承は急務である。地元の皆さんもからも応援したいという言葉があり、今後の方向性が見えた集まりとなった。今後はその実現のための具体化がなされていくことになる。この遺骨収集を通じて何が見えてくるのか、そして何が生まれるのか、期待している。