2014年10月24〜25日
春川・金景錫さん墓参り&ソウル・日韓過去清算市民運動報告大会(木村) 今回の訪韓行動に私はソウルから合流した。1か月前に韓国語を学ぶためにソウルへ来たからだ。遺族の方々の話されることを直に理解したいという以前からの願いのためにやってきたが、容易いことではない。
事務所に立ち寄った後、ギョンソクさんのお墓へ。古川さんは、着くとさっそくギョンソクさんのお墓の盛り土をトントンして「ギョンソクさん、会いに来ましたよ」と語りかける。草を引き、墓石をきれいにしてから、韓国のお酒ソジュを供える。韓国式に杯をクルクル回して拝んで、墓の周りに酒をかける。みんな終わったところで、順にソジュをいただく。「飲みなさいとギョンソクさんが言ってる」と洪さん。「グングン裁判が終わって、遺族会で集まる機会もなくなり、寂しくなった」と洪さん。来年2015年、戦後70年節目の年には、たくさんで参ってここに敷物を広げて、ギョンソクさんの好きだった美空ひばりの歌を歌いましょうと洪さんと約束した。 いつも通訳でお世話になっている李相鑚先生と待ち合わせて昼食へ。李先生に連れてもらったお店で料理をいただきながら、貧しかった子どもの頃の話を聞いた。食べ物がなくマッコリの搾りかすに甘み(砂糖はなかった)を添えて食べた。酒の匂いをさせて学校へ行ったら先生に怒られた。お弁当は麦飯でそれも持って来れない子どもが3分の2ぐらいだった。その子らはトウモロコシを固めて蒸したパンを1個ずつもらっていたそうだ。 春川の町は、駅の真正面にあり、中心部を占めていた米軍基地が撤去され、立派な駅、広い道路、新しい店もたくさんできて、一変している。山登りなどの観光客が来たり、生活を楽しめるようになったのもそう昔のことではないと、李さんから話を聞く。
10月25日 日韓過去清算市民運動報告大会 この日、慶煕(キョンヒ)大学で約50名が参加し、日韓過去清算市民運動報告大会が開催された。次々と参加者が会場に集まり、「パンガウォヨ(お会いできてうれしいです)」が飛び交う。推進協のいつもの顔ぶれも多い。 来年2015年は戦後70年となる。日韓の政府間は、依然関係が冷え込んだままだ。安倍は在特会と深く関係する閣僚を起用し、世界の批判に耳を傾けることなく戦争への危険な道を突進している。日本社会もまたヘイトスピーチに見られるマイノリティ差別を許す空気が漂っている。日韓の民間レベルの協力と連帯がより強く求められている。 特別報告は、李錫兌(イ・ソクテ)弁護士から 2012年韓国大法院判決の意義と展望について。判決は「日本国家の植民地支配と直結した不法行為による損害賠償請求権は請求権協定の適用対象に含まれない」という原則と基準を提示した。この判決を生んだのは、請求権協定の問題点について指摘してきた日韓市民社会の献身と努力の結実である。解決に向けた日韓政府間の交渉を問うていく必要がある。 日本からは、上田さんと古川さんが、記録と遺骨を求める取り組みについて報告した。上田さんは一人一人遺族の名前をあげ記録を探していった過程を報告した。全ての資料が韓国に渡っていない以上、日本で各機関に申請し探すしか方法はない。今後とも日本での調査に全力で取り組むと約束した。また朝鮮人労働者、数万人の通常郵便貯金の通帳等の返還や、韓国政府を通じた日本への調査依頼等、日韓政府に求めていこうと訴えた。古川さんは、遺骨に関する要請に対する厚労省からの回答について報告した。 次に日韓会談文書全面公開を要求する会事務次長の李洋秀さんから“日韓会談の日本側文書の公開を要求してきた10年間の闘争の歴史”が報告された。3審判決では、30年を越えてもまだ不開示とするためには相当な根拠が必要だと、ほとんどの文書が公開された。行政訴訟で国家を相手に勝訴することはほとんど不可能だが勝利した。「しかし」と、日本で公開?された全面墨塗り状態のページを示しながら、「これが日本の公開文書で、世界から見ると非公開ということになります」と。団体は解散するが、今後も情報を提供したいと語った。
できる限りのことをしていきたいと決意した遺族からの聞き取り 午後からも集会は継続されたが、関西メンバーは被害者の記録を探すために、遺族の方々からの聞き取りをした。2チームに別れて合わせて6人の遺族から聞き取った。 元済赫(ウォン・ジェヒョク)さんと 朴進夫(パク・ジンブ)さんのお父さんは各々北海道、あるいはそこから南の方角にある炭鉱で落盤、爆発事故に遭い病院で亡くなられている。朴さんのお母さんは日本人で、病院でお父さんから韓国に行くように遺言された。遺言どおり韓国に帰ったが、親戚から韓国で生活することに反対され、苦労した。国交正常化してから日本に帰ろうとしたが、これも反対された。お父さんは長男だったが、弟の伯父が家を継いだために、学校にも行けず17歳で家を出た。母はいやな記憶だったので話そうとしなかったし、手紙を出すこともできなかった。母が一人で泣いているのも何回か見た。被害当事者は母だ。 次に姜スッキさんと李延龍さんの孫さんから話を聞いた。姜さんは、「父は2回日本に行った。1回目は夜に急に連れて行かれ、苛酷な労働に逃亡して帰ってきて隠れ住んでいた。2回目も家族も知らない間に連れて行かれた。広島で道やトンネルをつくる現場で、石を背負い運ぶ途中に転落、頭や足に大きな怪我をして2,3日意識を無くした。目にも怪我をして、ほこりで塵肺も患い何カ月か病院にいたが、治療の間にも仕事をさせられていた。広島で被爆もして、隣町の二人と韓国に帰って来た。帰って来た父は骨だけの姿でずっと寝ていた。日本に行く前に母と婚約していて、障害を負って帰ってきたが 母は結婚をし、家長として働き子が父の面倒を見る生活だった。小学校の頃、父の面倒をみるため学校に行けなかった。自分が14歳の時に父は亡くなった。子どもの時の思い出も、父の面倒をみる苦しい過去なので忘れようと思っていた。死んだ年齢も覚えていない。遺族会の活動を最近になって知り、父がどこにいたか知りたいと思った。話すことも苦しくて、今まで人に話してこなかった。父の友人はほとんど亡くなった。父を思うと苦しい。父がどこで働かされたか知りたい」と。 父や兄、夫を亡くした遺族の方々がどれほど大変な生活を背負われてきたか、それを思うと今後も年金や郵貯などの記録探しなど、できる限りのことをしていきたいと思う。
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