2013年12月7日
遺骨と記録に解決済みはない、戦没者の遺骨を故郷・家族のもとへ
昨年私たちは、塩川正隆さん(NPO法人「戦没者追悼と平和の会」理事長)と出会い、日韓遺族の共通した要求である「戦没者の遺骨を故郷・家族のもとへ」について交流を深めてきました。今回は塩川さんを大阪に招き、今後の運動をどう発展させるか議論するために証言集会として開催しました。
まず、パプアや沖縄でのこの間の取り組みを紹介した映像を上映し、塩川さんにご講演いただきました。以下は発言の要旨です。 塩川正隆さん
靖国合祀と遺骨問題は、一つのものです。靖国神社に名前はあっても実態は戦場に野ざらしのままです。遺骨を家族の元に戻すという取り組みを希望を持って活動しています。 明日、権水清さんと私のDNAを厚労省に受け取らせるために行ってきます。DNAは50年保存がきくのです。例え自分の代で遺骨が見つからなくても、次の世代に託せばいい。硫黄島の発掘事業は終わっているので、次はニューギニア、フィリピン、沖縄での発掘に取り組ませ、戦没者の遺体を家族の元へ返していくよう厚労省に迫りたい。DNAのデータベース化は国がやろうと思えばできるものです。また遺骨収集法の制定にも力を尽くしたい。現在、政府は発掘した遺骸を焼いて白木の箱に入れて日本に持ち帰った後再度焼いて、千鳥が淵に収めていますが、墓地ではないところに埋葬しているのは違法であり、言うならば「仮安置が60年続いている」事です。そこで、遺骨収集法を実現するために議員への働きかけを強めていきたい。 <韓国から参加のお二人の訴え> 李煕子(イ・ヒジャ)さん 会場に飾られているニューギニアの写真を見て、高仁衡(コ・イニョン)さんのことを思わずにはいられなかった。どんなに行きたかったであろう父親の最期の地に足を踏み入れた一か月半後、急逝してしまった。なぜそんなに早く亡くなったのか。骨のかけらでも探し出して、お母さんのそばに置いてあげたいという願いも果たせずに。90年頃から共に活動し、共に多くのことを計画し、裁判でも共に闘った。相談しながら多くの遺骨を探すはずだったのに。 グングン裁判は最高裁で棄却されましたが、私たちの名前を外してほしいという要求は間違っていない。棄却されたとは思っていない。南英珠さんをはじめ27名の原告が第2次訴訟を始めた。靖国のことをもっと多くの人に知ってもらいたい。 南英珠(ナム・ヨンジュ)さん ニューギニアに行ってより一層感じました。「兄を取り戻して先祖の墓に名前を刻みたい」と。ちゃんとしたチェサをして祀ってあげたい。そのために、ヤスクニからどうしても名前を取り戻したい。そういう思いでノーハプサの2次訴訟に参加することにしたのです。 日本政府はなぜ遺骨を探そうとしないのか理解できない。身内のところへ戻すのが当然ではないでしょうか。遺体も名前も祖国に返してもらえない。両親の気持ちを考えると悔しくてなりません。力の限り闘っていきたい。
<会場からの発言> 松岡勲さん 父は1944年に大阪港から中国へ送られ、1945年1月に河北で戦死と知らされた。遺骨は返って来ているものと思っていたが、最近になってそれが石ころだということがわかった。「遺骨を」との韓国遺族の思いがわかった。 吉田文枝さん 戦後も日本では、戦死者を国家が独占してきたが、法的権利はない。政教分離、信教の自由が憲法で規定されているからだ。しかし靖国神社の例大祭には、天皇からの勅使が参加して供え物を献上している。親族が靖国神社に合祀されているが、精神的苦痛を受け続けている。肉親の死を悲しむことから立ち上がることで、ヒジャさんの怒りと連帯していきたい。「靖国合祀イヤの声」を遺族の中で積み上げていきたい。 証言集会を振り返って 昨年12月、安倍首相は靖国参拝を強行し、「英霊を讃えることは当然。どこの国でもやっている」と発言。教育面では高校の日本史を必修科目として、「竹島」「尖閣諸島」「北方領土」を「日本固有の領土」と教え込もうとしています。また遺骨収集事業に強い意欲を見せ、硫黄島に関して厚労、防衛、外務省による作業チームを結成。10年間で約500億円を投入し、自衛隊基地の滑走路下にある遺骨収集に26年度から着手、30年度をめどに滑走路を移設したうえで作業を本格化する方針を決めました。安倍が遺骨収集事業を利用して、アジア・太平洋戦争で散っていった兵士を誉め讃えるキャンペーンを展開していくだろうことは容易に想像できます。「美しい日本を守ろう。自信を取り戻し、国のために行動をおこそう。かつての兵士のように」と。しかし、その中には祖国を日本としない兵士の骨が無念に置き去りにされているんです。遺骨の返還を要求する遺族が韓国で待ち続けているのです。戦争美化のための遺骨の利用を許してはならないと思います。 |