2013年11月15日〜18日

権水清さんのお父さんの足取りを発見しチェサ(祭祀)を実現!
& 発掘遺骨とのDNA照合を沖縄県に要請

「戦没者追悼と平和の会」塩川さん主催沖縄行動同行記(古川)


 11月15日から、NPO法人「戦没者追悼と平和の会」理事長の塩川正隆さんの主催で、沖縄戦への動員遺族の権水清(クォン・スチョン)さんを沖縄に招き、お父さんの足跡をたどって、チェサを行い、沖縄県にDNA検体を預けて発掘遺骸との照合要請を行う行動が取り組まれました。GUNGUNから私、上田、木村の3名が同行しました。
 今回の最大の成果は準備段階で、権水清さんのお父さん(権云善さん)の足取りの一部がつかめたこと。これまでは慶良間の阿嘉島に行ったのではないかと考えられていたが、塩川さんと「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんの調査で、本部町史に「陸軍特設水上勤務第104中隊」(以下「特水勤104中隊」)の陣中日誌があり、そこに権云善さんの名前を発見した。所属部隊は同隊第3小隊第3分隊である。(阿嘉島への派遣は45年2月に第1小隊)そして私がネットから検索して、内閣府が開設する沖縄戦データ公開サイからその陣中日誌の手書きの原本を確認。名簿の軍夫が45年9月に作業していた読谷村渡具知での配置図を発見した。また塩川さんが「平和の礎」の端末から、上司である小隊長の海堀太一郎少尉の出身地が和歌山県であることをつかみ、私が和歌山県庁に問い合わせ、回答を得た。回答に「特水勤104中隊」の戦歴表が添付されており、那覇に上陸後、与那原に本部を置いて渡具知に作業に派遣されたこと、米軍上陸後は兵士と行動を共にし、南部へ追い詰められ、最後は45年6月22日に兵士と一緒に斬込みを行わせて玉砕したことが判明した。一方、玉砕の地と思われる糸満市大里に「沖縄兵站慰霊之碑」があり、「特水勤104中隊」の文字が刻印されていることが次々と判明した。塩川さん、具志堅さん、GUNGUNのチームワークで、今までわからなかったことが次から次へと判明したわけである。こうして権水清さんを沖縄へ迎える準備が整った。

「毎年100体出てくる遺骨と、権水清さんのDNAデータの照合を」(具志堅さん)

 11月15日、那覇空港国際線で塩川さんと合流し、権水清さんと金鎮英さんを出迎えた。「笹の墓標」で知られるドキュメンタリー監督の藤本幸久さんがカメラを構える。ゲートを出てきた権水清さんとがっちり握手、固く抱擁した。
 ホテルへ移動後、具志堅さんと対面。沖縄での行程を確認。塩川さんからは「今回重要な点は、沖縄戦で行方不明の権さんの父と私の父の遺骨を探すために、DNAデータ化を要求するということ。検体キットを持ってきたので明日採取したい。これでもし100年後に遺骸が出てきても遺族のもとに帰ることができる。自分の父は権さんと同じように生死不明だが、その後が違う。生死不明のまま放置している日本政府を許してならない。問題は多くの日本人がその事実を知らないということ」と行動の意義を強調。具志堅さんは「沖縄では今でも毎年100体以上の遺骨が発掘されている。摩文仁にある「国立沖縄戦戦没者墓苑」に収骨されているが、従来は火葬されていた。火葬してしまうとDNAが取れなくなるので、県議会に中止を陳情し、現在は火葬されていないはず。政府は遺骨が誰かわかればDNA鑑定すると言っているが、遺品がない限りほとんど名前はわからない。毎年100体出てくる遺骨と、権水清さんのDNAデータの照合をしてもらうことが早道。沖縄戦犠牲者に日本人、沖縄人、朝鮮人の差を設けてはならない」と沖縄の現状と問題解決の道筋を提示した。

那覇空港で権水清さんと塩川さん ホテルで打ち合わせ ホテルでDNA採取

お父さんが見た風景が目の前に広がる(読谷・与那原)

 16日は朝からタクシーに分乗して、読谷村に向かう。渡具知公民館には集落内の案内地図があり、陣中日誌から発見した戦時中の地図と比べて見る。軍用道路や海岸線は当時のままだ。具志堅さんがたまたま海岸近くを歩いていた老人、大湾さんに声をかける。大湾さんは小学2年生だった44年当時、自分の家が朝鮮人軍夫の炊事場に使われ、半年ほど4人くらいがいたという。陣中日誌の古地図を見てもらうと、そこに書かれている炊事場の家が大湾さんの自宅だという。なんという偶然か。今も住んでいる家に行くと大湾さんは一旦家に入って一枚の写真を持って出てきた。米軍が上陸後撮影した当時の茅葺の家で、艦砲射撃で屋根に穴があいている。まさか当時の写真まで目にできるとは。権水清さんの手元にはお父さんの写真がないだけに、お父さんが生活した当時の写真を前に感慨深げだった。大湾さんの案内で海に出ると、海岸沿いの崖に特攻艇用の洞穴が3つ掘られていた。奥行きが30m以上のものもある。古地図に揚陸場と書かれている別の地点へ行くと、地図に「電信所」と書かれている場所に「電信所記念碑」が立っている。目の前の海岸は、まぎれもなく44年9月に権云善さんが労働した場所だ。権水清さんの目に映っている景色は間違いなくお父さんが見た風景だ。権さんは、あふれる涙をぬぐいながら祭壇に供える海岸の石を集めていた。
 午後は与那原に向かった。与那原小学校前の空き地に44年当時、国民学校があった。そこに「特水勤104中隊」が宿営していた。陣中日誌によればここから先ほどの読谷村などへ行き来していたことがわかる。少し離れた場所に当時荷役作業を行った軽便鉄道の与那原駅跡があった。戦後はJAの建物が建っていたそうだが、今は取り壊された後の土地が広がる。その一角に当時の駅舎の基礎が残っていた。権水清さんは無心に地面を探している。そして何らかの骨辺を発見した。具志堅さんは「ひょっとすると人骨かも知れないので、あとで琉球大学の先生にみてもらいましょう」と提案した。その後人骨でないことが判明したが、権さんの遺骨へのこだわりが深まっていることがよくわかった。

公民館の地図 陣中日誌の地図と照合 大湾さんと出会う
当時の家の写真が 権水清さんと大湾さん 特攻艇用の洞窟
 
お父さんの見た風景の中で 当時の駅舎の基礎が残る  

所属部隊最期の地でチェサ「アボジ、息子がここに来ました」

 17日、いよいよチェサの日である。NHKが同行して、糸満市大里にある「沖縄兵站慰霊之碑」へと車を走らせた。県道7号線沿いに慰霊碑はある。正面の碑銘の下部に「特水勤104中隊」の文字が刻印されている。慰霊碑の奥にはガマ(洞窟)があった。入ってみると奥へと続いている。権さんはここでも遺骨がないかしきりに探していた。
 慰霊碑に戻って、韓国から持ってきた梨、リンゴ、柿、キムチ、干しダラ、伝統菓子などを盛り付けて祭壇が作られた。正面には韓国で制作した「お父さん、お父さん、息子がここに来ました」と書かれた横断幕が、横には「アボジを探す記録」と銘打ち、今まで厚労省や政府記録保存所から手に入れた記録が印刷された横断幕が広げられた。本来なら正面には遺影が飾られるが、権さんの場合、写真が一枚も残っていないので、厚労省からの「生死不明」の回答文書が額縁の中に入れられている。権さんの無念の思いが凝縮されたものだ。そして準備が整った。黄色い喪服を身にまとった権さんが、韓式でチェサ(祭祀)を行う。「お父さん、今日は息子の酒を受けて悲しみや苦痛、悔しさを忘れてください」と呼びかけ、慰霊碑のまわりに韓国のお酒を捧げた。その後参列者全員がお参りし、チェサは終了した。慰霊碑の脇にあるハイビスカスに蝶々が舞う。ニューギニアでの祭祀のあともそうだったと聞くが、お父さんが「よくここまで来てくれた」と言っているような不思議な感じがした。一通りマスコミ各社のインタビューを受けた権さんに終了後、上田さんが声をかけて再度ガマに入っての献酒をすすめる。韓国のお酒を持ってガマに入った権さんは丁寧に捧げた後、出る際に中に向かって呼びかけた。「アボジ、カムニダ」(お父さん、行くよ)と。

碑に104中隊の記録が ガマで遺骨がないか探す チェサを行なう
献酒する権水清さん お父さんに声をかける 韓国人慰霊塔で

平和の礎を見学し「父の名前を刻銘してほしい」と

 
  沖縄県への要請
 
  要請する塩川さんと権水清さん
 
  記者会見
 
  記者会見の様子

 チェサの後は、摩文仁の丘に向かった。まず「国立沖縄戦戦没者墓苑」へ。沖縄では戦後どこを掘っても遺骸が出る状況だった。各地の住民は遺骨を一箇所に集め、そこに慰霊碑を建てた。1957年には、政府が那覇市に戦没者中央納骨所を建設したが、収骨数が増えたため79年に「国立」として墓苑が建設され移転された。HPには「戦没者18万余柱が納骨」とある。ひょっとすると権さんのお父さんの遺骨もここに眠っているのかも知れない。
 その後、「韓国人慰霊搭」へ寄ったあと、「平和の礎」へ行き、韓国人の名前や塩川さんのお父さんの名前を確認した。すると権さんから「父親の名前を刻銘して欲しい」と希望が出て、翌日の県庁要請に平和の礎への刻銘も加えることになった。
 この日のチェサの模様はNHKで夕方と夜放映された。また滞在中は毎日のように大きく沖縄タイムス、琉球新報、日本経済新聞などで報道された。

沖縄県へのDNA要請・「平和の礎」刻銘要請のあと記者会見

 18日朝から県への要請を行うため県庁へ。福祉援護課に対して、DNAデータ化の要請を行った。塩川さんから「権さんと私の口の粘膜をとって、DNAキットにしているので、受け取ってほしい」と要請したが、県側は「遺族のDNA鑑定は厚労省がやっているので受け取れない。国と調整いただきたい」と受け取りを拒否した。塩川さんから「沖縄にはまだ遺骨を調査すべきところが多くある。県からも政府に積極的に働きかけてほしい」と要請。またDNA鑑定に関する神戸新聞の記事を提示して「この記事は兵庫県警のものだが、難しいことではない。DNA照合を希望する遺族がどれくらいいるかわからないが、1万人いたとしても2億円の予算で足りる。沖縄県として頑張ってほしい」と念を押した。権さんから「お父さんの遺骨がDNA照合ではっきりすれば自分の気持ちがすっきりする。日本政府がやるべきだが、沖縄県からも働きかけてほしい」と言うと、県は「沖縄県も戦争に巻き込まれた経緯から県民から同様の意見を聞いているので、国に言っていきたい」と答えた。最後に具志堅さんから「これまで遺骨収集の対象は日本兵と沖縄人だけしかなかった。今回、朝鮮人もいると突きつけられた。発掘した遺骨は混在している。DNA照合を要求する際に、本土と沖縄だけではないことを考えないといけない。国はそういう意識、配慮が足りない。我々が声をあげないといけない」と言うと、県は「そういうことを念頭におきたい」と答え、要請を終了した。
 その後、平和・男女共同参画課に対して「平和の礎」への刻銘要請を行った。県は「2010年に最後の刻銘を行っているので、確認しながら手続きをやっていきたい」と説明し、今後韓国側と連絡を取り合いながら具体的な手続きを進めることになった。
 行動の最後は県庁での記者会見である。塩川さんから「DNA照合の要請は県は窓口になれないと断わられたが、NPOとして遺族のDNAデータ化を進めて今後に備えたい」と決意が語られた。そして権さんは「沖縄は今回4回目だが、今までにない前進があっていい気分だ。過去に厚労省から「行方不明」という通知が届いた。生きた人間を連れてきて責任を取らずに行方不明とは人間のやることか。個人で探すのは限界があるので、皆さんが報道して政府が対応できるようにしてほしい。親の遺骨を探し出して子の道理をなんとかしたい」と行動全体を振り返った。

今回の成果と今後の方向性を確認

 今回の成果は、@これまで何もわからなかった権さんのお父さんの足取りが見えてきて、亡くなった可能性のある場所に少しでも近づけたこと。A毎年100体の遺骸が発掘され、ようやくDNA照合の端緒についた沖縄で、「沖縄人、日本人、朝鮮人の差別なく」照合の必要性が確認できたこと。B「平和の礎」への刻銘が権さんにとって実現可能な目標になったことである。
 今回の行動を準備してくれた塩川さん、具志堅さんに心から感謝申し上げます。
 現在、日本政府は硫黄島やシベリアで発掘された遺骨を遺族に返すためのDNA照合を行っていますが、韓国人は排除されています。GUNGUNでは、12月7日に塩川さんと韓国から遺族(ヒジャさん、南さん)を招いて、講演とDNA照合の相談会を行い、その後、東京へ移動し、厚労省へDNA照合の要請を行います。ぜひご支援をよろしくお願いします。