2013年7月〜10月

沖縄・フィリピン遺族 日韓遺族連携の戦地追悼の旅実現へ

NPO法人「戦没者追悼と平和の会」の塩川正隆さんと韓国へ


 7月ソウルNGO大会に塩川さんと参加(木村)

 
 

権水清さん(左)と塩川さん

 7月韓国ソウルで開催されたNGO大会で報告者として参加した塩川さんをサポートして訪韓した。仁川空港から推進協事務所に直行、大会で上映する塩川さんの紹介映像を確認した後、沖縄でお父さんを亡くされた権水清(クォン・スチョン)さんの資料説明を受けた。配属された部隊の記録は残っているのに「死亡等の記録はない」という厚生省記録を見て、「本当に死亡通知もないのか」と驚いておられた。その後、フィリピン陸軍歩兵77連隊の韓半島出身者名簿から韓国の住所の方をチェックしてもらう。塩川さんのお父さんは沖縄戦で、伯父さんはフィリピンで亡くなった。伯父さんと同じ部隊だった永田さんはフィリピンの77連隊に所属し、ほとんどが戦死する中、九死に一生を得て生還された。その経験から、戦後は“戦没者追悼と平和の会”の理事長として活動を続けてこられた。そして亡くなる前に塩川さんにこの朝鮮人名簿を託し、「必ず遺族に会って欲しい」と遺言された。NGO大会には権水清さんも参加され、沖縄戦遺族同士の初めての対面となった。
 塩川さんは、用意された報告の前に、「韓国人が今まで行方不明のままだなんて信じられない。日本人もほとんどが行方不明だが、調査して死亡と扱っている。許せない」と語り、なぜ沖縄とフィリピンで遺骸収容を始めたか話された。「沖縄で初めて入った壕の中には軍隊手帳など様々な遺品があり、牛島司令官の遺品もあった。それでも日本政府は、収容は終わったとした。それなら自分たちでやるしかないと続けてきた。今沖縄に情報センターを作ろうとしている。継続してやってきてよかった。フィリピンには慰霊碑を作って17年になる。8万人が死亡して帰った遺骨は1万5千。フィリピンに行くと、「お前は日本人か」「肉親を殺された」と迫られる。遺骸収容・慰霊と共に友好親善を図ってきた。今年は150人分のカレーライスを現地で自ら作りふるまってきた」と会の活動を紹介。そして「自民党は“戦没者に尊崇の念を持って”と言いながら、遺骸収容を放ったらかしてきた。厚生省も海外に遺骸が113万残っていて、内60万が収容可能だと言っている。靖国神社は、本当に静かで安らかな所なのか。日本が恐ろしい国になって、いつか来た道をたどっていくのではないかと恐怖すら感じている。今、日韓関係が良くない状態にある。そんな時だからこそ、民間人が力を合わせて戦後補償、靖国問題の解決が 関係改善の突破口になると信じる」と語った。
 後日分かった事だが、集会後韓国遺族の間で話題が持ち上がっていた。塩川さんが集会報告の中で、ポケットからお父さんの「霊石」を取り出して見せた。それを見た韓国遺族の方々は、お父さんの大切な遺品をポケットから取り出して良いのかと心配したそうだ。集会後の交流でその石は、父の死亡を遺族に認めさせるため配られた「沖縄方面の霊石」と表書きされた小さな箱に入った3個の白い石であったことがわかり大笑いになった。以来この石は、塩川さんと韓国遺族の方々をつなぐ大切な石になった。

NGO大会 講演する塩川さん
参加者全員で 「霊石」


8月靖国キャンドルで来日の東京で塩川さんと交流

 
  塩川さんが説明 該当者を発見!

 この石は、8月靖国行動後、東京のホテルでの交流の場でも笑い合える話題として登場した。交流では沖縄戦遺族の権水清さんとフィリピン遺族の方を、それぞれ亡くなられた地にお連れしたいという塩川さんの提案を実現するために相談した。その場で嬉しいサプライズがあった。塩川さんの探してきた77連隊の朝鮮人名簿の中にノーハプサ新訴訟原告の朴基哲さんの父(木本豊鉉)の名前を発見。確かめるとNPOのサイトの名簿にも名前を確認することができた。塩川さんは「かつて日本軍が徴用したという足跡があるのに、人一人を虫けらの様に扱っている。それを多くの日本人に知らせないといけない。父の戦死も納得していないが、韓国の方は外国のために犠牲になった。日本政府がこんな扱いをしていることは許せない。このままでは日本は国際社会で生きていけない。まず権水清さんのお父さんの所属部隊が沖縄のどこにいたかは調べればわかる。(後に沖縄の具志堅さんが調査し渡嘉敷島の可能性が高いと判明)その地で祭祀をしてもらう。そして沖縄県に戦死を認めさせることとDNAを提出して遺骨調査を要請する。権水清氏が道を開く」と語り、今後の方向が決まった。


9月訪韓で「沖縄・フィリピン」遺族の戦地追悼とDNAデータ化への道筋を確認(古川)

 

船舶軍(沖縄)留守名簿

 
 
塩川さんと権水清さん  
 
権水清さん  
 
ヒジャさん・権さんと塩川さん  

 9月28日から10月1日にかけて、塩川さんと訪韓した。目的は、塩川さんから提案のあった、「沖縄・フィリピン」遺族の戦地追悼と、将来遺骸が発見されたときに備えてのDNAデータ化要求への道筋を確認するためである。初日は李煕子さんたちと行程について打ち合わせ。塩川さんから10月末に沖縄・渡嘉敷で調査。11月上旬に今度はフィリピン・ミンダナオに渡って調査を行い、11月中旬に権水清さんを沖縄にお連れしたいというスケジュールが提示された。ここで李煕子さんは「恨之碑」の姜仁昌(カン・インチャン)が90年代に韓国政府記録保存所で写し取った「船舶軍(沖縄)留守名簿」の分厚い冊子を持ってきた。名簿の存在に驚いた塩川さんは、「沖縄県史には2百数十名という記述があるが、この留守名簿には104部隊だけで700名弱、103部隊でも同じくらいいるので、この名簿を沖縄側に提供して調査を依頼しましょう」と提案した。
 そして29日、権水清さんを交えての打ち合わせが始まった。権水清さんは1938年生まれのGUNGUN原告で、お父さんを軍属として沖縄渡嘉敷で失い、戦後はお母さんが病死し、兄弟二人が残された。兄弟は叔父に引き取られるが貧しいために学校に通えず、韓国内を転々としながら生活してきた。3年前まではアパート警備の仕事をしていたが今は無職だ。2001年GUNGUN提訴の年に沖縄で行われた全交に原告として参加、韓国の塔で祭祀を行った後、泣き崩れられた。原告の思いに寄り添って最後まで責任を持とうと決意を固めた、私(古川)にとって大切な原告の一人である。
 塩川さんから「権水清さんのお父さんの部隊は陸軍特設水上勤務第104部隊だが、映画「命果報」に渡嘉敷島で部隊の生き残りの朝鮮人軍属(恨之碑の姜仁昌さん)の証言が描かれている。現地の人は触れたがらないが、証言できる人もいるはず。渡嘉敷島では特攻艇に500キロ爆弾を積み込む作業をさせられた。私も父が戦死したために戦後は母一人子一人では生活が苦しくて食べていけなかった。政府がこの「霊石」を持ってきたが、戦死を認めないと年金が出ないので、父の戦死を認めることになった。どの遺族も同じ境遇で「遺骨よりも年金を上げてくれ」という路線になった。900坪の田と300坪の畑、それに鶏を飼っていたので生活ができた。いつもはだしだったがそれでも年金があったのが大きかった。でも権さんは違う。単に補償の問題ではない。朝鮮の人を強制的に動員しておきながら戦後放置してきた日本人としてどうなのかという問題。渡嘉敷に連れて行って、痕跡があるだろうから調査したい。もう高齢だから日本政府に対して「将来遺骨が出てきたときのために自分のDNAをデータ化しておいてほしい」と要求すればよい。ぜひ渡嘉敷に行きましょう」と呼びかけた。
 権水清さんは、「父が連れて行かれて家庭が壊れてしまった。母も亡くなり、勉強ができなかった。ハングルは読めてもパッチムなど今もわからない。食べるものもなくつらかった。母は肺病になって解放1年後に亡くなった。母がもう少し長く生きてくれていれば、父が連れて行かれた当時(5歳だった)状況などを聞けたと思う。父の写真が一つもない。母の写真もない。どういう顔をしていたのかも思い出せない。母が死んだのが8歳の時。おばあさんも母が死んですぐに亡くなった。孤児院はなかったので、弟も自分もそれぞれ他人に預けられて生活した。その弟も最近亡くなった。勉強ができず読み書きができなかったので、その後の人生がつらかった」と語りハンカチで目頭を押さえた。聞いているこちらも目が潤む。「いつか帰ってくると思った?」との問いに権水清さんは「今でもそう思っている。解放後は帰ってくると信じていた。渡嘉敷には明日にも行きたい。遺骨は無理でも土を持って帰りたい。自分の人生を語ると何冊も本ができると思う。命があることが驚きだ。今の望みは遺骨を探すこと」と沖縄行きを快諾した。

塩川さん フィリピン戦遺族と待望の面会

 
 

残された父の写真(右)

 30日はフィリピン戦遺族の朴基哲(パク・キチョル)さんを訪ねて江華島へ向かった。島への橋を渡り田舎道を進み、丘のてっぺんに真新しい家があった。朴さんは笑顔で私たちを迎えてくれた。さっそく家のリビングで塩川さんから「この名簿は平壌で編成された陸軍77連隊のもので354名の戦死者名があり、多くはミンダナオ島で亡くなっている。私の叔父もこの部隊で死んだのだが、この名簿を92年に作った人が亡くなるときに「朝鮮人遺族にくれぐれもよろしく伝えてくれ」と言い残して亡くなったため、推進協を通じて遺族探しを行ったら、朴基哲さんのお父さんの名前があることがわかった。この部隊で生き残った人は二人だけ。今生きている人は一人もいない。私は遺族をその場所に案内している。朴基哲さんのお父さんが亡くなったミンダナオ島にも10回ほど行っているので、調査すれば亡くなった場所に行けると思う」と提案。「父は爆撃を受けて亡くなったと聞いている。遺骨を集めて埋葬されたと思っている」と語る朴さんに塩川さんは「靖国からの回答書に「ミンダナオ島バタン」とあるが、ミンダナオ島にバタンという地名はない。ブツアンならある。戦時中、日本軍は夜しか動けなかったので埋葬した可能性は低い。ミンダナオ島の場合、爆撃を受けたという記録はなく、日本兵は当初から飢餓との闘いだった。軍人手帳が重くて歩くのが困難だったという証言があるくらいだから、遺骸の多くはそのまま放置されたと思う」と考えを示した。朴さんは「フィリピンで飢餓という話を聞いて心が痛む」と複雑な表情を見せた。「戦争というと勇ましく戦って死んだと考える人が多いが、真実は違う。飢えでバタバタと倒れたのが真実。もし朴さんさえその気になれば、お父さんがたどった道を案内できると思う。11月にフィリピンへ行って、市役所で地名を確認したい。この名簿を作ったのは私のNPOの初代代表。参加していただければ、託された私の心の荷物は下りる」と塩川さんの思いを伝えると、朴さんは「いい仕事をしていますね。私は父がいなくて栄養不足で身体も小さく弱かった」と戦後の境遇を語り始めた。「私はもともと北朝鮮の地域に住んでいた。私が母のお腹にいたときに父は徴用された。戦後父の帰りを待つ祖母が先に亡くなったあと、祖父が先導して38度線を越えて南へ渡った。その後母も衰弱して伝染病にかかり、病状が悪化して亡くなった。母がいなくて孤児になったので両親の存在の重要さは身に染みてわかる。親がいない私を親戚は面倒を見てくれなかったので、その後すごく苦労した。父はお腹にいるときに出征したが、途中で手紙が来た。母が私の出生と名前を報告する返信を書いたが、その返事はなかったと聞いている。その手紙も北にいた時だったので今はない。あるのはこの写真だけ」と壮絶な戦後の生活を振り返った。塩川さんが「名簿を預かった者の責任としてお連れしたい。お会いできて本当によかった」と言うと、「本当にありがたくうれしい。南へ来て孤児の生活で、人生の最初から壊れたようなものだった。日本を恨んだし、私をもうけた父を恨んだ時もあった。人生の終盤でよい日本人と出会えて慰労になった」と朴さん。「朴さんのお父さんたちは違う国のために犠牲になった。そういう人への扱いは日本人以上に丁重に扱うべき。植民地支配が戦没者について今でも続いている。戦死の記録もない状態を続けている日本政府の責任を問いたい」と語る塩川さんに朴さんは「近くに池があって魚も捕れるので今度はメウンタンを食べに来てください」と最後は完全に打ち解けていた。健康の関係で少し時間をかけて検討することになったが、塩川さんの目的は達成することができた。 

田舎道を進む 朴基哲さんが出迎え
塩川さんから説明 家の前で記念撮影


カンパへのご協力をよろしくお願いします
 
 この秋、日本の戦後処理を問い、遺骨返還への道筋となる日韓遺族の連携行動が深まります。渡航費用は塩川さんが負担されることになっていますが、足しにしていただくために広くカンパを呼びかけたいと思います。ぜひご協力をよろしくお願いします。