2013年4月27日〜28日

佐賀県のNPO法人「戦没者追悼と平和の会」を訪問 (木村)


 
 

塩川さん(左)と横川さん(右)

 
 

塩川さん(右)とともに

 
 

貝島石炭記念館

 
 

教室跡で横川さんの説明を聞く

 
 

謝恩碑

 4月27〜28日佐賀にあるNPO法人「戦没者追悼と平和の会」を訪ねた。昨年末にお手紙を出し、その後手紙と電話でやり取りをしてきた。東京・沖縄・フィリピンと常に巡り活動されている代表の塩川正隆さんに会うのは初めてだ。会社兼事務所でお話を伺った。

 太平洋戦争末期1944年8月塩川さんが生まれて1週間後にお父さんは出征。電信36連隊で沖縄へ。戦地から届いた手紙には、「佐賀県のお袋の実家に行け。絶対北九州には帰るな」とあったそうです。戦況をみて家族を守るために出された手紙であったようだ。お母さんには、必ず生きて帰るから靖国には行かないと約束して行かれたそうだ。しかし、1945年6月22日戦死。
 1976年沖縄で遺骨収集する高田さんという方の新聞記事を目にし、1977年「一緒に連れて行って欲しい」と頼み、初めて遺骨収集に参加。戦後30年以上たった洞窟に有るはずがないと思った遺品が散乱しているのを見て、「親父は浮かばれないと思った」と。以来沖縄へは100回以上通っている。「沖縄は戦争の引き延ばしのため捨て石にされた。そのころ、大本営は 東京から移されようとしていた」と話される塩川さんから、沖縄で戦死されたお父さんへの無念の思いが伝わってきた。

 塩川さんはフィリピンでも遺体収容を行っておられる。伯父さんがフィリピン・レイテで戦死されている。山口県で伯父さんが所属した歩兵77連隊の慰霊祭に参列された。そこで出会った永田さんという方が伯父さんの最後を知る人だった。永田さんはレイテ戦最後の結集地カンギポットで最後の一人になり、山を下りた所を原住民にバン刀を持って取り囲まれた。その時、その中の一人が殺すなと言い、米軍に引き渡され生還されたそうだ。翌年、永田さんと共にレイテ島カンギポットへ向かった。これを機に毎年レイテ島への遺骨収集活動を継続されている。

 「父の足跡を探そうとやり始めたが、厚生労働省は早く幕引きすることしか考えていない。遺族会には、元兵士が入って軍のやってきた事を正当化していった。だから遺族は本当のことを知らされていない。国がやらないなら、自分たちでやるしかない。沖縄とフィリピンをメインにやってきたが、まだいっぱい骨は残っている。骨のあるとこどこへでも行きますよ」と語る。北朝鮮に残る日本人墓地も、国交のない北朝鮮に直接手紙を送り許可を得て調査されている。ペリリュー島へも行く予定だと話された。移動の車の中では、父親のいない戦後はたいへん貧しい生活を余儀なくされ、毎日いじめられたという話も伺った。

 2日目は 塩川さんの車で貝島石炭記念館へ。ここは一昨年、大阪の証言集会に来日された崔洛(チェ・ナックン)さんのお父さんの足跡を探す中で地名が上がってきた所だ。唯一の手がかりである写真に一緒に写る二人の同郷の人が貝島にいたという事実。とにかく一度見てみたい、崔洛さんも一度お連れしたい場所だ。佐賀訪問が決まってから、共同通信社の角南さんが何度も足を運び、様々な方を訪ね情報を集め知らせて下さった。今回の訪問時にも、その中の一人横川輝雄さんが記念館まで来て下さった。横川さんは、筑豊に住み朝鮮人の強制連行について長年にわたり調査されてきた。

 一緒に見学した石炭記念館は、当時会社が所有した学校の校舎が使われていた。館の職員の方から、展示を見ながら説明を聞いた。あちこちに古い写真が展示されている。崔洛さんの写真に重なる建物がないか。説明して頂いている職員の方には申し訳ないが、そちらの方が気にかかる。いくつかの写真には朝鮮人が住んでいた「啓心寮」という建物が写っている。

 一通り見学の後、教室跡の部屋で横川さんから写真から推測できる事を聞いた。●写真の建物は使われている板が厚いので、林えいだいさんも在日の人も貝島の建物でないとの推測であること。●同郷の二人が貝島から逃げたと記録にあるので、お父さんも逃げたのではないかということ。●当時、在日の人が飛行場建設とかやっていたので、そういう所に入り、西本建設から名前の変わった三井建設(家にあった灰皿にこの名前が記されていたという証言)にいたのではないかということ。また塩川さんからは、寮の造りがどの地方のものか専門家に聞いてみる。「三井建設」から調べることも可能では、等々の示唆をいただいた。
 その後、朝鮮人が建てたといわれる「謝恩碑」をみた。この碑は戦前に建てられたものだが強制連行が始まると、この碑の前で「お前たちの先輩が建てた。安心して働け」と利用されたという。戦後のものだという露天掘りの跡も見に行った。水たまりと聞いて行ったが、広大な池だった。

 佐賀訪問は、この地で未だ解決されていない戦争の傷跡を丁寧にたどり明らかにすることにこだわっておられる方々に出会う事ができた。ぜひこの地で証言集会を持ち、韓国の李煕子さん、崔洛さんとも交流し遺体収容を韓日共同の行動としていきたい。