2010年10月7日〜11日
「韓国・朝鮮の遺族とともに 遺骨問題の解決を! 第3回証言集会」
10月7〜8日 東京院内集会・議員要請報告 (木村 )
院内集会でイ・ヒジャさん |
韓国・朝鮮の遺族とともに 遺骨問題の解決を!第3回証言集会は、10月7日東京での院内集会、8日対政府要請行動から始まりました。韓国から遺族10人(東京へは内8人)が来日、院内集会には民主党、社民党、共産党の議員、秘書をはじめ、全体で約200人が集まりました。
まず全国連絡会を代表して、上杉聰さんが基調報告。「政府は管総理談話に沿った『新たな措置』を遺骨問題でも実施し、アジアの人々から幅広い信頼を得る道を進むべき」と、ノ・ムヒョン・小泉会談以降進展していない「遺骨問題」の解決を訴えました。議会会期中にも関わらず、民主党戦後補償議連の藤谷光信議員、今野東議員をはじめ社民党の服部良一議員ら議員6名が駆け付け挨拶。石毛瑛子議員からは「議連としても取り組みたい。管総理も具体的に言及していることだから」と挨拶。共催の太平洋戦争被害者補償推進協議会から共同代表の張完翼(チャン・ワニク)弁護士が、「2004年韓国で真相究明法が制定された。日本政府も、軍人軍属と労務者の被害状況に対する調査と補償のための法律を速やかに制定すべきだ」と報告。来日の遺族を代表して、李煕子(イ・ヒジャ)さんは、「遺族の方々の話を自分のこととして、胸の痛む問題を聞いて欲しい。痛みを皆さんと分かち合いたい。村山談話が引き継がれているが、具体的な解決を望む」と訴え。
その後、7人の遺族お一人ずつが証言。「言いたいことは、山ほどあるが、言葉が喉に詰って出てこない。証言集を読んで欲しい。日本の国は憎い、父の顔も知らずに育った、父の遺骨、一片の記録でも手にして、『アボジ』と呼んでみたい」との証言に、頷きながら聞いている参加者が多かったのが印象的でした。
曹洞宗の工藤さんは、政府の要請に協力して、各お寺にある遺骨300体の内30体の遺族まで判明したが、それすらどのように返還するのか道筋がつかず預かったままだと報告。最後に、今年亡くなられた真相究明ネット事務局長・福留範昭さんの遺志を継いでいくことと、市民の力で政府を動かし、“国の責任において遺骨問題の解決を求める”とともに、その早期実現に全力で取り組むことを決議しました。
8日の対政府要請行動は、韓国遺族団に加え全国連絡会メンバー10人が参加。この行動には民主党の稲見哲男議員、工藤仁美議員、今野東議員秘書がずっと付き添ってくれ、民主党幹事長室、外務省、厚生労働省、内閣府を訪ねました。行動終了後、辻恵議員が急遽会議室を確保して下さり遺族の方と数人で感想交流会が持たれました。遺族からは、「日本の政権が変わり期待してきたが裏切られた」「人道的な人もいたが、そうでない人もいて、本当に話が伝わるのか」「この政権でやれるだけのことはするという決意が聞きたかった」等々の声が。内容を聞くと、厚生労働省での対応が原因のようで、要請に対し、「厚生労働省としては韓国政府に資料を送付済み、後は韓国政府の方の問題」と聞く姿勢を見せなかったとのこと。ただ、民主党幹事長室では、「遠くからきていただき申し訳ない」と遺族を労い、「今日聞かせていただいた内容についても受け止めていく。(今回の要請内容を)岡田幹事長も納得するはず。政府にも要望を伝えていく」「遺骨を大事にする気持ちは共通。早くやっていくよう働きかける」という返事を得たそうで、外務省でも「遺骨問題について、今後人道的な立場から対応していく」とのこと。
今回の要請内容を実現するためには、もっと議員を巻き込んで、遺族の悲痛な声をもっと広く知らせていかなければならないと感じました。
10月9〜11日 関西証言集会・議員要請報告 (日鉄裁判を支援する会 ・上田)
父の写真を掲げる崔洛さん |
韓国・朝鮮の遺族とともに遺骨問題の解決を!全国証言集会は、関西で神戸・大阪・京都集会の順で開催され、多くの行動・交流が行われました。
9日、関西に着いた3人を新大阪の新幹線ホームに出迎える。崔洛(チェ・ナックン)さんは、韓国でいつも会うおなじみの方。姜宗豪(カン・ジョンホ)さん、南英珠(ナム・ヨンジュさん:唯一女性)は緊張気味。特に、お兄さんをニューギニアで亡くされた南英珠さんは、はじめての来日で複雑な思いが察せられる。神戸に行く車の中でも、3人の方からいろんな話を伺った。
崔洛さんからは、「三井建設の名の入った灰皿」の話が。父が日本に徴用された後、父から手紙とともに家に送られてきたもので、父が写る第一協和訓練隊とかかれた9人の写真と、全員の名前本籍などが載ったメモだ。そのうち一人が判明し、会いに行ったがすでに2年前に亡くなっていた。父は家族にも日本でのことは伝えておらず、父の情報はつかめなかったそうだ。
南英珠さんは、兄が徴兵で連れて行かれ、死亡通知もないままで、2003年に日本から韓国に送られた資料の中にニューギニアの「ヤカムル」という場所で死んだことはわかったが、日本政府に照会したところ遺骨記録はないと言われたそうだ。古川さんがニューギニアの戦死情報を記録してある民間サイトから南英珠さんの兄の情報を出してプリントした、死亡地の地図や名簿と、同時にニューギニアで遺骨が回収されずに野ざらしになっている写真の入った新聞記事を見せてもらった。今まで遠い所としか思えなかったニューギニアの地図も写真も頭の中に焼きついてしまった。ニューギニアで父が戦死し、遺骨を回収し続けている岩手の岩渕さん(太平洋戦史館を運営)の話が古川さんから紹介されて、南英珠さんは初めて聞いたようで、とても会いたがっていた。
戦没船資料館でお父さんの名前を調査
戦没船資料館で姜宗豪さん(中央) |
車は、海員組合が運営する神戸の「戦没した船の資料館」に向かっている。姜宗豪さんの父が、「南洋群島にいく。どうやら帰れなくなりそうだ」という話を知人に残した情報から、名簿のある資料館に行って調査をするためだ。姜宗豪さんは、「以前同じような資料館で名前を調べたが、日本名がわからなかったのでできなかった。今回は日本名がわかった」と言う。資料館に到着すると、以前来たところが同じ資料館であることを思い出された。出迎えていただいた、神戸学生センターの飛田さん、資料館の大井田さんもお会いしたことがあるという。今回新たに日本名「和田太休」で調べていただいたが該当はなかった。もしやと崔洛さんのお父さん「崔菊寸」も調べていただいたが、ともになかった。
神戸集会は、神戸学生センターとグングン裁判を支援する会が共催し、神戸の戦災被害者の活動をする方、神戸港の強制労働の記録の活動をされている方など、神戸で地道に取り組んでおられる方々が集まった。冒頭に「船ごと徴用とは?」と題して、「戦没した船の資料館」の大井田さんの講演があり、3人の証言・意見交流と続いた。参加者からは、崔洛さんのお父さんの写真は「服装からすると炭鉱ではなく鉱山ではないだろうか」という話があり、2次会でも続けて、炭鉱関係の名簿を調査している人を紹介いただき早速調査をお願いした。神戸の南京町で行われた2次会は大盛り上がり。南英珠さんも通訳の李美代子さんが付きっ切りで話しをしてくれて、硬い表情が取れてきた。崔洛さんは東京で行けなかったと、神戸の人たちとカラオケへ。後の2人は長旅に疲れて大阪のホテルへ。
南英珠さん(左) |
朝日新聞に大きな記事が
10日、大阪。朝1番新聞を見る。朝日新聞に大きく今回の行動が紹介されている。「韓国から徴用戻らぬ遺骨・今日大阪遺族ら証言集会」、崔洛さんのお父さんたちの写真と3人、3人の写真とともに証言も詳しく載っている。今回の目的の一つ、市民に問題の存在を広く知らせるという狙いは成功したと言える。一人ひとりに新聞をお土産に買い、早速ロビーで韓国語に翻訳してあげる。3人の表情は昨晩ぐっすり眠り、記事が新聞に大きく載ったこともあり、とても明るい。
午後2時から大阪集会。韓国語がわかる人も結構いて、遺族の訴えに直接頷く人がいる。参加者みんなが訴えに集中した。「父がいない苦労で学校へ十分に行けず、ソウルに家出し物乞いをして暮らした」と苦労を語り、「母が死ぬまで父の戸籍を整理できなかった」と無念を語る崔洛さん。「一度も会ったことのない父が死に、母と離別し、済州島の4・3事件で戸籍にある父がいないため父が逃げた左翼とみなされ、祖父母が銃殺されてしまった。別れるまいと祖母にしがみつくと、一緒に行くと殺されると無理やり離された。中学に学費がなくいけず自殺を試みた。孤児院に入り、その後今の養母に育てられた。」と、姜宗豪さんも父母そして祖父母までを失った苦労を涙で語った。南英珠さんは、「兄が徴兵され、帰ってこず母は解放直後心の病でなくなった。幼少期を母なしで生きた。父も兄を探し続けたが、心の病でなくなった。祖父・父・母皆が兄の消息を聞けずなくなった。靖国合祀でいまも魂が縛り付けられている」と涙ながらに訴えた。寄り添ってきた李さんも泣きながら通訳をした。会場からも在日の方から「私たち在日も日本で差別され苦労をしてきた。この問題は政府を動かさないといけない」と、思いのこもった発言があり、会場も一つになった。
これを受けて東京の事務局から矢野さんからに国会政府要請の報告が行われた。幹事長室での前進は感じられたが、以前と変わらぬ厚生労働省の対応には落胆がひろがった。大阪集会では「10日夕方民主党辻恵議員事務所、11日午前稲見哲男議員に遺族の声を直接伝える行動を成功させよう」と訴え、集会は終わった。
辻議員(右)と |
有意義だった国会議員要請活動
2ヶ月前から調整し、議員本人に訴える機会を得た陳情行動である。辻議員には45分、稲見議員には1時間あまり遺族が証言し、15分から20分程度の交流を持った。辻議員からは「厚生労働省の政務官(国会議員)は知っているので、もう少し遺族の話を聞いて対応するよう話してみる」との申し出が。稲見議員は、「菅談話に示された朝鮮王朝図書の返還は、民主党戦後補償を考える議員連盟が韓国から専門家をゲストに学習会を開き、宮内庁にある文書を国会議員2人ずつで閲覧し、認識を広げる中、盛り込まれた」との話を聞き、運動を結実させる方向性に大きな示唆を得た。地元でじっくり議員に証言を聞いてもらったのは本当に良かった。今後関西では、国会議員への要請を継続する計画だ。
3日間を通じて兄弟に
11日午後、京都に入る。南英珠さんが、日本が初めてということもあり、短時間ではあるが東寺を訪問した。抹茶と京都の和菓子を食べていただいたが、私が食べてないのを見て、ナムさんは「申し訳なくて死にそう」と韓国独特の言い回しで冗談も出てくるようになった。
打ち上げで(京都) |
「韓国併合100年市民ネットワーク」が中心に担った京都集会で、戸塚悦朗さんからは、真相調査法を民主党も野党時代に提出していて、菅さんも立法案の民主党としての承認に関わっていたのだから、立法を明確に求めるべき」との積極的な提案も出ました。
最後に、京都で打ち上げを行った。姜宗豪さんは「全てのプライバシーを明らかにした」と語った。事務局の一人が「いつも元気な崔洛さんのつらいお話をはじめて聞き心が打たれた」と言うと、崔洛さんは「証言では絶対泣かないように努めたが、今涙が出てきた」と泣き出された。南英珠さんは「日本には悪い印象を持ってきたが、みな会う人はいい人ばかりだった」と感想を述べた。
「この3日間、5回に及ぶ証言を話し、聞いた私たちの関係は、同志というだけでいいのでしょうか、許されるならば兄・姉と呼ばせていただき兄弟の契りを結びましょう」と呼びかけると3人は「弟たちだ」と言って、とても喜ばれていた。思うに、この「兄弟の契り」は、3日間のすべての政治的・運動的な成果を越える意味のあるものかもしれない。最後に日本にはじめてきた南英珠さんにずっと寄り添い、泣きながら心をこめた通訳をしていただいた李さんに心から感謝申し上げたい。
「チグン、シジャギヤ!今からが始まりだ!」
(上田さんの文章は、日鉄ニュース用に書かれたものを編集しました)