2009年11月21日〜24日

控訴審判決報告集会&ボランティアツアー(ソウル、春川)


 
 
 
 
 
 
 
   

 今年で第9回となるボランティアツアー。毎年秋に春川にある納骨堂で、草刈り清掃をし、日韓合同慰霊祭を行ってきた。今回のツアーは、春川に入る前にソウルでグングン裁判控訴審判決の報告集会から始まった。日本からの参加者は、大口昭彦、殷勇基両弁護士と支援する会の関東、関西から計11人。
 22日、ソウルで原告集会の開かれた東北アジア歴史財団の会議室は、会場一杯に原告の方が。その中には、これまでの訪韓やヤスクニキャンドル行動の時に出会った懐かしい顔も。まず大口弁護士が裁判判決を報告。「腰の引けた臆病な裁判官により、日韓請求権協定の判断からも、韓国人の靖国合祀判断からも「逃げた」判決だ。これほどの不正義がどうして日本の裁判で通るのか。しかし、判決文には、本質から逃げ切ることのできない記述があり注目している。11月10日に最高裁に上告した。靖国、未払い金、遺骨返還、戦死公報の全て日韓条約で解決済みという乱暴な判決を覆すべく、裁判を進めていきたい。日本の政権交代によりアジア外交重視の動きが始まっており、原爆被爆者への救済を韓国人も対象に見直すと正式公表され、シベリア抑留、BC級戦犯の立法化の可能性が高まっている。今こそ解決できる時だ。裁判だけが唯一の手段ではなく、日本政府に責任追及の声を上げ続けることの意義は大きい」と発言。殷弁護士からは、日韓条約について、「日本政府はかつて、韓国政府が外交保護権を捨てただけで、韓国人個人に権利は残っているとしていたが、途中から説明が変わり、韓国政府が韓国人個人の権利を捨てたとした。黒いカラスも白と言えば白になってしまう現状だ。壁は厚いが今後も全力を尽くしたい」と決意が語られた。支援する会からは、裁判後の靖国神社と厚労省への要請行動、シベリア関係の行動が報告され、上告審で闘うと共に立法化を勝ち取ること、国際人権規約違反として国連への提訴を検討する等の行動提起がなされた。
 
春川で納骨堂の清掃と合同慰霊祭

 ソウル原告集会の後、私たちは春川へ移動。一年ぶりに訪ねた納骨堂では、お天気にも恵まれ、気温も上がり、早速草刈り清掃。金景錫さんのお墓をポンポンとたたいて「来ましたよ」と呼び掛けた。2005年に金景錫さんと共に石を運び積み上げて建てた石塔の上3分の1が崩れていた。来年は市の計画で、納骨堂が車で20分の場所に移転するとのこと。この地で最後の慰霊祭となる。金景錫さんの後を継ぎ活動を継続されているホン・ヨンスクさんが指揮をとって準備。祭壇には、供物が並べられ、江原道知事、春川市長からの献花が並ぶ。ソウルからは、イ・ヒジャさんが10数人の原告と共に参加。納骨堂の前に並べられた椅子はたちまち満席。韓国メディアが取り囲む中慰霊祭が行われた。来賓挨拶に続き、支援する会からは、金景錫さんの「軍人軍属裁判は100年闘争だ」の意志を引き継いで今後も闘うことを表明。韓国「併合」100年の来年は、ボランティアツアーも10周年となるので、若い世代と共にサッカーやキムチ作りで市民交流を盛大に企画したいと挨拶。最後は、韓国、日本の方法でチェサ(祭祀)を行なった。昼食後、遺族会事務所で春川の原告の方々に裁判報告。原告のイ・ナクチンさんは、紙に韓日条約と書き指差しながら、「これが問題だ」と。本当に道理を超える条約なんてあって良いはずはない。ソウルへ向かう電車の時間が迫り、春川を後にした。ソウルでは、ヒジャさんの息子さんのピザ店で再び原告の方々と交流。ここでは、アジュマ(原告の女性)が勢ぞろい。
 
 次の朝、ヒジャさんと今後について意見交流を行った。裁判は棄却となったが、新しい挑戦の第一歩である。国際人権規約第一選択議定書を批准させ、訴えていくこと。立法化では、謝罪が不可欠であること。遺骨調査を真剣にさせること等、具体的な課題が確認された。いくら環境が厳しくとも、やらなければならないし、原告たちと一緒に闘いたい。今後も大きな闘いに共に参加できることに感謝したツアーでした。