2005年5月20日〜6月14日

「あんにょん・サヨナラ」撮影記(5、6月編)


 日韓共同ドキュメンタリーも6月の中国撮影で一区切り、現在は200時間に及ぶテープの編集作業に入っています。試写会は8月15日(心に刻む集会・大阪)に決定しました。ぜひこの記念すべきプロジェクトの制作サポーターになってください。 (古川)


《5月 東京〜名古屋〜大阪〜金沢〜沖縄》

 5月に東京で行われた「戦後60年・被害者とともに日本の過去の清算を求める国際集会in Tokyo」にあわせて韓国側スタッフが来日。

【20日】 2班に分かれて集会班は各国(韓国・フィリピン・中国・台湾・オランダ・アメリカ・日本)参加者を取材。私は、拓殖大学の佐藤健生教授にインタビュー。過去清算を巡って比較されるドイツについて、「ドイツでは第1次大戦の反省から被害国との『青少年交流』を位置づけたがナチスの台頭で実らなかった。そこで、第2次大戦後は加害者追及、補償、再発の防止に力を入れ、『青少年交流』を盛んにやっている」「記憶・責任・未来基金は来年で終了するが、ドイツの場合、やると決めれば必ずやる『道徳的な敏感さ』がある」「ドイツでは『過去清算』でなく『過去の克服』と いう」という話しが印象的。

 

 午後からは新右翼「一水会」元顧問の鈴木邦男さんを取材。とてもリベラルで、「植民地政策は間違っていた。戦後独立したとしても日本がさせたなど言うべきでない。アジアともっと仲良くすべき」と言う。靖国合祀も「当時は合祀しないと差別になると思ったのだろう。取り消してほしいと言うのであれば、取り消したほうがいい」との意見。今の日本に何が不足していると思うか?との問いに「余裕のなさが心配」と答えられた。右翼にもこういう人がいるんだと率直に驚いた。
 

 

フィリピンの元「慰安婦」被害者

 

【21日】 国際集会の分科会参加者を取材。各国の被害者に「靖国」について尋ねたが、正確な知識を持っている人は少なく、「お墓」だと思っている人も。全体集会で李熙子さんが「父の戦死を知らされないまま靖国に合祀されている意味を問い直したい。後世に恥のない運動を残したい」と発言。


【22日】 朝から中国の呉雄根さんにインタビュー。呉さんはシベリアに抑留され、解放された後、故郷近くの中国に住んだ。中国では医師となり働いたが、1964年文化大革命で歴史反動分子とされた苦い記憶が蘇る。「神社は私の民族にはない」と当時の集団参拝を振り返った。

 その後、靖国神社で韓国参加団が首相参拝中止と合祀取り消しを求める韓国国会決議を靖国側に伝えるデモンストレーション。歩道上で横断幕を広げると靖国に常駐する右翼が押しかけてきて、ゼッケンや横断幕を引きちぎり、我々につかみかかる大乱闘に。その後警察が駆けつけたが、右翼を守るような姿勢に抗議の声が飛んだ。李熙子さんをはじめ代表団が神社側と面会したが、玄関から上げない非礼な態度に抗議し、「再度来る」と言い残し退去する。

韓国国会での「靖国神社の韓国人合祀取下げおよび
日本の閣僚等の靖国神社参拝中断を求める決議」(5月4日決議) ⇒全文

大韓民国国会は、日帝侵略期に強制動員等を通じ犠牲になった韓国人21,181名が、遺族たちには何の通報もなく、太平洋戦争の主犯等と共に靖国神社に合祀されていることは、我々の伝統的な宗教観念と民俗精神に照らし、決して容認されえない点に、深く留意し、現日本総理が2001年就任以来、毎年靖国神社を参拝していることは、日本が侵略戦争に対する真の反省なく、むしろ戦争挑発国としての責任から逃れるために、日本の戦後世代に意図的に歪曲された歴史観を植えつけるためのものと理解し、これは、未来志向的な韓日関係の構築と東北アジアの平和定着に否定的影響を及ぼすのみでなく、我が国の国民を初めとする 汎アジア人たちの甚大な抵抗に直面することは勿論、日本自ら外交的孤立を招くものであることを厳重に警告し、次のごとく決議する。(以下略)

 

 
   

 午後から2班に別れ、私は名古屋へ。「福沢諭吉のアジア認識」の著者である安川寿之輔さん(名古屋大名誉教授)取材のためにご自宅を訪問。「現在の福沢諭吉像は丸山真男氏が偉大な民主主義者として描こうとしたことが大きい」故にその誤りについて語っていただく。日清戦争の際に1万円という当時2番目の多額献金をして、強兵富国に貢献した話や、その過程で先駆的に靖国を利用すべきと提起した話し。また朝鮮、中国を文明開化させるために武力行使の主張を行っていたこと。労働運動を警戒するために、貧しい者には教育の機会を減らし、官立学校を全廃せよと主張していたこと等々、目からうろこの話しが次々飛び出す。今に続く日本人のアジア蔑視の源流を福沢諭吉に垣間見ると同時に、その人物が最高紙幣の肖像になっていることの意味の重大さも再認識。


【23日〜26日】 韓国チームは金沢の大東亜聖戦大碑の反対派、賛成派(右翼)をそれぞれ取材。東京チームも右翼への取材のほか、姜徳相さんにインタビュー。

 

 

【27日】 2班に分かれ、大谷大学の鄭早苗教授を取材。もう一つの班は、自民党元幹事長の野中広務さんを京都の事務所に訪ねインタビュー。「子どもの時、近くのマンガン鉱に連行されてきた朝鮮人に子守してもらった」と切り出す野中氏。「植民地支配が誤っていたのは間違いない。歴史の検証をしないまま来ている」と。靖国に関しては、「自分は墓参りのような感覚で参拝しているが、韓国人の合祀は矛盾している。サンフランシスコ条約を承認している以上、A級戦犯は分祀すべき」と語る。迫力のある人だった。

 その後、西宮で取り組まれている「無防備地域宣言」署名運動を取材。

 

 

【28日】 伊丹空港から沖縄へ飛ぶ。目的は沖縄戦での犠牲者やその傷跡の撮影。那覇空港で東京チームと合流し、糸数壕へ。そこで松永光雄さんを取材。松永さんは今も遺骨収拾や、平和ガイドを続けており、この日は神戸からの修学旅行生に対して、糸数壕に一緒に入って沖縄戦の実相を説明した。住民を守らない軍隊の本質、生き残った兵士と住民との交流、命こそが大切だという沖縄戦の教訓・・・。その後、一緒に平和の礎へ。

 

 
   

【29日】 朝、松永さんがホテルに具志八重さんを連れてきてくれる。具志さんは、ひめゆり学徒が最後に自決した際の婦長さん。自分がなぜ生き残ってしまったのか、という思いで「沖縄戦の語り部」となった具志さん(87歳)と13年ぶりの再会。「私を覚えてくれていてありがとう」という具志さんに感無量。「海岸では戦艦が一杯で、出てきなさいという。生徒は自決したほうがいいと自決してしまう。生きれば生きれたはずなのに。日本兵は投降者はスパイとみなすと後ろから銃を構える。当時、死んでも靖国に祀られるから死ぬのは怖くなかった」と沖縄戦の中の精神状況と靖国の関係を話してくれる。感謝。

 
   

 その後2班に分かれ、松永さんと南風原陸軍病院跡、国吉部落、白梅の塔を訪れる。一家全滅の祠が多く残っている国吉部落には月桃の花が咲いていた。午後は魂魄の塔の花売りのおばあさんにインタビュー、荒崎海岸、斉場御嶽を撮影。

 

 夕方、宜野湾市の嘉数高台で天久仁助さんと待ち合わせ。天久さんは契約拒否(反戦)地主で、今年校長を退職されたばかり。沖縄戦の激戦地である嘉数高台に立つ右翼が立てた朝鮮人軍人の碑と、普天間基地を背景に契約拒否の思いを語ってもらった。


 


《6月 韓国〜中国》

 
   

【9日】 仁川空港に迎えに来てくれた李熙子さん、韓国スタッフと天安にある「望郷の丘」へ。ここに李熙子さんのお父さんのお墓があるが、墓石に刻銘はない。「靖国合祀が取り消されれば、魂を呼んで刻銘する」という李熙子さん。


【10日】 空路、桂林入り。道には、自転車とバイク、オートバイを改造した幌つきのタクシー、オート三輪トラックが行き交う。この日は桂林の七星公園へ。ここには戦時中800人の中国人が日本軍に殺されたことを示す「八百壮士の墓」がある。

 

 
 

【11日】 朝から亜熱帯性の蒸し暑さの中の雨。桂林から120キロほど北の方に全州という町(戦時中は全県)に車で向かう。目的地には今は使われていない中国軍の「164病院」跡(一部地元の人が居住)があり、日本軍が兵站病院として使ったとすればそこしかない、と訪れた。李熙子さんのお父さんは「全県181兵站病院」で45年6月11日死亡したことがわかっている。日本軍の中国戦線での方針は「現地調達」。病院も現地病院を占領して使っていたとのこと。今も平屋建てのレンガ造りの建物が残り、食堂跡の前はちょっとした広場になっている。最初は李熙子さんも食堂跡の中に入り、カメラを向けていたが、そこを出て、祭祀を行う場所を探していたときに、彼女の心の底からの父への思いが極まり、はじけた。道端にしゃがみこんで「アボジー!」「アイゴー!」「アー!」と・・・。それはふりしぼるような悲しみの叫びだった。

 食堂として使われていた場所に祭壇を設け、「60年後の命日」に祭祀を執り行った。最後はみんなで食事。その頃には李熙子さんはサバサバした表情だった。

 

 
 

【12日】 桂林から今度は南へ200キロの柳州へ。駅前に、中国軍の兵站病院跡があり、今も一部を軍が宿泊所として使用している。45年5月21日に敵の弾にあたって、最初に運ばれたのが「柳州183兵站病院」。ここも「おそらく」ということで、訪ねた。昔を知る女性が「この木は昔からここにある」というと、李熙子さんの目からハラハラと涙が。そっと木に手を差しのべ、さわってみる李熙子さん。路地の奥にある古い平屋建てのレンガ造りの建物は、当時からそのままとのことだった。

 その後、柳州からさらに南に20キロほどの柳江へ。「六道郷」という村が李熙子さんのお父さんが撃たれた場所。「この山が激戦地だったそうです」という場所で石を拾う李熙子さん。「その当時日本軍を狙撃した」という老人の話では、村の自衛のために日本軍から奪った鉄砲で高い場所から反対側の山に潜む日本兵を撃ったと言う。李熙子さんはあとで、「あの老人に恨みはない。悪いのは日本」と答えた。

 

   

【13日】 侵華日軍南京大屠殺遭難同胞記念館へ。虐殺でなく「屠殺」。動物のように殺されたことを静かに訴えているのが、万人坑という展示館。ガラスの向こうには累々と遺骨が何層にも横たわっている。見えるだけで208人分の遺骨。手前には遺骨のアップ写真があり、遺骨の状態の説明書きがある。子どもの手に打ち付けられた「釘」がそのまま錆びている。首がはねられている遺骨や、尾てい骨に刀のささった跡のある女性の遺骨もある。遺骨は何も言わずに当時の状況を静かに、しかし鮮明に我々日本人に訴えかけている。

 

 
   

【14日】 午前中、李熙子さんとホテル近くの儒教のお寺に入って鍾をついたり、民族音楽を聴いたり、買い物をしたり。そして最後に李熙子さんへのインタビュー。しばらくの沈黙のあと、「父の死亡の詳細を早く知っておきながら、今まで他のことを優先したのを反省している」「中国に碑を建てたい」と。李熙子さんは次の目標をすでに立てていた。そしてこのドキュメンタリーの企画を支えてくれた日本のみんなに感謝しているとのこと。
 ソウルへの飛行機の中では、金兌鎰監督と金銀植さんと私でビールを11本空けた。(古川)