2004年10月1日〜4日
ボランティアツアー200
4(第4回)
チュンチョンでの合同慰霊祭
このツアーも今年で4回目。今までは11月中下旬の開催でしたが、今回は金景錫さんの意向もあり、旧盆に近い10月2日に春川にある納骨堂の草刈りと、合同慰霊祭を行いました。
納骨堂には、金景錫さんが日本の各地に眠っていた身元のわからない強制連行犠牲者のお骨を集めて、513体が納められています。秋晴れの青空のもと、夏の間に生い茂った雑草を夢中で引いていると案内の李相賛さんが、近くにいるおじさんを指さして「飛び入りの人ですよ。日本人がこうしてわざわざ草を刈りに来ていると教えると、感激して手伝ってくれているのです」と教えてくれました。見るとにこにこしながら「ありがとう」と話しかけてくれたので、あわてて「とんでもないです。こちらこそカムサハムニダ」と言いました。2時間もすると、すっかり草も抜かれ美しくなりました。
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慰霊祭でお坊さんが読経 |
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そのあとは合同慰霊祭。祭壇の上には餅、くだもの、お菓子、ごちそうとともに、赤や黄色の装飾がつけられ、三人のお坊さんの読経が始まりました。太鼓をたたき、鐘や鈴を打ち鳴らしながら唱和される歌はリズミカルで思わず聞きほれます。お坊さんはシンバルを頭の上でたたきながら軽やかに舞い、読経が続くなか、紅葉の始まった木々と爽やかな秋空を眺めながら、納骨堂に眠る人々がどんなにか故郷に帰りたかっただろうかという思いが胸をよぎりました。
慰霊祭には、春川市長、江原道保健福祉局長(道長代理)も列席しあいさつを述べました。この慰霊祭は今年で11回目ですが、金景錫さんが私財を投じて建てた頃は屋根もなかったそうです。毎年少しずつ手を加えたお堂も今はコンクリート製になり骨壷を納めるケースもガラスの扉のあるものに変わり、大変立派なものになっています。この慰霊祭を多くの日本人に知ってもらい、戦争がもたらした事実を伝えていかねばと改めて感じました。(大幸)
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ソウルの原告集会で李侖哉さん |
ソウルでの交流
翌日ソウルでは、新しいソウル駅の中にあるおしゃれな店で原告集会&交流会が持たれました。今までに裁判の証言のために来日された懐かしいお顔が次々見えました。日本側事務局からの「いつも印鑑を送ってとか戸籍謄本をとってとかのお願いばかりで申し訳ない」の発言に、「それは逆だ。こちらがやるべきことで、100%応えられていないことこそ申し訳ない」という応答。原告の李侖哉さんからは、「日本に対して父を殺した国だと憎しみをもってきた。原告として日本へ緊張して行ったが、皆さんにお会いしてその気持ちが間違いだったと思った」という発言には胸のつまる思いがしました。食事を取りながら、隣席の金源穆さんからは、「自分は20歳で北支派遣軍に徴兵されたが17歳の弟は出先からトラックに乗せられ三菱重工に徴用された。お金を上官にお願いして家に送金したが帰ってみると一銭も届いていなかった」ということを聞きました。原告の方々の思いを充分聞けたとは言えませんが、私たちへの熱いエールを感じる交流でした。
今回のツアーでも、難波さん、丁智恵さん、金ボラさん、松井さんたちソウル在住の日韓の若いメンバーが活躍してくれました。また民族問題研究所のスタッフ、シベリアドキュメント制作スタッフ等、若い人に支援が広がっていることを力強く感じました。忙しいツアーでしたが、おいしいご馳走をいっぱい食べて、心も身体も満足のツアーでした。(木村)
参加者の感想 |
はじめての韓国旅行 北田衣代さん
韓国と日本の歴史を考えると、この国を訪れるには、どこか『玄関』で、こころをこめて、深々とまず、一礼をしないと、入ってはいけない感じをもっていました。GUNGUNの納骨堂参拝とボランティア活動をかねたスタディツアーは、そんな希望を満たしてくれました。出会った方々は、原告関係者の方々もボランティアの方々も、本当に心を開いて受け入れてくださっていることを強く感じました。私たちへのメッセージは強固かつ明確で、しかもしみじみ伝わるものでした。「あなたがたは、日本が犯した罪の歴史を忘れてはいけないし、認めることからしか先に進めない」と、納骨堂に込める思いを語ってくださった金景錫さん、この裁判へのかかわりを「若い人に導かれた、運命的な出会い」と謙虚に表現された李熙子さんは、凛として、しなやかで、どこまでも原告の方々によりそって
闘いぬかれるだろう、全身からあふれる意思を感じました。同じ女性として、とても敬意を覚えました。突然ですが、実はなんといっても、何もかも美味しい旅でもありました。若い学生ボランティアの笑顔の素敵だったこと!
3時間も銭湯につきあってくれた金ボラさんは、次は、大阪に来るそうです。出会ったすべての人にまた会いたい!そう、思う旅でした。
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日韓の学生が交流(右が金ボラさん) |
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汗をかいて交流に感謝! 石川陽子さん
私にとって韓国は今まで「近くて遠い国」という印象がありました。というのも、祖父が菓子職人として一家で京城(今のソウル)に転勤になり、日本が支配下においた1910年に父が生れたのです。南大門近くの三越百貨店(今の新世界百貨店)の向いに祖父の働いていた菓子店があり、6歳まで暮らしていたということを聞かされていました。戦後、韓国は独裁政権が長く続き、政情が不安定で再びソウルを訪れることはなかったということでした。学生時代の韓国のイメージも相当暗いイメージしかありませんでした。今回親子でボランティアツアーに参加する機会を得、運がよかったと思います。春川の自然はとてもきれいでした。私たちを歓迎していただいた1日目の夜の豪華な韓国宮廷料理は、辛いのもありましたが、おいしく食べられました。翌日、金景錫さんが私費で建てられた納骨堂の敷地をみんなで草刈をし、汗を流しました。娘たち二人も初めてでした。納骨堂は山の斜面にあるため、振り返ると景観が素晴らしくて、いい所に建てられたなあという印象でした。春川市長や道知事の代理
の方とか来賓も来ていて、MBCなどのテレビ局も取材に来ていました。金景錫さんの「日本政府が戦前にしたこと(強制連行)を未だに謝罪していないのは許せない」の言葉を聞き、日本が行った過ちに対しても何も応えてきていないのはおかしいという思いを強くしました。単なるツアーではなく、汗を流し、ともに交流でき
たツアーになり、とても感謝しています。娘たちもそれぞれ感じた想いを大切にしていってほしいと思いました。また参加してみたいです。
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金景錫さん(納骨堂の前で) |
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納骨堂で大変な作業 石川歩実さん(12歳)
私は、母と妹で韓国へ行ってきました。韓国は日本よりも寒く、夜はすごく長かったです。昔、韓国の人たちが日本人に強制的に連れて行かれ、そして、無理に働かされた。日本で死んだ方も多かったそうです。キム・ギョンソクさんが韓国の人の骨を集めて納骨堂を建てました。私たちはそのお墓の草かりをしにいきました。納骨堂に行ってみると草がたくさんはえていて大変な作業になるなと思いました。予想はあたっていました。背の高い草を何本も何本も引っこ抜いていきました。私は稲刈りはしたことはあるのですが、草かりは初めてでした。きれいにかりおわると、3人のおぼうさんが赤と白の服を着て、おきょうを唱えながらおどりなどをおどっていました。そのあと、お昼をたべました。私はおでんの「汁」が最高においしかったです。ここでおでんの「汁」がのめるとは!韓国の方が私たちを歓迎してくれました。納骨堂からのながめはきれいでした。
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今年の草は刈りがいがありました |
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友だちができました 石川結生奈さん(9歳)
10月1日から10月3日までかん国に行きました。10月2日の日にキムチづくりをしました。はくさいの1まい1まいの間に大根と長ねぎでできているキムチをはさんで一番外がわのはくさいの葉をまいておわりです。自分で作ったのを持ってかえりました。からそうでした。かん国人の友だちができました。キム・ボラさんというつうやくさんです。ボラさんは大学生で19さいだそうです。えいごと中国ごと日本ごとドイツごとかん国ごがはなせるそうです。かん国で友だちができてよかったです。ナミソムの林にいったらリスがいました。かわいかったです。かん国のおはしはおもかったです。日本は木でできているのに、かん国はてつでできていました。かん国のりょう理はとてもおいしかったです。つまようじがとうもろこしでできていました。おどろきました。10月3日朝食はたべにいきました。それでボラさんのEメールアドレスを聞きました。
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みんなでキムチづくり |
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不安と期待のなかで 大里幸子さん
韓国への興味を示していた私に、友人よりツアー参加の誘いがあり、「行く」と即答したものの、当日まで不安と期待で一杯でした。仁川空港まではあっという間で、本当に近いと実感しました。何よりも嬉しかったのは、はじめて顔を合わせた人々(日・韓)がずっと昔からの知り合いだったかと錯覚するほど親しく暖かく感じられたことです。納骨堂での清掃ボランティアは、天候に恵まれ、心地よい汗をかくことができました。追悼祭、昼食会でのふるまいの笑顔・・・。納骨堂から見るまわりの景色は、日本の地方のどこにでもある景色のようでした。3日間はあっという間に過
ぎ去り、もりだくさんの初めて経験する貴重なものばかりでした(緊張の中の38度線、キムチづくり、あかすり等々)。また、韓国人の情けの深さ、明るさ、若者のエネルギッシュさにもふれることが出来たことに感謝します。自分の勉強不足を反省すると共に、もう一度機会があれば、訪れたいと思います。有難うございました。金景錫さんのご健康とご活躍をお祈りしています。
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38度線が通る春川 |
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