2002年9月11日

原告・羅鐵雄(ナ・チョルウン)さんを囲んで


 

空白を埋める父の同僚との出会い

 
 9月11日、第3回公判終了後、「原告・羅さんを囲む集い」を開催しました。会場には、羅さんの父と同じ体験を余儀なくされた李鶴来(イ・ハンネ)さん、兪東祚(ユ・トムチョウ)さんが駆けつけてくれ、羅さんが知ることのなかった空白の部分が明らかにされました。12日には、父・三祚(サムチョウ)さんが収容されていた巣鴨プリズン跡地を同僚の案内で訪ねました。


 

「戦犯者」にさせられた羅鐵雄さんの父

 父は、羅さんが3歳のときに徴用。解放後も父は帰ってこず、母は教会の手伝いをしてわずかな収入を得て暮らしました。父は、羅さんが21歳のときに帰ってきました。死んでいたと思っていた父の突然の帰国は、言葉では表せないほどの感激でした。「BC級戦犯者」として「有罪」判決を受け、刑務所生活を余儀なくされた父は手ぶらでは帰れないと思い、釈放後もすぐには帰国できなかったのです。その父も生活は苦しく、1982年に他界しました。

一緒に徴用された仲間

 駆けつけた仲間の一人・兪さんは、羅三祚さんと一緒に徴用され、俘虜収容所に配置され、「戦犯」の汚名を着せられ、チャンギー刑務所から巣鴨プリズンに移された同僚です。1942年に俘虜収容所の監視員(いわゆる、コウリアン・ガード)として徴用され、解放後も祖国には帰れず125名が有期刑を受け巣鴨プリズンに収監されました。直属上司の日本人将校は、裁判が始まる前は「責任は全て私にある」と言っていたのに、裁判では「私には全く責任はない。部下がやったこと」と責任を転嫁。「無茶苦茶だよ」と兪さん。

みんなで要求して闘う

 李さんは語ります。「巣鴨プリズンでは、@差別待遇の撤廃 A即時釈放 B釈放後の受け入れ体制の補償を要求。仮釈放となっても仕事もなければ蓄えもない。日本政府からの何の手当てもない。日本人には手厚い保護があるにもかかわらず、我々には何もない。闘わざるを得なかった。仲間で「同進会」を作り、相互に助け合った。日本人篤志家の援助でタクシー会社を始め、何とか生活できるまでになった。日本政府には35年にわたり謝罪と補償を求めてきた。裁判では8年間闘った。しかし、何も解決していない。今、立法化を求めている。 
 

応援しています!!  同進会 会長  李鶴来(イ・ハンネ)

 
 

李鶴来さん(左)と兪東祚さん(右)

 

 グングン裁判の第3回公判に原告として羅鐵雄さんが来日されました。昨年来日されたときもお会いしたのですが、ゆっくり話す時間がありませんでした。今回はゆっくり話しをすることができました。羅さんの父親・羅三祚さんは私たちの同僚で、同じ巣鴨プリズンで苦労した仲間です。力が強いので「羅将軍」と呼ばれていました。
 私たちは、日本軍軍属として強制的に徴用され、3000余名が俘虜収容所の監視員として配属され、解放後も、日本軍の責任の肩代わりをさせられ、「捕虜虐待」などの責任を負わされ、刑務所生活を余儀なくされたのです。148名の朝鮮人「戦犯」のうち23名は死刑となり、残る125名は終身刑などの懲役刑を受けました。こんな非道な、条理を逸したことはありません。
 恩赦により釈放されてからも苦労の連続でした。仮釈放されても仕事もないのです。勿論、日本人のように恩給などもありません。日本人の篤志家の援助でタクシー会社を始めることができましたが、「戦犯タクシー」とも呼ばれました。1956年頃から、謝罪と国家補償を求め、35年にわたり日本政府に要請をし、また、8年間にわたって裁判を行なってきました。しかし、日本政府は全く応えず、司法の判断は「立法化」を促す付言判決というものでした。

 

父の話で涙ぐむ羅鐵雄さん

 

 いま、裁判の支援会は、「韓国・朝鮮人『BC級戦犯者』の補償立法をすすめる会」に改組し、法案を作り、国会議員などに働きかけ、立法化を求めて運動をすすめています。羅さんは、新たに提訴しましたが、大変だろうと思います。しかし、私たちは全面的にバックアップをします。支援する会の皆さんも大変でしょうが頑張ってください。