2001年7月28日〜30日

沖縄・読谷全交(平和と民主主義をめざす全国交歓会)〜権水清さん念願の供養を実現


 沖縄県読谷村で開催された第31回全交に、GUNGUN裁判原告の権水清さんとともに参加しました。

 原告の一人、権水清(クォン・スチョン)さんのお父さんは、徴兵されたまま何の連絡もなく、お母さんは心労の余り火病(ファビョン)で亡くなられました。厚生省への調査要請でも生死不明と記録があるのみで家族への連絡は、一切なかったということです。除籍謄本には1948年に死亡して、1967年に死亡申告をしたと、覚えのない記録が残っています。その後、お父さんと共に徴用された人の話から、沖縄で隊が配置された洞窟に行く途中に爆弾が落ちて死亡したことが知らされました。(権水清さんの陳述書)
 全交で権さんは、「私は皆さんにお願いがあります。父の正確な生死確認と父の遺骨を探してください。遠く離れたここ沖縄から故郷に帰れないでいる父を思うと胸が締め付けられます。日本が起こした侵略戦争によって隣の国の韓国人がどれほど苦痛に満ちた歳月を送らなければならなかったか、また今もその苦痛が消えない状態だということを皆さんに知ってほしいのです。ただ私が死ぬ前に父母の霊魂を慰労できることを望むのみです。」と話されました。お父さんの供養をしたいと初めて沖縄の地を訪ねたのです。
 南部戦跡・ガラビガマから平和の礎とフィールドワークをした後、韓国人犠牲者慰霊塔の前で参加者40名全員で権水清さんのお父さんの供養をしました。バスから持ち出された箱の中から、供養物が次々と取り出され並べられていきました。りんごや瓜等の果物類、韓国のおもちや菓子も数種類と、碑の前が色とりどりの供養物でいっぱいになりました。お父さんの記録書には黒いリボンがかけられ、葬儀の装束に身を改められた権水清さんは お酒を供え、地面に額ずく韓国式のお参りをされました。参加者も続いて同様にお参りをしました。供養まではたんたんと準備をし、お参りをしていた権水清さんが、記念写真を取り終えるや堰を切ったように嗚咽されました。参加者に肩を抱かれしばらく碑の前で立ち尽くしていました。後に「思いを遂げることができてよかった」という言葉を聞き、胸をなでおろしました。権さんの深い悲しみに触れ、いまだに生死確認もしない、遺骨も放置したままの日本政府に怒りを新たにしました。一日も早く原告の思いが遂げられるように取組んでいきたいと思いました。(木村)