2001年3月20日
舞鶴「浮島丸」フィールドワーク
舞鶴市役所を出発した私たちは、リ・ビョンマンさんの案内で浮島丸殉難者追悼の碑に連れていっていただきました。
大浦半島の下佐波賀という静かな入り江にその像は立っていました。チマ・チョゴリを着た女性がぐったりとしている赤ん坊を抱き海の方を見つめて立っています。その傍らには横たわり空を仰ぐ男性や、口を固く結んだ男性が座しています。解放された祖国で生活を始める喜びを胸に、帰国する人々の夢が無惨にも打ち砕かれた無念さが伝わる群像です。
黙祷の後、リさんから当時の状況など説明していただきました。「女性が見ている方向に小島が二つあるでしょう。右側の島のすぐそばが沈没した現場なのです」。見ると海岸線からわずか三百メートルぐらいのところです。地元の人々が重油の海の中を小舟で何回も往復して救助活動されたにもかかわらず、戦後海難史上二番目という犠牲者を生じたということです(政府発表では、朝鮮人524人、日本人乗組員25人)。水深が浅いので、浮島丸は沈没後もマストを突き出していたといいます。びっくりしたのは、スクラップとして売却される1954年まで海中に放置されていたということです。
爆発の原因などの調査を事故直後に行っていないので真相を明らかにすることは、今となっては非常に困難ですが、サルベージの時に船体にあいた穴が外側にむかっていたことが目撃されているので、機雷に触れたとする原因説は事実と矛盾するとリさんは指摘されました。
犠牲者のうちまだ引き取られていない遺骨280体が東京目黒の佑天寺に祀られているそうです。現在、厚生省が遺骨を引き取った人には30万円出すと言っているらしいですが、真相究明をしなかったことへの謝罪なしに、いや、それ以前に植民地支配したことへの真摯な反省を朝鮮半島の人々に伝えること抜きに、金銭で解決することは許せないことだと感じました。
昼食後は、舞鶴海上自衛隊基地を見学に行きました。「愛される自衛隊」を目指してか、この基地は毎日曜ごとに市民に公開しているそうです。私たちは、「たかつき」という護衛艦に乗船しました。実際に、「一月には日本海で演習してきました。」とか「ハワイで米軍との共同演習をやっています。」と、柔和な表情で若い隊員が説明してくれましたが、装備しているミサイルが実際に使われないことを願わずにはいられませんでした。
今、舞鶴は新しくヘリポート基地建設の真ただ中だそうです。浮島丸や戦争被害者が数多く立ち寄り過ごしたこの町の歴史には、新たな戦争への準備に足を踏み出す動きは、似つかわしくない思いを感じました。(大幸)