李英燦(イ・ヨンチャン)さんの陳述書より
私は1936年12月5日に、京畿道ヤンピョン郡で生まれました。の父親は1男2女中、長男として、家庭内では家長としての重責を受け持っていました。本人と共に祖母、父、母、弟二人が一緒に住んでいました。父は商売をしていて、バスを所有していたので、中産層の生活をしていました。
正確な時期を記憶していないが、43年度の末頃に父が徴用に行く時、警察署の前でトラックに乗って行く姿を今でも記憶しています。祖母と母が離れていく父を見ながら、名前を呼び涙を流していた姿を記憶しています。祖母は「必ず生きて帰ってこなければならないよ」とずっと言い続けており、幼い時ながら、死にに行くんだなという感じがしました。面から一緒に行った方達が、トラック一台分の20数名ほどになると思います。
父が徴用に行った後、手紙往来も少しあり、日本から毛布と靴を送ってきたのを記憶しています。父が買って、直接送ってくれたものと思います。
ある日、学校に行く途中で父の同僚が来て知らせてくれ、父の遺骸がきたという事を聞いて行ってみると、白い箱を抱いて涙を流しながら家に帰っていった事を記憶しています。それ以後に家族達が父の遺骸をどのように処理したのかは分りません。以後、正式に日本政府から死亡通知所を受取った事実はありません。
祖母はいつも父を懐かしがりながら生活し、1960年代に鬱積した状態で死にました。母は本人が幼かった頃に再婚し、本人と弟達を面倒見る人がいなくて、新聞配達をしながら家族の生計を維持しなければなりませんでした。
勉強をしようという一念で夜間中学校に入り、韓国戦争が勃発して16歳で学徒兵に徴集され、参戦するようになりました。軍隊で足を負傷して名誉除隊してみると、弟達は離れ離れになって行方不明になってしまいました。うわさを頼りに弟達を探し出し、再び一緒に暮しました。軍隊でも勉強をするために、毛布をかぶって蝋燭を付け、涙を流しながら勉強もしました。
1974年12月に遺骨が送還されてきた時、再度父親の遺骨が戻ってきました。当時、釜山に安置しておき、今は天安の望郷のトンサンに安葬しました。2000年度8月に日本の厚生省から正確な死亡事実と未支給賃金の供託記録を確認しました。
本人の娘が在米韓国人と結婚して移民するようになり、本人も1989年度にアメリカに移住し、アメリカの市民権を取得して現在生活しています。
今でも両親がいないという悲しみも大きいが、弟達をちゃんと教育させてやれなかった事は今でも悔しくてなりません。ただ生き残るために稼がねばならなかったし、あまりにも困難な状況下であったために、弟達を面倒見きれなかったので、今でもその罪責感が残っています。家族を皆失って経験した苦痛、その苦々しい現実を、一体日本は知っているのか、家族の者皆を苦痛の状況に追いやった被害に対して日本は責任を感じているのかを追及していく考えです。
2001年6月
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