第9回口頭弁論 2003年11月20日 東京地裁


趙茂衍さん意見陳述
「未だにわが父を支配」「完全に解決するまで闘う」

父の形見の着物を羽織る趙茂衍さん

 11月20日、グングン裁判第9回口頭弁論が行われました。今回の裁判には、韓国から、原告・趙茂衍(チョ・ムヨン)さんが来日し、20日法廷で意見陳述を行い、翌日には靖国神社への申入れを行いました。


 趙茂衍さんのお父さん・趙南鉉(チョ・ナムヒョン)さんは、陸軍軍人として徴兵され、中国戦線に配備。厚生労働省の記録によると、最後には、1945年4月3日西部ニューギニア島ソロンで戦死したことになっています。45年4月3日というと、沖縄戦の始まっていた時であり、ニューギニア戦線での戦闘はすでにほとんど終結しており、戦闘による戦死というより、戦病死・餓死したものでないかと思われます。

戦地の父からの手紙
法廷で意見陳述

 前回提出した準備書面の確認、進行についての協議後、原告・趙茂衍さんが静かに、怒りを抑えた口調で意見陳述を行いました。
 「私は、この問題が完全に解決するときまで闘う覚悟ができています。色あせた写真に写る若い父の姿を見ながら、父の死によって家族が受けた苦しみの歳月を思い出し、すべての真相糾明が遂げられるまで私の余生を捧げ、努力していくつもりです」と決意を明らかに。また靖国合祀について、「父を死に追いやった戦犯者と一緒に軍国主義の象徴である靖国神社に、一方的に、家族の意思も聞かず、知らせることもしないで日本政府と靖国神社で勝手に合祀したということは、未だに我が民族を、そして私の父を支配していることを誇らしく思おうという野望にしか見えません。そのようなところに日本の小泉首相が公式的な参拝を強行したことは、息子として到底許すことのできないことです」と訴えました。

 

東京地裁前でビラを配る趙茂衍さん
靖国神社に申し入れ

 翌日は、趙さんのたっての希望で靖国神社へ。月例祭ということで、社務所門前での対応でしたが、申し入れを行いました。
 その後、靖国神社の展示の見学を誘いましたが、趙さんはきっぱりと拒否。軍国主義の象徴を見ることではなく、その呪縛から父を解いてほしいということなのでしょう。返還された遺骨を、母は「これは偽物だ」と拒否しました。靖国合祀の取り消しは一番の思いです。静かに語る口調にもかかわらず、その決意は確かに伝わるものでした。
 
 


陳述内容

 私は1940年7月18日、京畿道金浦郡陽東面登村里319番地で生まれました。祖父と祖 母、両親、2人のおじと4人のおばとの大家族で農業を営んで暮らしており、生活には特に 問題はありませんでした。

  両親は1938年に結婚し、父の趙南鉉はヨンドゥンポ・タンサンドン(ソウル市内)付近で日本人 の経営する「キョンソン無煙炭」という会社に入社して練炭搬出入の物量記録を担当する 記録員として在職していました。その当時、会社では父をはじめ相当数の朝鮮人労働者を 雇用していたといいます。そんなおり、1941年、父に召集令状が届きました。出発の前日、 ふだん仁徳のあった父だったので、近所の人たちが夜通し歓送会を開いてくれました。

  翌日、淡々としている祖父に見送られ、父は努めて明るい表情で親戚や村の人たちから あいさつを受けて発っていきました。父はヨンサン(ソウル市内)から満州を経て、中国 に駐在する陸軍2921部隊に配属されて訓練を受け、その間、ときどき封書やはがきで手紙 を送ってくれました。聞いたところによると、その後、父は南洋群島に出征したとのこと でした。

  1945年8月15日、光復(韓国の解放)後にも帰ってこなかった父を待ちながら祖父は 1947年に、祖母は1951年に病死しました。母は朝鮮戦争を経験しながら農作業を続ける など様々な苦労をして家族のために献身しました。また、家族が死んだり怪我を負ったり して、みながつらい日々を過ごさなくてはなりませんでした。

  1965年の日韓協定以後、新聞に戦死者名簿が発表されましたが、そこに父の名前があり ました。それから70年代に釜山の慰霊祭に参席したあと上京すると、ソウル市庁の社会課 から遺骨を取りにくるようにという内容の郵便物が届きました。その遺骨を京畿道の水原 市にある先祖の墓に誠意を込めて祭りました。のちに遺骨が偽物だという話を聞き、母は 墓地を破棄するようすすめました。しかし、私は父のお墓を眺めながら、ここに父の魂が 宿っているのだと信じて、努めて墓を守ろうとしましたが、再度、母から破棄するように との意見があり、また、実際には遺骨が偽物だという話をしばしば聞き、墓地を破棄しま した。

  それ以降、多くの被害者とともに活動をするようになり、生存者の証言で父が西部ニュ ーギニアまで引っ張られていき、そこで亡くなったということを知りました。そして、活 動を続けながら父に関する記録の確認作業に力を注いでき、供託金735円があるというこ とも1999年になってようやく確認しました。

  父について集めた記録を確認していたところ、さらに驚くべき事実に直面しました。戦 死者名簿によって戦死者が靖国神社に合祀されており、そのなかに父もいるということで す。いかなる意味があろうとも理解できない事実を記録によって確認することになったの です。私の父が、父を死に追いやった戦犯者と一緒に軍国主義の象徴である靖国神社に、 名誉ある死を遂げた人物として合祀されているとは考えただけでも身の毛がよだちます。 一方的に、家族の意思を聞かず、知らせることもしないで日本政府と靖国神社で勝手に合 祀したということは、いまだにわが民族を、そして私の父を支配していることを誇らしく 思おうとする野望にしか見えません。そのようなところに日本の小泉首相が靖国神社の儀 式にならって公式的な参拝を強行したことは、息子としてとうてい許すことができず、ま さに精神的な苦痛です。

  私にはこの問題が完全に解決するときまで闘う覚悟ができています。私がこのような覚 悟ができるよう力になってくれているのは父の遺品である手紙と写真です。色あせた写真 に写る若い父の姿を見ながら、父の死によって家族が受けた苦しみの歳月を思い出し、す べての真相糾明が成し遂げられるまで私の余生を捧げ、努力していくつもりです。

  おわりに、日本政府の真の良心を見守りたいと思います。

 2003年11月20日

 陳述人 趙茂衍