第4回口頭弁論 2002年10月23日 東京地裁


 

裁判所から「争点整理案」が出される

 10月23日午後4時30分より、グングン裁判の第4回口頭弁論が開催された。法廷では、裁判所から、「争点整理案」なるものが出された。そのなかで、裁判所は、原告側に被告が主張する“国家無答責”や“日韓協定に基づく措置により請求権消滅”についての反論や「安全配慮義務」の具体化を求めるとともに、被告・国に対しても「靖国神社に対する回答義務が憲法13条、20条2項、憲法前文に違反しないことを主張されたい」「(遺骨返還義務・死亡状況説明義務が被告にあるという原告の主張について)認否・反論を検討されたい」としている。
 口頭弁論の進行は、法的な面と事実的な立証との両面での原告・弁護団・支援する会一体となった取組みを強く要請している。252名の原告、原告の父らの被害の実相を日本の資料の中から明らかにしていかなければならない。一人でも多くの皆さんの協力が必要です。是非、ご協力を。
 

父の苦しみと家族の苦しみに“悪かった”と何故いえない!

「戦死通知すら来ない!」 李侖哉さん

 当日は、韓国から原告・李侖哉(イ・ヨンジェ)さんが来日し、法廷で陳述した。父親を海軍軍属として徴用され、中国東沙島沖で亡くした李侖哉さんは、「父の死について、日本政府からは何も通知がなかった。今、日本は、拉致問題で真相究明を連日主張している。しかし、日本は、拉致被害者の生死確認から遺骨の返還、賠償まで要求しながら、どうして私たち韓国人のこのような痛みに対して何故一言の言及もないのでしょうか。なんの措置も施さないでいるのでしょうか」と涙を浮かべて訴えた。李さんのお父さんは、海軍軍属として徴用され、1944年11月1日中国東沙島沖で戦死した。このことも、1999年に遺族会が厚生労働省に問合せはじめてわかったのだ。日本政府は、人道を口にするなら、自ら犯した非人道的行為をまず徹底的に明らかにし、全ての資料を公開し、心からの謝罪を行なうべきである。
 

原告 李侖哉さんの陳述書

 本人は1943年1月15日、京畿道インチョン府カジョン洞417番地で一人娘として生まれました。祖父母、伯父、父母、いとこ、父方のおばがともに暮らし、農業を営みながら生計を立てて暮し向きはよいほうだとのことでした。

 本人の父親が1941年に無理やり徴用された当時、本人の母は妊娠しており、本人が生まれて3か月後に父親が帰国し、何日か家にいたあと再び徴用されていったと聞いています。祖父が洞事務所の長をしていたので父の 徴用をさけることもできましたが強制的にかり出されていったという話を母から聞きました。

 その後、帰国途中、船が爆撃され死亡したとのことです。行動をともにされていた方が話してくれ、死亡者連名簿にも中国東沙島東南岸の海で死亡した記録があります。父の弟の話では、まわりに一緒に行った人の証言から、帰国しようと船を待っていたとき、トイレで用を足してしたためほかの人よりも遅い出発の船に乗ることになりました。はじめに出発した船は無事でしたが、父親が乗った船は撃沈され全滅したとのことです。この話も父の友人たちが、亡くなったあとに家族に話すと驚くかと心配して言い出せず、ずいぶん経ってから話してくれました。

 父が無理やり徴用されたあと父の弟に送った手紙が今でも保管されています。元気でいるから心配するなという内容でした。月給は送金されたことがなく、初めて帰国したとき持ってきた貯金通帳があります。また、亡くなったあとはどのようになったのかわかりません。

 父が徴用されたあと、戦死通知は受けたことがなく、死亡の知らせはともに徴用された方から聞きました。母は娘1人をソウルの中学校に通わせたいといって小学校6年のときにソウルに転校して生活することになり、母が知らない男性と暮らしているという事実を知りました。母が父を捨てたという事実に本人は行くのを拒みましたが、よくしてくれるからという母の説得にまずはソウルで生活することになりました。

 私が自分の娘ではないせいか、新しい父の虐待はひどいものでした。私がご飯を食べてもその姿がみっともないといって食べさせてくれず、学校に行こうとしてもかばんをかくして勉強できないようにしました。母は商売をしてお金を稼ぎ、クリーニング屋を開いておりましたが、新しい父がそのクリーニング屋で働いていたのであちこちからこっそりお金を使っていました。新しい父があまりにいじめるので、母ともしばしばけんかをするようになり、本人は学校が長い休みになるとは故郷に帰って過ごしておりました。

 新しい父からいじめられるたびに、帰らぬ人となった父のことを思って胸がいっぱいになり、休みの間、故郷に帰っても母が憎まれるかもしれないという心情から話を切り出すことができませんでした。幼いころから父親がやさしくて誠実な人で人望も厚かったという話を聞いていたので、新しい父を見ると悪魔のよう思えました。

 本人は母が私一人を産んで生きていってくれたらと考えていましたが、再婚して子どもを設けるとがらりと変わりました。新しい父は自分の娘に食べさせようと豚肉を調理すると、本人に見られないようこっそりかくれて実の娘と食べているところに本人が来ると「お前が来る前に食べようとしていたのにばれてしまった」と言ったことがあります。その言葉を聞いて帰って来ない父が恋しくなり、その気持ちは言葉に表せないものでした。

 学校から卒業証書を受け取ってもその場で破ってしまい、自宅から中学校まではかなり離れているのに交通費をくれず、1時間30分にもなる道のりを通いましたが最後まで学び続けました。新しい父は家の財産をつぶしたあと、結局父母は別れました。

 母は新しい父と正式に再婚しようとしましたが、父がいつ帰ってくるかわからない。が、子どもを捨ててはいけないといって戸籍も整理していませんでいた。そうしているうちに新しい父と母の間に娘が生まれても正式に戸籍に登載できませんでした。結局、おば夫婦の戸籍に娘として入れました。

 家の大人たちが祖父のお墓の前に祀堂(先祖の御霊屋)を設けようと言いましたが、本人はそれを望みませんでした。父の遺骨も帰っていなかったし、祭祀を執り行うこともできない状況で祀堂をつくるのは嫌でした。本人は位牌として近くの寺にまつって1か月に1回ずつ、「生きているなら早く帰ってきて、亡くなったのなら好きなところに行かれますように」と祈っておりました。

 韓国に国立「望郷の丘」というところがあります。そこは海外で犠牲になった方の遺骨が韓国に帰ってくると安らかに眠ることができるところです。父の遺骨が帰ってきたらそこにまつろうと思います。いまもその日を待っています。もし日本から遺骨が来たら、亡くなった日を基準にして祭祀を執り行うでしょうに、なんの知らせもないのでただ1か月に1回お寺に行って父を慰安するのみでした。たとえ遺骨がなかったとしても父の遺品や遺骨の代わりになるものならどんなものでもいい、帰ってきたら、適当な墓地に父のためのお墓をたてるつもりです。

 父についての正確な記録を探すために日本の厚生相に服務履歴書と供託金記録を調査するよう要請しました。父は海軍軍属として第103海軍施設部所属で勤務し、1944年11月1日に中国東沙島東南沖で死亡したと記録されており、供託金は5,828円が東京法務局に供託されています。遺骨の確認も要請しましたが遺骨は現在保管していないとのことでした。

 去る9日、日朝首脳会談で北朝鮮のキム・ジョンイル委員長が11人の拉致被害者に対する責任を素直に認め、死亡の場合と遺骨の存在可否についても明らかにしました。しかし日本国は自分の被害に対してはあんなに徹底して責任を追及し。真相を究明し、遺骨の有無についても調査をしながら、私たち父母が強制的に拉致されて戦争で日本国のために不憫にも若い命を捧げたのにもかかわらず、なぜ日本はただのひと言の言及もしないでいるのでしょう。そして、拉致被害者の生死確認から遺骨返還、賠償まで要求しながら、どうして韓国人のこのような痛みに対してなんの措置も施さないでいるのでしょうか。どうして父の生死、遺骨がないことを確認しておきながら悪かったのひと言もないのでしょうか。

 年若くして強制的に徴用されて味わわなくてはならなかった苦痛と、残された家族が過ごしてきた苦しみの歳月に対するなんの補償もなされていないまま今日に至っています。強制徴用され客地で 戦死していった父の苦しみと家族の苦しみに対して日韓両国政府から正当な補償がなされることを望んでいます。

2002年10月23日

 

李さんの父親が乗っていた船は「浅間丸」?!

厚生労働省で訴える李侖哉さん

 この日の口頭弁論の前に行なわれた厚生労働省での確認、そして、事前にお願いしていた「戦没船を記録する会」の調査で、李侖哉さんの父・李花燮さんは、徴用船「浅間丸」に乗船し、船と共に戦没した可能性が高いことが分かった。李花燮さんが死亡したとされる1944年11月頃、日本軍は連合軍のフィリピン上陸作戦に備え、台湾・満州等からフィリピンに兵員を輸送していた。「浅間丸」は台湾からマニラに兵員を輸送し、帰国する軍人軍属ら約1400人を乗せて帰国する途中、東沙島沖で11月1日魚雷により沈没し、多くの者が亡くなったのだ。すでに制空権も制海権も失った日本軍の無謀な作戦が李花燮さんを死に追いやったのだ。
 

次回口頭弁論は、1月22日

 次回口頭弁論は、1月22日午後4時から、722号法廷で行なわれることとなった。また、今、韓国人シベリア抑留者20数名を含む103名の二次提訴の準備を進めている。是非、皆さんのご協力をお願いします。