8.15の光復は57年という歳月が流れる間、36年間の植民統治に対する痛みもなくなりつつあるが、いまも第二次世界大戦の結末をつけられない痛みと衝撃のなかでもがいている人々も少なくない。代表的なのがまさに韓国人の戦犯とその家族たちである。
「韓国人が戦犯とはどういうことか?」といわれるほど彼らについてはよく知られていない。第二次世界大戦のときに日本軍や関係機関に身を置き捕虜虐待などの戦争犯罪に対する責任で戦犯隊列に立った韓国人は少なく見積もっても148名にもなる。そのうち敗戦当時日本軍第14方面軍兵站副総監だったホン・サイク中将ら23名が死刑を受け125名が懲役刑で生きることができたが、このうちごく少数の人たちが生存していることが確認されている。彼らはいまでも「日本のために働いて戦犯になった」という痛ましい頚木(くびき)を背負って生きているのに、日本では過去の歴史を忘れたかのように新軍国主義が台頭している。
彼らは私の父を奪っていった。私たちの家庭の幸福も奪っていった。父は私が3歳のとき(1942年)徴用されていき、私が21歳のとき18年ぶりに帰ってきた。本当に感激した。父の顔もわからないときに去り、青年になった私のもとに再び婦ってきたが、この間の歴史をどのように言葉で表現できようか? いまは亡き人となったが、父は若い時分に家族と離れ離れになり他国の上官の命令に従わなくてはならない状況で戦犯と呼ばれ、捕虜たちが受けた苦痛を逆に父が再び受けながら一日にビスケット何枚かで生き延びた。その人生はさぞかし大変だっただろう。父の青春も行き、私の青春もみな行ってしまった。
ワールドカップのときに私は見た。日本の国民が私たちの4強を祝ってくれ太極旗を振りながら声援を送ってくれるのを…。
多くの歳月が流れた。ワールドカップのとき日本と私たちが互いのために拍手をおくっていた…そんな雰囲気を現実のなかに引き継いでいくことを私は祈っている。
私が3歳の時に父が徴用されました。当時、父・母・兄・兄・私の5人家族で、父は慶尚北道のチルゴク・ウェガン変電所に勤務していて、生活は苦しかったそうです。
徴用され、慶州から釜山へ行き、インドネシア、スマトラ、ジャワヘ連れて行かれ、そこで英国人捕虜収容所で勤務しました。終戦と同時に収容所の中と外とが逆転し、父は収容所に入れられました。
BC級戦犯として10年の刑を受け、東京巣鴨刑務所で1945年から1955年まで10年もの間、収監されました。刑期満了で釈放されましたが、病弱になり、1982年韓国の慶尚北道漆谷郡で亡くなりました。
一方、徴用後残された家族の生活は、言葉では言い表せないほど悲惨なものでした。
父が韓国を出発する際には、月給の金額が決められていたのに、実際にはもらうことなどとんでもなく、死ぬほどの苦労をして帰ってきました。
強制的に徴用された挙句、終戦後も10年聞、人生の大切な時期に刑務所に入れられた苦痛に対する補償と、未払い給与の返還を要求します。
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