第3回口頭弁論 2002年9月11日 東京地裁



「BC級戦犯者」遺族を迎え、第3回公判!

矛盾だらけの国側答弁

  9月11日(水)午前11時30分より、第3回口頭弁論が行なわれました。口頭弁論そのものは短時間で終わったものの、靖国問題が重要な争点に浮かび上がった口頭弁論でした。
 まず、最初に、すでに提出されている原告の準備書面V(国の靖国合祀への協力)、被告の準備書面U(上記原告準備書面への答弁)を確認し、前公判で裁判所より提出の通知のあった書証が確認されました。
 原告準備書面Vは、1956年厚生省引揚援護局長名で出した「靖国合祀事務に対する協力について」通達などを具体的にあげて、靖国合祀が靖国神社と国が一体となって行ってきたことを明らかにしました。これに対して、被告・国は、下記のように、「靖国合祀事務に対する協力」を通知しながらも、これは援護行政のためで靖国合祀ではないと矛盾した答弁をしています。
 公判は急ピッチで進んでいます。


靖国合祀をめぐる原告及び被告の準備書面(抜粋)

原告 準備書面V

被告 準備書面U

「(1956年合祀協力通知の別冊第一)第4項は、事務要領の大綱について定め、その3においては、靖国神社は引揚援護局から回付された戦没者カード(祭神名票)によって『合祀者を決定し』『合祀の祭典を執行する』と規定されており、日本国と靖国神社とが一体となって合祀を進め、あるいはむしろ日本国が主導して戦後の靖国合祀を行なっている事実が明らかになっているのである。

 「別冊第一 靖国神社合祀事務協力要綱の内容」に原告らが指摘する記載があることは認めるが、「日本国と靖国神社が一体となって合祀を進め、あるいはむしろ日本国が主導して戦後の靖国合祀を行なっている」とする部分については否認ないし争う。
 旧厚生省(引揚援護局)は、靖国神社から戦没者の氏名等の照会を受けた際には、一般的な調査・回答業務としてこれに対して回答していたが、合祀の決定及び実施は、靖国神社の判断である。

「第6項では、合祀事務協力に係る『経費は、国庫負担とする』と銘記されており、靖国合祀のための経費は日本国が負担するということが明らかになっている。」

「靖国合祀のための事務経費は日本国が負担する」とする部分は否認ないし争う。

 

 

羅鐵雄(ナ・チョルウン)さんの陳述内容

 8.15の光復は57年という歳月が流れる間、36年間の植民統治に対する痛みもなくなりつつあるが、いまも第二次世界大戦の結末をつけられない痛みと衝撃のなかでもがいている人々も少なくない。代表的なのがまさに韓国人の戦犯とその家族たちである。
 「韓国人が戦犯とはどういうことか?」といわれるほど彼らについてはよく知られていない。第二次世界大戦のときに日本軍や関係機関に身を置き捕虜虐待などの戦争犯罪に対する責任で戦犯隊列に立った韓国人は少なく見積もっても148名にもなる。そのうち敗戦当時日本軍第14方面軍兵站副総監だったホン・サイク中将ら23名が死刑を受け125名が懲役刑で生きることができたが、このうちごく少数の人たちが生存していることが確認されている。彼らはいまでも「日本のために働いて戦犯になった」という痛ましい頚木(くびき)を背負って生きているのに、日本では過去の歴史を忘れたかのように新軍国主義が台頭している。
 彼らは私の父を奪っていった。私たちの家庭の幸福も奪っていった。父は私が3歳のとき(1942年)徴用されていき、私が21歳のとき18年ぶりに帰ってきた。本当に感激した。父の顔もわからないときに去り、青年になった私のもとに再び婦ってきたが、この間の歴史をどのように言葉で表現できようか? いまは亡き人となったが、父は若い時分に家族と離れ離れになり他国の上官の命令に従わなくてはならない状況で戦犯と呼ばれ、捕虜たちが受けた苦痛を逆に父が再び受けながら一日にビスケット何枚かで生き延びた。その人生はさぞかし大変だっただろう。父の青春も行き、私の青春もみな行ってしまった。
 ワールドカップのときに私は見た。日本の国民が私たちの4強を祝ってくれ太極旗を振りながら声援を送ってくれるのを…。
 多くの歳月が流れた。ワールドカップのとき日本と私たちが互いのために拍手をおくっていた…そんな雰囲気を現実のなかに引き継いでいくことを私は祈っている。
 

提訴時の陳述

  私が3歳の時に父が徴用されました。当時、父・母・兄・兄・私の5人家族で、父は慶尚北道のチルゴク・ウェガン変電所に勤務していて、生活は苦しかったそうです。
 徴用され、慶州から釜山へ行き、インドネシア、スマトラ、ジャワヘ連れて行かれ、そこで英国人捕虜収容所で勤務しました。終戦と同時に収容所の中と外とが逆転し、父は収容所に入れられました。
 BC級戦犯として10年の刑を受け、東京巣鴨刑務所で1945年から1955年まで10年もの間、収監されました。刑期満了で釈放されましたが、病弱になり、1982年韓国の慶尚北道漆谷郡で亡くなりました。
 一方、徴用後残された家族の生活は、言葉では言い表せないほど悲惨なものでした。
 父が韓国を出発する際には、月給の金額が決められていたのに、実際にはもらうことなどとんでもなく、死ぬほどの苦労をして帰ってきました。
 強制的に徴用された挙句、終戦後も10年聞、人生の大切な時期に刑務所に入れられた苦痛に対する補償と、未払い給与の返還を要求します。