第11回口頭弁論 2004年2月18日 東京地裁。
金福漢(キム・ボクハン)さんが来日・意見陳述
無謀な作戦による安全配慮義務違反を書面で立証
2月18日、第11回口頭弁論が行われました。法廷では、GUNGUN側が「安全配慮義務に関する準備書面」と、遺骨返還に関する13点の資料を書証として提出しました。準備書面では、戦況の悪化にも関わらず無謀な作戦を続行して無駄な戦死を強いたことを立証。今後安全配慮義務違反として追及していきます。書証は、遺骨問題に関する新聞記事と厚生労働省のホームページで構成。韓国の篤志家が韓国内の世論を敵にしながらも日本人の遺骨を保管し返還した記事。HPは現在も日本人に対しては手厚い遺骨収集作業を続け、DNA鑑定までしている事実を裏付けています。
そして最後に、金福漢さんが意見陳述を行いました。1945年という戦争末期に徴兵によって中国戦線に送り込まれた金さん。飢えや空襲を生き延びましたが、戦後未払い賃金が供託され、軍事郵便貯金が放置されていることを知ったのは、2000年に入ってからのこと。戦後処理の理不尽さを切々と訴えました。
次回(第12回)は、4月14日(水)13時10分開始です。法律144号が憲法に違反していることを立証する学者の鑑定意見書を提出する予定です。また次々回より本格的な証拠調べ(証人尋問)に入っていきます。ぜひ傍聴参加をお願いします。
金福漢さんの言葉 |
内閣府に要請
証拠を手に内閣府で要請する金福漢さん |
口頭弁論の前に内閣府に要請を行い、「裁判で原告が問題にしている点は、全て戦後現在の憲法下で日本が行った戦後処理である。日韓協定で解決済みというが、協定を結ぶ前に未払い金を返そうと努力したことがあったのか?原告が生きているうちに解決を」「韓国内で先日、日韓条約時の文書について公開を命じる判決があった。こういう未払い金の存在を隠して経済協力で決着した舞台裏が明らかにされる。かつて外務事務次官をつとめた須之部量三氏が「日韓条約は財政的に苦しい、十分に補償できない時に結んだ条約であって、補償が可能になった今、もう一度きちんと補償する議論も必要だ」と言っている。(別掲)解決済みなどとんでもない」と要請 。内閣府の担当者は要請の内容を伝えると約束しました。
須之部量三(外務事務次官)氏の発言(『外交フォーラム』1992年2月号) |
金福漢さんの示した資料に |
金福漢さんの資料から「読み取る」
・「特金第5号」:1951年のサンフランシスコ条約締結を踏まえて、GHQが未払い給与の供託を指示。政令22号に基づいて軍人軍属の債務を供託。「特」は政令22号に基づくという意味と思われる。
・「昭和20年12月30日現地召集解除」:金さんの話では8月15日以降は連合国(米)軍の管理下にあったはずなので、日本軍による給与の支給計算解除を12月にしたという意味と推察される。
・「権利は消滅することとなっています」:「消滅しています」と言わずに、責任を回避する言い方であり、郵政事業庁としての後ろめたさの表れ。
無謀な作戦・中国戦線とは?(藤原彰著『餓死した英霊たち』より)
そしてその中に投入された金福漢さん
軍医だった長尾中佐の著書『戦争と栄養』によれば、「華中大作戦」の「SK作戦」は「1号作戦」と名づけられた湘桂作戦、いわゆる大陸打通(縦断)作戦で、「酷熱多湿なるうえ敵機の跳梁、道路の破壊等により補給は予定の如く行われず、敵味方の大軍により現地物資は消費し尽くされ、将兵の疲労言語に絶するものがあった」とし、44年5月から11月までの6ヶ月で戦死1万2千、戦傷2万2千に対し、戦病6万7千を出し、戦病による死亡率は著しく高かったとされる。230万人軍人軍属戦死者の2割にあたる45万人が中国戦線で死亡しているが、その大半は戦死ではなく、飢餓や栄養失調によって赤痢、マラリア等の伝染病になって死に至った「戦病死」だったのである。
「1号作戦」とは、黄河を渡り京漢線を打通し信陽まで400キロ、さらに湘桂線を打通して仏印(ベトナム)まで1400キロに及ぶ長大な区間に16個師団、50万の大軍を動かした、日本陸軍始まって以来の大作戦であった。しかしこの作戦は「兵站」「補給」を軽視した、重大な欠陥作戦であった。その結果が上記の戦病死を生み、「現地徴発」によって南京大虐殺や多くの中国人民への殺戮が引き起こしたのである。
太平洋方面の戦局が危機的状況に陥っている段階で、これだけの莫大な兵力と軍事物資、そして犠牲を払った作戦目的は二転三転している。当初は中国軍に徹底的打撃を与え、本拠地重慶を攻略すること、中国大陸を縦断し海上交通に代わってシンガポールに至る陸路連絡を確保すること、中国奥地にある米軍基地を占領して空襲の危険を避けることなどが挙げられていたが、最終的には最後の目的一点に絞られた。特に44年6月のサイパン陥落以降は、太平洋地域に米軍基地が整備され、作戦の意義は完全に失われた。しかし陸軍はそれ以降も湘桂作戦を中止しなかったのである。
金福漢さんの徴用は45年1月という戦争末期。連れて行かれた新郷、開封は、1号作戦の当初の目標である北京と信陽の中間地点にあたる。金さんの話によれば部隊約90人の9割が朝鮮人だったという。消耗戦だった中国戦線の補充に朝鮮人が充てられたのである。給与は一切なく、軍事郵便貯金に回された。タバコの支給はあったので、現金化し、週に一度の外出の際に使った。新郷近くにある朝鮮人の家でご馳走になったこともある。8月15日の解放後は連合国軍の指揮下に入り、日本兵とは別に収容された。
2000年代に入ってから日本政府(厚生省・郵政事業庁)への照会をし、その回答で初めて未払い給与354円が52年に供託され、460円50銭の軍事郵便貯金がそのまま保管されていることを知った。しかしいずれも「日韓請求権協定」と国内法により権利が消滅したという。