「韓国・朝鮮の遺族とともに 遺骨問題の解決を!
第3回証言集会」(2010年10月7日〜11日)のために来日された遺族の方々のうち、関西集会に参加された3人の遺族の証言を掲載します。 |
証言者:ナム・ヨンジュ(南英珠 1939年生まれ)
犠牲者:ナム・テヒョン(南大鉉 1923年生まれ) 徴兵(軍人)
裕福な環境で育った幼少期
私は1939年2月24日に慶尚南道宣寧郡正谷面上黄里で3男4女の末っ子に生まれました。上の兄2人ははしかで幼い頃に死んだといいます。幼い頃住んでいた洞内は南氏が百余家集まって住む南氏の村でした。私たちは8代宗家で家勢が相当だったため、洞内で私たちの土地を踏まずには通れないという言葉があるほどでした。
家は農業をしていましたが、下人がいて実際に家族が仕事をすることはありませんでした。祖父は漢学をして洞内の書堂の訓長をしていましたが、非常に厳しく、父が外に出る時、入ってくる時はいつも庭で祖父に礼をして通っていた記憶があります。
祖父がもともと漢学を重視し、また直接書堂で漢学を教えたので、孫たちを神学校へ送ろうとはしませんでした。しかし、父が祖父に内緒で子供たちを学校に行かせて祖父に見つかり怒鳴られたりもしました。兄は8代宗家の宗孫の一人息子として家門になくてはならない責任を負った息子でした。
徴兵に引かれて行った兄
1942年慶南宣寧郡で徴兵に引かれて行った上の兄は、私より16才上で当時の年齢は20才でした。兄2人が死んで家に男が貴重だったため、事実上、上の兄しかいませんでした。それで引かれて行く前に急いで妻を娶らせましたが孫を見ることはできませんでした。義理の姉は1950年まで我が家に住みましたが、その後、実家に送りかえされたといいます。
父は本当に情が深く優しい人でした。解放になっても兄は消息がつかめず、死亡通知書も受けることができませんでした。後になって戸籍をみたところ兄の死亡申告がなされているのでどうしたことかと尋ねたところ、父が「若い嫁をそのまま年をとらせるのが申し訳なくて」義理の姉を実家に送ろうと、生死の分からない兄を家で死亡したものとして死亡申告を父が自らしたといいます。
昔住んでいた家は非常に大きかったのですが、上の兄が床に腰を下ろして手風琴を演奏していた姿を思い出します。晋州で高等学校まで通った上の兄は人事な息子だったため、徴兵に行く前まで学校の勉強のほかには望むことを全てしてあげたという話を開いたことがあります。
兄は高等学校を卒業してすぐに徴兵に引かれて行きましたが、洞内の友人2人と一緒に出て行きました。その日は徴集されていく3人を歓送するために洞中が壮行旗で覆い尽くされていました。大事な息子が戦場に引かれて行くので母は病床に就き、家は皆で大騒ぎとなりました。姉たちと私は幼かったのですが、とても恐ろしくてどうすることもできず、静かに過ごしていたことを思い出します。
徴兵で長孫を奪われた家族の悲しみ
大事な孫を死地と変わらない戦場に送り出した問題のために、その後も息子を守ることが出来なかった父は祖父や周辺大人たちから何度も侮辱を受け、罪人のように過ごしました。自分の子供を戦場に送り出した父の心も心でしょうが、家の立場では一人息子の長孫がいなくなったという大きな問題があったためです。その後、兄から南洋群島にいるという手紙が何度かきたといいますが、朝鮮戦争中に家が焼けて手紙はなくなってしまい、今は兄の写真1枚だけが残っています。
兄が引かれて行った後に、父と母、双子の姉と私だけ、邑内で小さな商店をしながら住んだことがあります。兄が徴兵に出て行き病床に就いていた母は、解放後に一緒に引かれて行った2人が帰ってきた後も兄が帰ってこないと、結局食事も出来ずに病み、1946年頃に亡くなりました。
その当時、私が学校から帰ってくると母は台所に行って酒を持ってこいと言い、酒が何かも分からなかった私は母がさせる通りに持って行ったりしました。兄を失った悲しみを酒だけに頼って生きていたようです。後に大きくなってから考えてみると、酒が毒薬とも知らずに持って行ったのだなという気がしたりします。分別なく酒の手伝いをしたことを考えると不孝な子供だったなと後悔します。
父は兄の消息をつかむために、どこの誰が軍隊に行って帰ってきたという消息を聞けば、噂をたよりに探して烈日もかまわず尋ね歩きました。密陽などの遠く離れた所まで車に乗って行き、何日もいてから帰ってきたりしました。どの家でも大事な子息でしょうが、今考えても少しやりすぎのように思えるほど、大変苦労して兄の消息を探してまわりました。
結局、父もいくらも経たずに火病で亡くなり、私が嫁ぐ頃には家勢はほとんど傾いて残っていないほどでした。
結局、祖父、父、母、皆が兄の消急を聞けずに亡くなりました。
私は何よりも母が亡くなったのが心に残っています。兄も無念ですし、父、祖父も残念ですが、母なしで幼少期を過ごした記憶が非常に胸に痛く、時には私が守ってあげられなかったから母が亡くなったのだと考えたりもしました。
兄の記録を探して
姉と私はその後たった1人の兄の生死でも確認して、母、父の恨をはらしてあげようと兄の消息を探し始めました。そうして被害者団体を知るようになり、2003年5月には韓国政府記録保存所で兄についての記録を探すことができました。記録によれば、兄は南洋群島へ徴集されて1944年8月10日に「ヤカムル」という所で銃に撃たれて亡くなったことになっています。
しかし、衝撃的な事実は兄が現在の靖国神社に合祀されているということでした。死亡した場所と記録を日本は保管していながらも家族に知らせず、うちの兄の南大鉱は家で死亡したものと戸籍整理をしました。
2006年12月、日本厚生労働省に兄の記録を照会したところ、2007年1月30日付の回答に兄の所属部隊と徴兵日、戦死日、供託金額などが書かれた記録を送ってきました。そして遺骨記録はないとしました。
このように記録が堂々とあるにも関わらずに知らされず、祖父、祖母、父、母、私たちの家族は、兄の生死も分からないまま義理の姉の立場を考えて死亡中告をして火病(心気症)で亡くなったのです。日本はうちの兄の死で私たちの家族皆を死なせたのです。日本でなかったならば私たちの家族は幸せに暮らしたはずなのに、兄が徴用に行って帰って来ず、我が家は根元から揺さぶられました。このような日本をどうして許すことができるでしょうか。そのことを考えると息をすることもできないです。
軍国主義の象徴であり、侵略戦争を正当化して美化するための手段として存在している靖国神社に、兄が合祀されているという事実は本当に衝撃的でとうていあり得ないことです。死亡通知も受けることができずに、祖父、父、母、皆がこのように苦労して亡くなったのに、靖国合祀も家族に知らせずに勝手にしたことは私たち遺族を欺瞞することとしか考えられません。そのような靖国神社を参拝する日本の政治家を見る度に非常に不快です。
兄の遺骨を探して恨を抱いて亡くなった両親の墓の前に碑石の1つでも建てたいです。すぐに遺骨をみつけることは難しくても、靖国神社から兄の名前を除いて1日でも早く兄の魂だけでも強制合祀された靖国神社から自由になってくれればと願います。そして、遺骨がなぜないのか、調査はしてみたのか、日本に訊ねたいです。もう日本政府は自分たちの勝手にではなく、日本のせいで家族を失つた遺族たちの声に真摯な行動で良心ある返事をしなければなければならないと思います。
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証言者:カン・ジョンホ(姜宗豪 1941年生まれ) 息子
犠牲者:カン・テヒュ(姜太休 1923年生まれ) 海軍軍属(推定)
強制動員された父
私の父は1923年6月25日に全羅南道南済州郡中文面下貌里で生まれました。祖父は農業をしていましたが、暮らし向きが難しかったため父は漁夫生活をしました。兄弟は弟3人と妹2人がおり、父は長男でした。
本家に,息子がいなかつたため、父は1940年2月に本家の養子に入りました。そして、まもなく伯父が亡くなり、父が本家の戸主となりました。言わば宗家の一人息子となったのです。しかし、相変らず生活が苦しかったため、父は家で生活する時間よりも船に乗って他の地にいる日のほうが多かったです。父が宗家の子孫であったため、19才になった年に21才の母と婚姻したといいます。母は済州市の人で、父とは見合いで出会いました。
私は1941年5月30日に済州市にある母の実家で生まれました。父は船員生活をしていたので、私が生まれるのを見ることができなかったといいます。父は家に立ち寄ることもできず、便りもなく、すぐに徴用に引かれて行ったので、おそらく私が生まれたことも知らなかったと思います。
しかし、後に父が徴用に引かれてきたという便りを送ったのか、母は家の大人たちの忠告を聞いては毎日祈祷を捧げたといいます。毎日ご飯を供えて朝夕に祈祷を捧げたのですが、私の祖父がそれを見てはひどく怒ったといいます。祖父は「生き返ってくるはずなのになぜそのようにするのか、すでに死んだ人として扱うのか」と怒り、家の大人と母は「もしかすると飢えているかもしれないのでこのようにでもして祈るのだ」と言い、家の中に争いが起きたといいます。
祖父は嫁に「お前が4代の一人息子を殺そうと、すでに死んだ人扱いする」と言い、母を追い出すようにしたといいます。後に大人たらの話では、その時家にも色々な事情があり、また独り残った母を配慮したことという話を聞いたこともあります。
結局、私が5才位になった時に母は済州市にある実家に行くことになったのですが、私は家の大事な宗家の子孫だから絶対連れて行くことができないといい、その時母と別れることになりました。私は母と別れるのが嫌で大声を出して何日間も話をできないほど泣いたことを思い出します。その後、母は再婚をしました。
家と関係が良くない状態で母が最後まで息子一人を信じてともに耐え忍んで生きていなければならないと言うことはできないですが、心の底から母に対するさびしさや憎しみが浮かぶのはやむを得ません。
日帝植民地支配が産んだもう一つの犠牲
そのようにして私は祖父母の手で育ちました。しかし、私が8才になった1948年に済州道に「4・3事件」が起こりました。「4・3事件」は解放後の韓国内部の問題から生じたものですが、実際、理念の葛藤や米軍政の占領状況など、根本的な原因は日本の植民支配が残した影響のせいであると思います。死んで殺す「4・3事件」が進行する渦中で、行政力や警察力が正常に作動しなかったため、無念に死んだ人が非常に多かったのです。
私たちの家族も直接的な被害にあいました。当時は戸籍上に出ている青壮年が家にいなければならないのですが、確認していなければ「左翼」と追われて被害にあいました。うちの父は日帝時代に徴用に引かれて行って帰ってこなかったため、すでに村にいることはできなかったです。しかし、徴用書類や死亡通知書のようなものがなく、日帝時に強制徴用に行ったことを証明することができませんでした。
結局、家にいなければならない父がいなかったため、祖父、祖母が代わりに引っ張られて行き銃殺にあいました。その時も、私が別れるまいと引かれて行く祖母にしがみつくと、周辺の大人たちが引き離して地面に叩きつけられたことを思い出します。神様!神様!と言いながら引かれて行く祖父母の姿が今も鮮明に思い出されます。
孤児ではない孤児になった私の成長期
その後に私は一人でなんとか軍人の手伝いなどをしながら生きました。村に親戚が住んでいましたが、あまりにも暮らすのが大変でしたし、お互いが皆被害者だったため、左翼と烙印を押された家の子供を世話することは容易なことではありませんでした。そのように暮らしながら国民学校を卒業しましたが、中学校に行きたくてもお金がなくて行くことはできませんでした。
その時初めて、再婚して済州市に住んでいた母を訪ねて行きました。学校に通えるように助けてはしいとお願いしようと訪ねて行きましたが、再婚した母の夫がまた朝鮮戦争で死亡したため、非常に暮らしむきが苦しく、助けを受けることはできませんでした。小さい希望を持って苦労して訪ねて行きましたが、母が助けられないと言った時は胸のつまる思いでした。
その時、母から祖父に聞いたといって、父が日本に徴用に引かれて行き南洋群島で亡くなったという戦死通知を受けたという話を聞きました。
友人たちは中学校に行くといってきれいな制服を着てカバン持っているのに、気がおかしくなりそうでした。ただやみくもに学校に通い始めましたが、学費を出すことができなかったため、すぐに退学させられました。
うれしい気持ちで走って行った学校の運動場入日の掲示板に貼られている退学通知書を見た瞬間、私自身もわかりませんが躊躇なくやめました。
私は家に帰る途中で天地淵の滝の上段にのばりました。生きていく意味がなかったからです。死んでしまいたい気持ちだけでした。通り過ぎた大人の引き止めで振り向くと、さらに怖くて絶望的でした。
そして、軍人を対象にジャガイモを売って靴を拭きながら生活しましたが、学校にとても通いたくて、あてもなく済州市にある「海洋少年団」を訪ねて行きました。しかし、その少年団は学校ではなく避難孤児を収容する所だったので困りましたが、偶然今の私を育ててくれた養母に会うことになりました。当時、養母は済州市で食堂をしていましたが、私はその家で手伝いをしながら暮らすことになりました。そして、遅くなりましたが夜間学校に入学することができました。
私の父の痕跡を探して私は私の父に一度も会うことができませんでした。一度も会うことの出来なかった父が生まれた日(6月25日)祭祀を挙げています。祭祀の日になれば故郷へ降りて行き、親戚の人たちに会って父の話を聞いたりします。
そうしているうちに、長崎で父に会った人を尋ねました。当時、洞内の金持ちの家の息子だったのですが、日本に留学に行き生活している途中で偶然に父に会ったといいます。その人の話では、長崎で偶然父に会ってうどんを一皿ずつ食べながら話を交わしたのですが、父が「鉄船が爆撃で全部破壊されたので、物資をのせて南洋群島に行く、どうやら帰って来られなそうだ」という話を残して別れたという話を聞きました。
父の生死に関する話はこれが全部です。
私の考えでは、海で亡くなったのではないだろうか、それならば父の死体が魚のエサになっただろうと思っているため、今でも私は祭壇に魚をのせていません。
私の年齢はすでに70歳です。顔も分からない父、いつどこで亡くなったのかさえ知らずに生きてきたという罪悪感のために、このままでは目をつむることができません。日本は記録が発達した国と知っています。
私の父の記録もどこかに必ずあるものと思います。
しかし、今まで日本政府は関連資料をきちんと出してきませんでした。遅まきながら韓国政府が特別法を作って被害者を調査し、道義的な補償をしていますが、非常に遅れたためか、私の父についての資料はまだ見つかっていません。
1965年の韓日協定の時、日本政府が被害者に対する調査をきちんとして、関連資料を韓国政府に譲り渡していれば、父ついての資料も見つかつたのではないかとも思います。
海軍軍属として引かれて行ったという推定と、最後に会つた故郷の人の証言があるだけで、何も残っていない私の父の記録を探したいです。それが子供としての父に対する最後の道理であると考えます。この責任を全うできるように、日本政府は最小限の誠意でも見せて下さい。持っている資料を全部公開し、民間団体と韓国政府の調査活動に積極的に協力して下さい。そうすれば私のような恨を持つ遺族たちに少しでも慰労となるでしょう。
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証言者:チェ・ナックン(崔洛 1940年生まれ)息子
犠牲者:チェ・チョノ(崔天鎬1916年生まれ)労務者
仕事を探しにソウルヘ行くと言ったけれど
私は、1940年5月27日、京城府典農町115番地で生まれ、今年で71歳になりました。父はソウルの清涼里にあるどこかの学校で仕事をし、母と兄、そして私と一緒に住んでいました。弟は父が日本に行つてから3ヶ月後に生まれました。
家の暮らしむきは良いほうでした。1941年、日舎で農業を営みながら暮らすために、私たちは全羅北道金堤に移り住みました。田合の生活が厳しかったため、1942年3月頃に父は働く場所を探しに再びソウルに行きました。
父は住む場所を見つけて落ち着いたら連絡すると約束し、ソウルに行きましたが、一ヵ月後、日本に行くことになり、出発するという手紙を金堤に送ってきたそうです。翌日出発するということを知った母は、父を引き止めなければ、という思いで、産み月になっていましたが、汽車に乗るため、夜遅くに幼い子供二人をつれて4mにもなる距離を駅まで行きました。
しかし、結局駅まで行けず、ソウルに行くことを諦め、虚脱感を抱いて祖父の家に戻ってこなければなりませんでした。その日から今まで65年間、ずっと父を思慕し、待ち続けました。
徴用された父と残された家族
1942年、母は27歳、兄は8歳、私は2歳、そして弟は母のおなかの中で7ヶ月になった年、父は日本ヘ行きました。その厳しい時代に一人で弟を出産したのですから、母の苦痛はどれほどのものだったことでしょうか?
その時に生まれた弟はもう69歳で、恋しい父と会ったこともなく、あたたかい体温と愛を感じたこともなく、父の胸に抱きしめられたこともない遺児です。私は父の顔と姿は思い出せなくても、それでも少しでも愛されただろうと思います。
母は幼い三兄弟にひもじい思いをさせまいと、田舎でありとあらゆる行商をしました。約40km
になる所まで行って魚などを買ってきて、いろいろな村を回り、その魚をすべて売ってから、やつとのことで帰ってくることがよくありました。兄は小学校に通い、私は家でご飯を作り、農作業も手伝い、幼い弟の面倒も見ました。
帰国を知らせた父の手紙
そうしているうちに、1945年8月15日、解放を迎えました。村では祝宴を催して大騒ぎでした。幾日も経たないうちに、日本に行っていた人々が一人、二人と帰ってきました。私たちの父もそのうち帰ってくるだろうと待っていました。
そして旧暦のお盆のころに帰国するという手紙を受け取り、どれはど嬉しかったことでしょうか。しかし、喜びもつかの間、帰国するという日が過ぎても帰ってきませんでした。日本に連れて行かれた後も一ヶ月に1、2度は必ず手紙を送ってくれていたそうですが、その後一切消息が途絶えてしまったのです。そしてもう69年になります。
みなさんは若い青春時代に一人きりになった女性の悲痛さと凄絶さが分かりますか?分かるなら分かると答えてください!毎晩父を待ちながら、一人で幼い子供二人を食べさせて着させて勉強させなければならなかった母は、ため息と涙で、恨の多い歳月を過ごしました。
そのような母の姿を傍でずっと見守ってきました。「日本の大阪のどこがそんなに良くて花のような私を置いて連絡船に乗ったのでしょう?」と嘆きながら涙を流していました。幼い私も母と一緒に泣いたことが何度もありました。私たち兄弟は女の子がいなかったため、私が娘の役割をしながら生きてきました。私は今も母の娘として生活しています。
父のいない私の成長期
小学生の時には家の暮らしむきが影響して、遠いところにある学校に通わなければならず、農作業に家事までしていたため、学校にきちんと通うことができず、出席率はたったの30、40%にしかなりませんでした。
結局卒業証書も受け取ることができないまま学校生活が終わりました。
それで頭にきて、16歳の時にお金を一切持たず、計画もなしに家出してソウルに行きました。食べものを求めてとにかくあの家この家かまわず訪ねて物乞いし、毎晩汽車の駅で寝ました。このような生活をしながらも両親のいない子供のように見えないように身だしなみと行動はきちんとしました。
そして仕事を見つけようとあちこち一生懸命探しまわりました。そうしていたある日、ある篤志家が私を気に入り、ご飯も与えてくれ、寝る場所も用意し、まず靴磨きの仕事からさせてくれました。そうして少しずつ少しずついろいろな種類の技術を身につけていきました。
幼い私には我慢し難い日々でしたが、家族のことを考えて屈せず耐え抜きました。そうして一生懸命生きてきた結果、ある時から社長と言われる地位にまで上りました。そして家族みんなをソウルに連れてきて今まで一緒に暮らしています。
昔よりは楽に暮らすことができていいですが、これまでの母の苦痛と孤独は誰が慰めてくれるのでしょうか。そしてぽっかりと空いた心の片隅はどうやって満たしてくれるのでしょうか?この問いには誰も答えられないでしょう。
私の心の一方には空虚感があります。父の空白がそれです。父の空白を一生涯感じて、耐えて生き、そして亡くなった母を考えると、さらにこみ上げてきます。そして生前の母に会うたびに申し訳ない気持ちで、まともに顔を見つめることもできないほどでした。
母の死亡申告と一緒にした父の死亡申告
実は、母が生きていたときは父の戸籍を整理することができませんでした。なぜできなかったのでしょうか?母も父が死亡したということを認めてはいましたが、どこかで生きているだろうと信じる気持ちの綱を放したがらず、戸籍整理を通じてショックを受けるかもしれないと心配したため、とても死亡申告ができなかったのです。
そんな母が2007年7月、この世を去りました。生涯待ち続けた父に関する消息も何も間くことができないまま亡くなりました。そして私は母の死亡申告と同時にやっと父の戸籍整理を終えることができました。
本当に悲しいことでした。父の生死の知らせを待ち続けた末に、確認さえもできないまま亡くなった母と一緒に父までも戸籍整理をしなければならなかった気持ちを理解することができますか?母は今頃あの世で父に会っているだろうと思います。恋しさに対する気持ちと恨みを抱きながら会っていることでしょう。
父の記録を探して
いま、私には子供としての道理だけが残っています。どのような方法であれ父の死に対する記録を見つけ出し、遺骨を受け取って母と一緒に祭ることです。日本政府が先頭に立って私の父と日帝強制動員被害者の記録を一つ一つ明らかにし、公開することによってのみ、どうにか私の空虚感が満たされ得るだろうと思います。
私は日本政府が動き出さないことに憤慨し、父の記録を見つけるために日本のあちこちを直接探し回りました。父は強制微用された後に家に宛てた手紙と一緒に、「協和訓練隊員昭和17年9月13日
記念撮影」と書かれた写真を送ってきたことがあります。
私は唯一の手がかりであるその一枚の写真を手にして東京から新潟、そしてニイミという所まで父の痕跡を探し回りました。日本の国会議事堂や厚生省、社会保険業務センターには何度行ったか分からないほどたくさん訪れました。
しかし、返ってくる答えはすべて「分からない」という一言でした。日本政府は韓日過去事問題のすべてのことが終わったと考えているかもしれませんが、私たち被害者は今も傷を癒すことができないまま生きています。
去る2004年、韓国では強制動員真相究明特別法が制定されました。韓国政府が日帝強制動員被害者に道義的な責任を果たそうという努力はしているんだなぁと思いました。このような事実を日本政府は知っていながら何年も無視する態度をとってきました。
今年は日本が韓国を強制併合してから100年になる年です。日本が韓日間の真の友好と平和を考えているなら、日帝強制動員被害者のための過去事関連法を韓国のように制定しなければならないでしょう。これからの韓日100年のためにも、今年、必ず真相究明と補償のための過去事法案が制定されなければなりません。
少なくとも問題解決のために努力する姿を示せば、被害者の痛みは少しずつ治癒されるだろうし、そうなった時に韓日両国が未来に共に進んで行くことができると信じています。また、良心的な韓日両国の政治家、そして市民たちの努力が寄り集まつて過去事問題が解決される時、ようやく両国の新しい時代が開かれるだろうし、それこそが今まで苦痛を被ってきた私と日帝強制動員被害者の遺族たちの希望ではないかと思います。
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