証言者 崔寅在(チェインジェ)
犠牲者 崔炳奭(チェビョンソプ)
関係 父親


 私は1938年3月1日今のソウル、麻浦区(マポグ)倉前洞(チャンジョンドン)で生まれました。父は1916年11月5日9兄弟の次男に生まれました。祖父が長い間公職に勤めていたので家は比較的裕福だったと聞きました。ですが、母の話によると、父は徴用を避けるため逃げまわって、結局1943年6月頃、捕まえられ、引かれて行ったそうです。
1948年頃、私の幼かった頃、六番目の叔父が私に勉強を教えていたとき、誰かが白い箱を持って家に訪ねてきました。叔父が箱を受けとり、私に父が亡くなったと言ってくれたので、私は父が亡くなったと知ったときを覚えています。しかしその時は幼かったので、それが何を意味するのか、また父がどこで何のために亡くなったのか分かりませんでした。
 母は嫁入り暮らしがしんどく、父が亡くなったと知ると家に一人でいられなくなり、まもなく私を連れて再婚しました。が、母は手ぶらで私だけ連れて家から出たので、やはり貧しい家と再婚しました。その上、新しい父も私が二十歳頃に亡くなったので、母は一人で家族全部を養う責任をとり、本当に難しい暮らしをしながら、たくさん苦労しました。私を育てながら、長い間苦痛を味わわなければなりませんでした。
 私は私なりに幼い心に母が再婚したのがとても嫌で学校にも行かず、反抗していました。今顧みれば母はとてもしんどかっただろうに、私まで苦労をさせていたようで心が痛いです。私はまともに学校に通えなかったので世の中に対する恨みも大きくなりました。母はとても苦労し、結局47歳の歳で、胃癌で亡くなりました。私はもう子供ではなかったのですが、親がいなかったので孤独でしたし、苦労して暮らさなければなりませんでした。
 それ以降、太平洋戦争被害者補償推進協議会の一員として活動をしながら2000年5月、日本の厚生省に父の記録確認を要請し、父が1943年9月に南洋群島トラック島で病死したことを確認できました。 資料には、死没慰労金として270円が供託されているという内容が記載されていました。今はこの資料を根拠に日本を相手にした裁判の原告として参加しています。
 被害者団体で活動しながら、日帝強制動員真相究明特別法の必要性を切実に感じたし、特別法の制定のために遺族たちと共に熱心に活動しました。結局多くの方々の努力と念願で特別法が制定されたし、2004年11月10日には日帝強制動員真相究明委員会が正式スタートしました。遅れたのですが、韓国政府のレベルで真相調査が進行されたことは幸いです。
 だが、父の娘として宿題が残っています。それは靖国神社に強制に合祀されている父の名前を撤廃することです。今まで父が日本の名前で合祀され、日本の神と祭られていることは真に耐え難い事実です。直接関係がない人はそれもいいのではないかと思うかもしれませんが、私は父の名前が靖国神社にあるということで、とても大きい心の病気になってしまいました。
 ところで、日本裁判所はこのような苦痛を全く推し量ることができず、‘我慢できない程痛いわけではない’といいながら無断合祀撤廃訴訟で原告敗訴の判決を下しました。これは理に適わないことです。日本はいつまでこのように話にもならない行為で日本により、苦痛を受けた人々を苦しませるつもりでしょうか。自分たちの誤りを直すことができないなら、罪を犯した自分自身に必ず罰が当たります。
 遺族たちが裁判を通じて述べた内容は、日本の誤りにより、ひとりひとりの人生がこじれ、苦痛を受けたのかを見せてくれるものです。裁判長に提出した証拠資料は、遺族たちが偽りで作り出したうそではないです。全部日本政府が作成した文書です。
 ところで、常識的に考えても明確な誤りに対し‘我慢できる、我慢してみろ’と被害者の遺族たちに要求するのは自分たちの無知をそのまま見せるものです。その判決も、また記録として歴史に残り、これからも日本政府と裁判所を恥ずかしくさせる根拠となるでしょう。
 私ももう年を取り、父のそばに逝く日が来ると考えると、心がとても寂しくなります。生きている間子供の義務を果たしたいです。日本政府と靖国神社は、直ちに、自分たちの誤りで苦痛を受けている人の心を理解し、許しを求め、家族の名前を靖国神社から撤廃させてくれという原告の要求を受け入れるよう願います。原告の要求は、誤りを認め、これ以上、犠牲者と家族を傷つけでほしいということです。必ずその日が来ると信じ、希望を持ってみます。