GUNGUN原告知ってねコーナー

「なぜ浜名湖での記録がないのか」
李仁浩(イ・インホ)さん

 

厚生労働省で(2004年4月14日)

 

 4月14日、第12回口頭弁論で意見陳述された。「金融機関という当時恵まれた職についていたのに徴兵され、帰ってみると38度線によって隔てられ復職できなかった。浜松まで連れて行かれ、空襲で死ぬ思いをした(死んだ同僚もいた)。せめて未払い賃金だけでも返して欲しい」と力強く訴えました。
 李仁浩さんは、「徴兵第1期」で徴兵され、平壌での訓練後、名古屋、各務原を経て浜名湖の高射砲部隊に配属されたといいます。このことを確かめるために、口頭弁論後、厚生労働省を訪問。しかし、調査の結果は、現在厚生労働省に浜名湖に配属された資料はないとのこと。保管してある資料に李さんの名前(日本名:宮本仁浩)はないというのです。本人の記憶ははっきりしているにも関わらず「ない」という。多くの戦争被害者が、自らが徴兵されたその足跡をたどることさえできないのです。遺族の場合はなおさらです。「外国人」には充分な調査さえ実施されないのが現状です。担当者は「戦後すぐであれば聞き取りで記録を補充できたのでしょうが・・・」という。誰が放置してきたのか?!ここでも「理不尽な戦後処理」を感じずにはいられません 。


「飢えと空襲の中を生き延びた。
未払い金や貯金のことを国家間で決めるのはよくない!」

金jソ(キム・ボハン)さん

 

証拠を手に内閣府で要請する金福漢さん

 

 1945年という戦争末期に徴兵によって中国戦線に送り込まれた金さん。飢えや空襲を生き延びましたが、戦後未払い賃金が供託され、軍事郵便貯金が放置されていることを知ったのは、2000年に入ってからのこと。戦後処理の理不尽さを切々と訴えました。1番訴えたかったのは未払い金や貯金のこと。個人の財産を国家間で決めるのはよくない。韓国政府も良くないと思う。
 金福漢さんの徴用は45年1月という戦争末期。部隊約90人の9割が朝鮮人だったという。消耗戦だった中国戦線の補充に朝鮮人が充てられたのである。給与は一切なく、軍事郵便貯金に回された。タバコの支給はあったので、現金化し、週に一度の外出の際に使った。新郷近くにある朝鮮人の家でご馳走になったこともある。8月15日の解放後は連合国軍の指揮下に入り、日本兵とは別に収容された。
 2000年代に入ってから日本政府(厚生省・郵政事業庁)への照会をし、その回答で初めて未払い給与354円が52年に供託され、460円50銭の軍事郵便貯金がそのまま保管されていることを知った。しかしいずれも「日韓請求権協定」と国内法により権利が消滅したという。


「今なお、空襲の恐怖が残っている!」
黄圭鐸(ファン・ギュタク)さん

 

やけどのあとを見せる黄圭鐸さん

 

 
 黄圭鐸さんは、徴用前に10代で日本に渡り、広島に住み、仕事をしながら夜間学校に通い、自動車の運転免許も取りました。1943年陸軍の運転手募集に応募して軍属として採用され、満州に配属。満州ではソ満国境で陣地構築作業に従事し、続いて44年には八丈島で、45年2月には横浜に移動させられ同じく陣地構築作業に従事させられました。
 この横浜で、横浜大空襲に会い、大火傷を負いました。幸い病院に収容され治療を受けたものの今なお、その癒されぬ傷は心深く残っています。
 「日本人と同じ」と言いながら戦争に引っ張り出し、戦争が終わると「日本人ではないから」と何もしない、未払い賃金さえ支払わないのは非道だ、と訴えます。


「未だにわが父を支配」
趙茂衍(チョ・ムヨン)さん

父の形見の着物を羽織る趙茂衍さん
(2003.11.20第9回口頭弁論)

  趙茂衍さんのお父さん・趙南鉉(チョ・ナムヒョン)さんは、陸軍軍人として徴兵され、中国戦線に配備。厚生労働省の記録によると、最後には、1945年4月3日西部ニューギニア島ソロンで戦死したことになっています。45年4月3日というと、沖縄戦の始まっていた時であり、ニューギニア戦線での戦闘はすでにほとんど終結しており、戦闘による戦死というより、戦病死・餓死したものでないかと思われます。
 
 「私は、この問題が完全に解決するときまで闘う覚悟ができています。色あせた写真に写る若い父の姿を見ながら、父の死によって家族が受けた苦しみの歳月を思い出し、すべての真相糾明が遂げられるまで私の余生を捧げ、努力していくつもりです」と決意。また靖国合祀について、「父を死に追いやった戦犯者と一緒に軍国主義の象徴である靖国神社に、一方的に、家族の意思も聞かず、知らせることもしないで日本政府と靖国神社で勝手に合祀したということは、未だに我が民族を、そして私の父を支配していることを誇らしく思おうという野望にしか見えません。そのようなところに日本の小泉首相が公式的な参拝を強行したことは、息子として到底許すことのできないことです」と訴え る。
 


「犠牲になる価値を感じられぬまま戦争に行かなければならなかった」
宋琅錫(ソン・ランソク)さん

 

第8回口頭弁論で(2003/9/11)

 

 宋さんは、「必ず、軍隊に志願しろ」と言われ、名古屋に配属。名古屋空襲で鼓膜を破られ、解放後も両耳が聞こえない大変苦しい生活を余儀なくされました。すでに、74歳という高齢をおしての来日でした。

 来日した宋さんは、法廷で傍聴者を前に「(名古屋空襲で)B29直撃弾の破片が頭の左側にあたり、爆弾の爆風で両耳鼓膜が破れ、両膝にも破片が打ち込まれた」「犠牲になる価値も感じられないまま、誰のための戦争であるかも分からずに行かなければならなかった人生が恨めしく嘆かわしいばかりです。今考えられたら憂憤がこみ上げてくる」と力強く訴えました。

 


シベリア抑留者に未払い賃金を返せ! (第二次提訴の原告たち)

左から鄭元九さん・李在燮さん・李炳柱さん
(全抑協主催の昼食会で)

 

 
   

李炳柱(イ・ビョンジュ)さん(韓国シベリア朔風会会長)

 平壌に住んでいて43年に卒業。図門(ドモン)の満州国税関の職員をしていた。25年生まれの「徴兵2期」にあたる。45年8月平壌44連隊に入隊。満州北端のハイラル505部隊で軍服に着替えている最中にソ連軍が南進。無条件降伏後、ソ連軍の捕虜となり、トラスノヤルスク34地区、ハバロフスク16地区の捕虜収容所で、口では言い表せないほどの強制労働をさせられ、飢餓と疾病で死亡した者が200余名。「私は運が良くてバラック小屋が最初からあった。飢えで凍った馬糞とジャガイモを間違えることもあった」「零下40度の極寒での森林伐採作業で背中の汗が凍りつき死んだ人も多い」という。46年6月に「何とかしよう」と、片言のロシア語で朝鮮人がいることを知らせようとしたが「朝鮮人がここにいるはずがない」と言われた。所長に面会に行き、会って話しをすると、所長は「捕虜名簿が朝鮮人でなく、日本人になっている」と驚いた。九死に一生を得て48年12月に、3年4ヶ月の捕虜生活を終えて帰国。1949年に越南、韓国に居住。 ( 陳述書

 「シベリア朔風会」は、91年12月に8人が集まったのが最初。その後全国に呼びかけると56人が集まり、名簿を作った。今、28人が生き残っている。(「朔風」とは「北からの強い風」という意味) シベリア朔風会のあゆみ

李在燮(イ・ジェソプ)さん(韓国シベリア朔風会副会長)

 45年8月に平壌工兵隊に入隊、北満州国境に位置するハイラズ20495工兵部隊に配属。ソ連軍の空襲を受け、日本が連合軍に降服しソ連軍の捕虜になってズンビシベリアグラスノヤルスクラという都市の第一収容所で3年5ケ月の捕虜生活。シベリア気候で飢餓と人問以下の生活で大勢の軍士が死亡した。48年12月にナホトカ港から興南に到着し捕虜生活を終えた。故郷が南の韓国になる約500人は38度線を渡ってクォゼ収容所へ。共産主義国から帰ってきたといって思想調査を受けた。就職もできず外出も警察署の許可なしにできなかった。

鄭元九(チョン・ウォング)さん

 45年5月、志願兵を拒否するや否や、派出所長と同行した憲兵によって強制的に咸鏡北道フェリョンの日本軍陸軍部隊に引っ張られた。特殊攻撃等訓練を終え、満州地域圖門に配置。ロシア軍が突然宣戦布告、捕虜に。毎日大量の軍需物資を車に載せる作業、空腹と激しい労働に耐え難い生活。各種疾病と、寒さに無防備な軽装の多くの仲間が、酷い寒さと病魔に苦しみ死んでいった。46年2月ロシア軍が捕虜を釈放。疾病にかかり助けを受け、かろうじて延吉駅まで行くことができた。
 


「私が死ぬ前に遺骨くらいは返してほしい」
呂明煥(ヨ・ミョンハン)さん

 

 呂さんが満5歳の1942年春、父の呂昌寛さんは強制徴用されました。1945年6月1日、南洋諸島のトラック諸島夏島で死亡したと連絡があり、知らせと共に髪の毛、手足の爪が同封されましたが、遺骨はありません。若い母と幼い息子を残して死んだ父の心情を思うと胸がつまると語る呂さん。何よりも遺骨と、未払い金を返して欲しいと強調されました。
 呂昌寛さんが亡くなったトラック諸島の夏島(デュブロン島)とは、グァム島の南東約100km、現在はミクロネシア連邦内にあり、戦争中は日本の連合艦隊の泊地でした。
 1941年12.8ハワイ真珠湾攻撃により、日米は開戦。1942年ミッドウェー海戦以降、米英などの連合軍は、攻撃を強め、周辺の島々を全滅させた後、1944年2月17〜18日にトラック諸島を空襲。事前に危機を察した日本の連合艦隊は、数日前にパラオに逃走。この空襲で戦力のほとんどを失った日本軍部隊は、直後から自給生活に。当時トラック諸島近辺には10島ほどに分散し、日本の陸軍・海軍合わせて43000人が駐屯。孤立し残された軍人たちは、貯えていた食料を食い尽くし、小さな部隊ごと自らの食料を守ることに必死でした。1945年8.15の敗戦時、生還者は37000人いたが、この自活生活の約1年余の間に、餓死や飢餓がもとで病死した者が6000人にも達しています。ここでの死亡のほとんどが「餓死」なのです。
 呂さんが、韓国大田にある政府記録保存所で手に入れた「海軍軍属身上調査表」(別紙陳述書の裏面参照)の記載内容からは、呂昌寛さんは「1945年4月15日より栄養失調で病院に収容され、6月1日、栄養失調症で戦病死した」ことが読み取れます。おそらく前年から武器などもなく戦うにも戦えない状態で、一方で「よその縄張りからサツマイモ一本でも盗んだら銃殺しても文句は言わないという暗黙の了解があった」というほどの極度の食糧不足状態で栄養失調になり、最後は病院で亡くなられたのでしょう。
 呂さんの、望んでいる「遺骨返還」は、お父さんが死亡した病院での埋葬場所等の記録が確認できれば、可能かも知れません。(現在、夏島には日本人向けの戦跡ツアーコースがあり、当時の建物跡等もいくつかは保存されているらしい) また、調査表には「遺骨は23.5.31に送還」との記述があることから、厚生労働省に、もっとあるはずの資料を開示させ、日本人遺族にしてきた遺骨収集などの取り組みをGUNGUN原告たちに対しても行うよう、要求を突きつけることも必要だ。


「父の苦しみと家族の苦しみに 『悪かった』となぜ言えない!」
李侖哉(イ・ヨンジェ)さん

 

「戦死通知すら来ない!」 李侖哉さん

 

  父親を海軍軍属として徴用され、中国東沙島沖で亡くした李侖哉さんは、「父の死について、日本政府からは何も通知がなかった。今日本は、拉致問題で真相究明を連日主張している。しかし日本は、拉致被害者の生死確認から遺骨の返還、賠償まで要求しながら、どうして私たち韓国人のこのような痛みに対して何故一言の言及もないのでしょうか。なんの措置も施さないでいるのでしょうか」と涙を浮かべて訴えました。李さんのお父さんは、海軍軍属として徴用され、1944年11月1日、中国東沙島沖で戦死。このことも、1999年に韓国遺族会が厚生労働省に問合せはじめてわかったのです。日本政府は、「拉致問題」で「人道」を口にするなら、自ら犯した非人道的行為をまず徹底的に明らかにし、全ての資料を公開し、心からの謝罪を行なうべきです。


遺骨返還を求める!!
朴梅子(パク・メジャ)さん

  2002年7月の映像に残すツアーに参加して、ソウルで朴梅子さんに会いました。「私の名は日本にもある名・・」とソウルの屋台で隣り合わせたときに、自己紹介されました。両親と姉2人の5人家族で農業を営んでいたのですが、暮らし向きは大変で、家族を助けるために「金儲けになるから」と、軍属としてお父さんは徴用されました。写真と便りが何回か送られてきましたが,1944年4月1日に死亡通知だけが届きました。このとき朴梅子さんは1歳になったばかり。全てのことは、お姉さんから聞かされました。お父さんが亡くなったあと、お母さんは勧められて再婚し、お姉さんたちは叔父宅に、梅子さんは母の実家に・・と、貧しさの中で家族は離ればなれになりました。厚生省に問い合わせ、やっと第4海軍施設部に軍属として配属され、供託金が6888円あることがわかりました。遺骨は,1948年に送還されたことになっていますが、家族のもとには届かず、不明のままです。
 「家族を助けるための」徴用がお父さんの命を奪い、家族のためのお金さえ手渡されず、遺骨さえ帰らず、朴梅子さんの悲しみはどんなにか深いのに、訪韓した私達を屋台で、カラオケで明るく接待し、好意を寄せてくださいました。生まれてすぐに父を奪われ、1歳で父を亡くし、遺骨が帰らない悲しみ・・・肉親を理不尽に奪われた60年に近い永きにわたる嘆きは、北朝鮮に拉致された家族の嘆きと同じものだと思います。どちらの嘆きも私の胸に迫ります。日本が過去の戦争で、何十万という他国の人々を強制連行・徴用したのは、「拉致」に等しい行為だと思います。日本人は拉致された家族の痛みに共感し、朴梅子さんの痛みにも思いを馳せるべきだと考えます。(小川)


事実認否すら拒否する国の答弁書に「血が逆流する思いだ!」
李洛鎭(イ・ナジン)さん

 私の父、李福圭(イ・ボッギュ)は、1945年9月20日フィリピンのミンダナオ島で戦死しました。戦地での日本軍部は敗戦の事実を隠し、密林の奥深く兵力を投入し、結局父は銃による傷で命を落としました。家族には戦死通報一つありません。その後彼らは誰の同意も得ることなく、父を靖国神社に祀りました。誰の同意があってこんな理不尽なことをしたのでしょうか?我が国ではうしろ指差される「日本軍人」。死んでなお靖国に祀られ、全国民の非難を受けなければならないことを示しているのです。23歳の若き花のごとき新妻は今、腰が曲がり、杖にすがり、ようやく歩く状態であるが、それでも夫が帰る日を信じて今でも待っています。我々韓国人が靖国に祀られるのは「恥」であり、子々孫々まで拭うことのできない「侮辱」であります。私達の後世の子孫に祖先が靖国に合祀されていることをどう説明すればよいでしょうか。靖国合祀の取下げと戦後補償を求めます。


祖父が「太平丸」沈没事件で憤死。日本政府は船の引揚と遺骨返還を!
(原告95)朴鉉東(パク・ヒョンドン)さん

1月11日号『週刊金曜日』で伊藤孝司さんが戦没船「太平丸」をルポ。その太平丸の遺族。

 祖父の朴炳勲(パク・ビョンフン)は1923年12月21日、江原道チョンソン郡イムケ面コヤン里234−2番地で父、朴ウォンゴと母、ペク・シサの四男として生まれました。1942年、強制徴兵を受け北海道の千島列島海上で発生した「太平丸」沈没事件で船が爆破され水葬されたという消息を聞きました。死亡通知は解放と同時に故郷の家に伝達され、保証人の証言で確認しました。日本の強制徴用で私たちは祖父を失い、祖父が憤死したことをどうやって補償するつもりですか。日本は当然、補償と賠償をしなければなりません。

前号ニュースの主張で取上げた「遺骨のDNA鑑定を厚生労働省が決定」に対して問い合わせが数件ありました(1月18日神戸新聞が報道)。DNA鑑定が実現すれば、遺骨返還が重要な要求になっているGUNGUN裁判でも大きな意味を持ちます。ここで紹介した「太平丸」は日本人、朝鮮人(南北)が一緒に沈んでいますが、DNA鑑定によってその遺骨を判別することが可能ということで、日本政府に引き揚げを要求する大きな材料になります。伊藤孝司さんのルポによれば、太平丸は北千島に向かった1944年7月9日米軍の魚雷により沈没。総乗船者2010人(朝鮮人約1000人)中死亡者956人(朝鮮人655人)。


父がBC級戦犯として東京・巣鴨刑務所に10年も収監。「父たちを戦犯にしたのは一体誰なのか?」
羅鐡雄(ナ・チョルウン)さん

 三歳の時に父・羅三柞さんが徴用。釜山、インドネシア、スマトラ、ジャワへ連れて行かれ、そこで英国人捕虜収容所で勤務。終戦と同時に収容所の中と外とが逆転し、BC級戦犯として10年の刑を受け、東京巣鴨刑務所で10年もの間、収監。巣鴨プリズンでは、@差別待遇の撤廃 A即時釈放 B釈放後の受け入れ体制の補償を要求。仮釈放となっても仕事もなければ蓄えもない。日本政府からの何の手当てもない。闘わざるを得なかった。仲間で「同進会」を作り、相互に助け合った。日本人篤志家の援助でタクシー会社を始め、何とか生活できるまでになった。釈放後帰国したが、病弱になり1982年に亡くなった。日本政府には35年にわたり謝罪と補償を求めてきた。裁判では8年間闘った。しかし、何も解決していない。今、立法化を求めている。
 残された家族の生活は悲惨なものだった。強制的に徴用された挙句、終戦後も10年間、人生の大切な時期に刑務所に入れられた苦痛に対する補償と、未払い給与の返還を要求する。


「強制的に労役させたのみならず、帰国途上に海のど真ん中で死なし、その上靖国に合祀している。日本は本当に悪辣だ。」
林西云(イム・ソウン)さん

 2歳の時に父・林萬福さんが商売に出かけていって、そのまま捕まっていった。父から手紙や月給が送金された事はなかったとの事。解放されてから父の死亡消息を聞く。解放されて朝鮮に帰ろうとして、船が爆沈されて死亡したとの事。1945年8月24日に日本の舞鶴港で「浮島丸」に乗っていて死亡。強制的に労役させたのみならず、帰国途上にあった徴用者達を海のど真ん中で死なすとは、日本は本当に悪辣としか言いようがない。残された家族は激変した人生を送り、孤児のように一人で生きながら受けた苦痛は言葉ではとても表現できない。靖国にA級戦犯と一緒に祀られ首相の参拝を受けては、侵略に加担していたと受け止められかねない、と合祀絶止を要求。


二重の迷惑 生存しているのに靖国に合祀
金智坤(キム・チゴン)さん

 1936年7月平壌陸軍航空支庁に軍属として配置。38年ハンフン、40年満州を経て、44年8月フィリピン派遣第4航空司令部に移り、フィリピン作戦に参加。45年1月1日米軍上陸で抵抗不能になり、数十回の死線を越えて山岳地帯に後退し、草の根、木の皮を食べながら命をつなぎとめた。45年9月米軍冠禮捕虜収容所に収容。45年12月日本に送還され帰国した。年金、貯金、諸手当金の支払いを求める。最近の調査で本人は生存しているのに靖国に合祀されていることが判明。「軍国主義の象徴の靖国に祀られるなんて迷惑この上ない」と語る。


靖国合祀は暴力的で屈辱的
李英燦(イ・ヨンチャン)さん

 
「お父さんの顔も知らないんです。写真で
もあれば・・・」と訴える李英燦さん
 

  43年、9歳の時に父(李二奉さん)が徴用に行く時、警察署の前でトラックに乗って行く父を祖母と母が名前を呼び、涙を流していた。父の遺骨が帰ってきた日、白い箱を抱いて涙を流しながら家に帰った。その後母は再婚。私と弟達を面倒見る人がいなくて、新聞配達をしながら生計を維持した。朝鮮戦争が勃発して16歳で学徒兵に徴集。今年になって父が靖国に合祀されていることが判明。「日本の戦争指導者たちと同じところに父が合祀されていることは、暴力的で侮辱的だ」「家族を失って経験した苦痛、苦々しい現実を、日本は知っているのか。責任を感じているのか追及していく」と語る。


8月のNTVニュース「今日のできごと」で紹介・学徒出陣の兄が合祀されている
林孝順(イム・ヒョウスン)さん

 兄の林龍澤(イム・ヨンテク)さんは1940年ごろ志願し軍隊に入隊。兄は当時、国策映画で「君と僕」という志願を促す映画に出演。戦場に行くと手紙が来た後、連絡も来ず、何の消息もない。同じ部隊に勤務していた人から、南洋群島に行く途中で船が爆撃されて破船し、死亡したと推測できるが、詳しい事は分らないと聞いた。母は病気になり亡くなり、2年後に父も精神的打撃を受けて亡くなった。死亡通知書は来なかった。
91年に内海愛子さんに会い、兄が映画に出演した写真を見せた。その後、厚生省から兄の死亡通知書を受取った。兄は陸軍軍人で歩兵75連隊に服務、45年1月9日に台湾で死亡したと記録。「靖国に合祀されていることは兄も望まないと思う。」