シベリア抑留とは?

 第2次大戦後、旧ソ連によってシベリアに抑留された人は旧日本軍兵士、民間人も含めて約63万人余。極寒・飢餓・重労働の「三重苦」の中で約6万4千人もの人が死亡したと言われている。そのような人々の中に、朝鮮半島出身者が含まれていたことを私たちは忘れてはいけない。

 8月15日、天皇の無条件降伏で、日本の侵略戦争の幕は閉じられた。ポツダム宣言に基づき日本軍の武装解除が始まり、南方の戦線に配属されていた多くの軍人軍属の帰還手続きが進む一方、満州に駐屯していた関東軍60万人はシベリアへ連行された。その中には3500人もの朝鮮半島出身者も含まれていた。

原告・李炳柱(イ・ビョンジュ)さん(韓国シベリア朔風会会長 )の発言

 
   

 関東軍60万の内、韓国人は3500名いました。日本人司令官が良心的な場合は、日本軍の無条件降伏の際に、「半島出身は日本軍人じゃないから早く家に帰れ」と言われ、祖国に帰りました。

 にもかかわらず、植民地支配の甘さを忘れる事のできない一部の悪辣な部隊長は、われわれを国籍日本で、創氏改名された日本名で名簿を作りました。それで、日本人となってソ連側にわたされたわけです。最初の年の1945年冬に死んだ人が6万数千名いました。その中に韓国人1200名もいました。零下30度40度の条件のもとで、夏の軍服のままだったからです。凍死、餓死、病死6万というものすごい数字です。その後、1948年12月になって日本人は舞鶴に、韓国人2300名は江南に送還されました。南に家族のいる500余名は危険を顧みず、38度の境界線を越えて、南下しましたが待っていたのは仁川の臨時仮設テント収容所でした。そこで、2ヶ月余りにわたって、警察から大変厳しい個別審査を受けました。敵性国家での3年半もの長い抑留期間に思想的な汚染をされていないか、帰国時特別指令を受けてこなかったかなど繰り返し繰り返し徹底的に調べられたのです。

 夢に描いた懐かしい故国にたどりついた帰還兵を待っていたのは、更なる冷たい仕打ちでした。帰国後の40数年間『要視察人』のレッテルを張られて、昼となく夜となく四六時中行動を監視され、公職はもちろん、会社への就職もできず、すべての社会活動を制約される不利益を甘受させられたのです。

 1990年に韓国とロシアの国交が樹立されて初めて、家族以外の人にもシベリア抑留の事実を話すことができるようになり、1991年にはシベリア体験者が集まり、「韓国シベリア朔風会」という会を組織し、日本政府に対し、心からの謝罪と精神的、肉体的苦痛に対する補償要求の活動を始めました。

1999年10月1日に提出した小渕総理大臣あての要望書
@過去の過ちについて心から謝罪してほしい。
A軍人俸給と慰労金を要求する。
B未払いの捕虜労働賃金支払いを要求する。本会員全員が労働証明書の発給を受けている。1949年捕虜待遇に関するジュネーブ協定によれば抑留国で支払われなかった捕虜の労働賃金は帰還後捕虜の所属国が支払うと明記されている。
C精神的、肉体的被害補償を要求する。
Dシベリア死亡者名簿を通報してほしい。


「シベリヤの歌」(いまいげんじ 著)より抜粋

 「入ソ最初の冬の飢餓状態は言語に絶した。それは空腹だとか、ひもじいだかという生やさしいものでは無い。恒常的な飢餓状態の連続、つまり平たく言えば年中腹の減りっぱなしで兵隊は全員栄養失調症に陥っていた。その上に恐ろしい寒気との戦い、思い防寒服装だけでも僅かに残った体力を消耗させた。そんな状態でも一日の休みとてなく,私たちは、朝の暗がりから夕の暗がりまで伐採や除雪作業に追われた。昨日も一人、今日も一人、次々と朽木のように倒れていく。ある朝、円匙を担いで営門を出て行く途中、バッタリ...倒れた兵があった。『この野郎、仮病をつかいやがって!』罵りながら分隊長が引き起こしたら、その兵は死んでいた。(略)ガツガツと餓狼のように荒みゆく兵士達に対して時々大隊長の訓示があった。『我々は,帝国軍人である。いかなる状況にあっても皇軍の誇りを忘れず、節度ある態度を失ってはならない』だが、その大隊長自身、絶えず炊事に出入りしている姿をよく見かけた。」「シベリアの寒気は言語に絶した。早暁、出納に水を入れて作業に行く途中,外套がパリパリと音を立てるので気がついたら,水筒が逆さになって栓が抜け、こぼれた水が地上に落ちるまでに防寒外套にこりつき,氷柱となっていた。」


日本人のシベリア抑留訴訟

 未払い賃金等の補償を求めて、1981年から85年にかけて『シベリア抑留訴訟』が争われた。最高裁まで持ち込まれたが、原告の請求は棄却された。

日本人に対しても補償する気のない政府

・恩給を受給していない18万人には書状、銀杯の支給か10万円の国債支給。
・恩給受給者12万4千人には書状、銀杯の支給。
・遺族の1万5千人には書状、銀杯の支給。

 なお、日本軍人として、8年間抑留された李昌錫さんが恩給受給需給資格の確認と1000万円を要求して1992年11月に京都地裁に提訴されたが、志半ばにして亡くなられた。

遺骨について

 厚生省の説明によると、遺骨が残されている場所は543箇所で40025柱の名簿の遺骨が未収集であるという。1992年から97年までに76箇所の遺骨を収集。
97年度の遺骨収集予算は3億2千万円。

GUNGUN原告の陳述書

死線を越えて帰国すると生活が変わっていた。いまだに長くて終わりのない夫の苦労に対しての補償を!

原告 ハン・オッヒ(韓玉姫)さん

 夫、沈元変は、1920年11月7日、父シム・サンヒと、母ゾン・スイヒとの間に出生しました。家は小作農でした。前妻との結婚式を終えて、10日後の1942年10月1日に朝鮮総督府司令官の令状を受けて、強制的に入隊させられました。

 京城の龍山陸軍訓練所に入所して、6ヶ月間新兵訓練を受けました。その後関東軍に編入され、満州の牡丹江に配置されました。また、山東省に移動、関東軍2644部隊を最終部隊として配置されました。

 終戦しましたが、ソ連軍の捕虜になって、4年間収容生活をしました。1949年10月ごろ、ソ連軍は、夫たち捕虜に北朝鮮の軍服を着せて、銃を持たせて38度線を越えさせましたが、ちょうどその時が秋夕の時だったから警戒が厳しくなくて、多分警戒兵たちが酒に酔って夫たちの通過に気がつかなかったのだろうと思われます。そうでなかったら銃で撃たれていたかも知れません。

 死線を越えて家に帰ったら、前妻は夫が戦争が終わっても帰って来ないので戦死したと思って、もう他の人と結婚してしまっていました。その後私と結婚しました。したがって私は二番目の妻になります。

 その後、夫は病気で1992年2月19日に亡くなりました。

 いまだに長くて終わりのない夫の苦労に対しての補償を求めます。日本は、早く相応の補償と賠償をしてください。