戦没船から原告を見ると?

戦没船フィールドワーク報告から

 
   

 2001年9月23日、私たちは「戦没船フィールドワーク」に取り組みました。目的は、私たちのGUNGUN裁判の原告が関係する戦没船についての調査でした。「戦没した船と海員の資料館」は、神戸元町の全日本海員組合関西地方支部のビル2階にあります。「開館から1年、毎日遺族の人が訪れない日は一日もない」そんな研究員・上沢さんの説明を聞いている時にも、広島から一人の女性が父の乗船した船の行くへを求めて、来館されていました。

 終戦後、政府が発表した船舶被害の総数は、官民汽船3575隻、機帆船2070隻、漁船1595隻。資料館の全ての壁に、びっしりと1200枚の戦没船の写真が並んでいます。しかし、こうして船の写真が残っているのは戦没船の3分の1。中には一般の漁船もあります。運航中や漁のさなかに、海軍や陸軍から現地調達として、徴用されたのです。家族に連絡するすべもなく、突然海洋に連れ出され、何の武器も持たない漁船とともに運命をともにした人の無念や、帰らない男たちを待つ家族の思いがいかほどのものだったか・・・・・ 私たちの原告の無念、遺族の悲しみと重なります。

 
   

 上沢さんの協力を得て、原告の関係する戦没船を探し始めると・・・ 「あったー!」・・・座っているすぐ後ろの壁に「辰武丸」の額縁が。原告・張学順さんの父、張在珞さんが乗っていたという船が、何とすぐに目に飛び込んできました。1943年5月10日トラック島付近で米軍の魚雷で撃沈。陳述書に書かれている内容が、その額の絵の中に書かれていたのです。

 次いで、戦没者(韓国朝鮮人)の名簿の中に、原告・金金洙さんの父、金福童さんを探し当てました。日本名「朝本福重」とあり、「童」と「重」のちがいはあっても、生年月日、出身地から間違いないと判断できました。船は「第七快進丸」。沈没したのは山口県とある。「ああ関門海峡ですね。米軍は関門海峡に約五千もの機雷を敷設して海峡封鎖しましたからね」と上沢さんが教えてくれる。1945年、6月27日に沈没、船員24名が戦死とある。金福童さんは機関部の軍属乗務員として記録が残っていたのです。しかし遺族の金金洙さんは、お父さんの戦死については何も知らされておらず、死亡通知も受け取っていません。なんと理不尽なことか。

 「海を再び戦場にしてはいけない」と誓う上沢さんたちの長い間の努力で、この日ひとつの真相が明らかになったけれど、私たちの国は、真相究明に何の努力もせず、放置したままなのです。
上沢さんは語ってくれました。「海軍は徴用する際に契約を交わしていますが、陸軍は漁船を沖でそのまま徴用し、手続きなど無視したのです。だから徴用された小さい漁船や乗組員などについては、一切不明のものも多いのです。」・・・そう。陸軍の発想は「現地調達」だったのです。侵略した先で焼き尽くし、奪いつくした、あの軍の同じやり方で民間船も徴用していたのです。

 なお、「戦没した船と海員の資料館」は、平日のみの開館ですが、まとまった人数で事前要望があれば、休館日にも開けてくれます。また、韓国朝鮮・台湾出身の被害者名簿も見せてくれます。
пF078−331−7541 神戸市中央区海岸通3−1−6

GUNGUN原告の陳述書

日本政府から死亡通知も受け取っていません!

原告 キム・クジュ( 金金洙)さん

 私の父親・金福童は1942年5月初め、強制徴兵され釜山港を出発、日本下関で軍事補給物資を積んで(5月17日)帰港中、米軍の魚雷攻撃を受け、2発が父の船に命中し、沈没したとわかっています。

 同船の乗組員の話によると、フイリピンに軍需品輸送を終えて帰国の途、米軍潜水艦の魚雷により撃沈されたと言っています。

その船には20人くらいが父と共に乗船操業し、漁船船長の戦時動員令により船と共に父は強制徴発。

 軍需品を積んで釜山港を出発する前に、叔母に貴重品を預け、20日以内に帰らない場合は死んだと思っていなさいと言って出発した後消息が絶えました。

 日本政府から死亡通知も受け取っていません。

太平丸は祖父を乗せたまま沈んだ!

原告 パク・ヒョンドン(朴鉉東)さん

 祖父の朴ピョンフンは1923年12月21日、江原道チョンソン郡イムケ面コヤン里234−2番地で父、朴ウォンゴと母、ペク・シサの四男として生まれました。

 1942年、強制徴兵を受け北海道の千島列島海上で発生した「太平丸」沈没事件で船が爆破され水葬されたという消息を聞きました。死亡通知は解放と同時に故郷の家に伝達され、保証人の証言で確認しました。

 日本の強制徴用で私たちは祖父を失い、祖父が憤死したことをどうやって補償するつもりですか。日本は当然、補償と賠償をしなければなりません。

浮島丸に乗った父は、帰国途上に海に沈んだ。その上、靖国神社に合祀している。日本は本当に悪辣だ!
  浮島丸・・・終戦直後謎の沈没。昨年京都地裁で、国の「安全配慮義務」を認める画期的判決が出された!

原告 イム・ソウン(林西云)さん

 
 

後の島の近くで浮島丸は沈んだ

  私は1942年2月28日、忠清南道公州郡モクトン面モクトン里79番地で生まれました。祖母、父、母、叔父二人、叔母一人、そして本人が一緒に住んでおり、父は農業と商売をして、飯は何とか食べれるほどの家庭状況でした。

 本人が2歳の時に父が徴用に行ったと聞いているので、1943年度に行ったものと推測でき、令状は出なかったし、商売に出かけていって、そのまま捕まっていったそうです。祖母は、叔父達が徴用に行くのが厭で避身してしまうと、面では父をその代りに捕まえていったと言いました。

 父から手紙や月給が送金された事はなかったとの事です。父が徴用に行った後には、祖母が商売をしながら家計をやりくりしたので、生活状況は悪くなっていきました。

 解放されてから父の死亡消息を聞きました。解放されて朝鮮に来ようとして、船が爆沈されて死亡したとの事です。1970年代に釜山に父の遺骸があるといって、叔父が探してきて、3年葬までしました。除籍謄本を見ると、1945年8月24日に日本の舞鶴港で死亡したと記録されていました。浮島号に乗っていて死亡したそうです。強制的に引っ張っていかれて労役させたのみならず、帰国途上にあった徴用者達を海のど真ん中で死なすとは、日本は本当に悪辣としか言いようがありません。

 父の死亡消息を聞いて、3年後に母は再婚しました。本人も一緒に付いていったが、祖母は再び本人を連れていきました。祖母は息子の死亡消息を聞いた後には心の病に罹り、51歳で死にました。祖父も早死にし、親孝行者と言われた長男にかなり頼って生活していたのに、息子の死が祖母には非常に大きな衝撃でありました。生活力が強い祖母は鍼を打ちながら生計を営み、叔父は農業をしながら一緒に住みました。一番下の叔父の失敗で父が残してくれた財産はすべて蕩尽してしまい、それによって本人と従弟達は学校にもろくに通えない生活を余儀なくされました。

 祖母まで死ぬと、本家では卑しい身になりました。母を訪ねていったが、3ヶ月後に再び帰って来るようになり、叔母の酷い扱いのために、それ以上その家で生活できなくなりました。11歳の時に祖母が死に、12歳になって公州に行き、織物工場で仕事をしたが、その家では養女にするという口実で給料をくれませんでした。あまりにもしんどくて14歳の時に、叔母の友人が来るように言ったのでソウルに行くようになり、あつらえ服屋で働くようになったが、ここでもお金を一銭も貰えませんでした。異郷の地で一人生きながら、一食を解決するのも大変で、他の所に移りました。

 父がいない故に受けた悲しみ、幼い時に母と分れて住み、泣きながら過さなければならなかった事などは、心の奥底にその怨念が刻まれています。日本に連行されて死に至る事によって、残された家族は激変した人生を送らねばならなかったし、孤児のように一人で生きながら受けた苦痛は言葉ではとても表現できません。本人は子息達にこのような感情を残させないために、私の手元で育てて結婚させるつもりです。一生学べなかった事に嘆きながら、今60歳に近づいているにもかかわらず、塾に通って学習の欲望を満たしています。

 父の記録を探すために、日本の厚生省に調査を要請しました。父は海軍の工員としてテジュ海軍施設部隊で勤務し、1945年8月24日に舞鶴港内で死亡し、死没給与金など1,550円が供託されているとの事です。父の遺骨は1974年12月20日に韓国政府に送還したとの事です。

 1970年代に遺族達に補償金を支給すると言われて、母がその事実を知り、申請して受取りました。その間、受けた苦痛に比べればちっぽけなものであったが、その当時にはどうしようもなく受取るようになりました。

 一家の家長を連行して死に至らしめ、それによって受けなければならなかった苦痛は言葉では表現できません。女の身で孤児のように一人で生きながら受けた苦痛を、一生懸命文字を習って、自叙伝のように残したい心情です。父の犠牲と被害者達の怨念を少しでも解消できるように韓日両国政府は正当な補償をしてくれるように望む次第であります。