GUNGUN裁判第二次提訴 2003年6月12日 東京地裁


「6・12〜13多彩に行動展開!

 

記者会見はマスコミでぎっしり

 

   6月12日、グングン裁判の二次提訴及び第7回口頭弁論が行なわれました。韓国からは、韓国シベリア朔風会の李炳柱(イ・ビョンジュ)会長、李在燮(イ・ジェソプ)副会長、鄭元九(チョン・ウォング)さんの二次提訴原告3名が来日。法廷で意見陳述予定の一次提訴原告・呉幸錫(オ・ヘンソク)さんは、84歳という高齢をおしての来日予定でしたが、体調を崩し残念ながら来日できませんでした。

◆東京地裁に二次提訴! シベリア抑留問題を解決しろ!

 10時45分。「シベリア抑留未払い賃金を支払え!」「靖国合祀の取消を!」と書かれたグングンの横断幕をもった原告3名を先頭に東京地裁に入る。シュプレヒコールがこだまし、マスコミ各社のフラッシュがたかれる。入ると、弁護団から裁判所に今訴状を提出したと報告がある。11時、東京地裁司法記者クラブで記者会見が始まる。壇上には、大口弁護士、下屋敷全抑協副会長、原告3人が。まず、大口弁護士から今訴訟の意義と概要が話される。

◆李炳柱会長―最後の炎を燃やす覚悟

 
韓国シベリア朔風会・李炳柱会長(右)と
全抑協・下屋敷副会長(左)
 

 二次提訴原告を代表して、韓国シベリア朔風会の李炳柱会長が訴える。李炳柱会長は、1945年8月9日に満州現地で徴集され、軍服に着替えようとしたところでソ連の侵攻に直面し、捕虜となりました。「トラスノヤルスクなどで3年半、氷点下40度にもなる凍土の地で、ごくわずかの食料で、道路工事や森林の伐採作業など重労働に従事させられた。」「多くが、80歳を越えている。日本政府の本当の謝罪と名誉回復を求める。提訴は最後の手段。」と訴えました。続いて、李在燮副会長は「味わった『恨』は言葉では言い尽くせない。」また、満州の収容所で重労働に従事させられた鄭元九さんも「酷い寒さと病気で多くお仲間が死んでいった。今まで戦争の後遺症に苦しんできた。」と訴えました。

 最後に日本側のシベリア抑留者を代表して下屋敷・全抑協副会長から「韓国の方たちの提訴に全力で応えていきたい。『連帯基金』を創設したいと考えている。」と心強い連帯の挨拶をいただきました。

◆直後の国会で岡崎議員が提訴報告・質問

 記者会見終了後、原告らはすぐに開催中の参議院内閣委員会の傍聴へ。質問に立った岡崎トミ子議員から、韓国シベリア朔風会が今日提訴し、原告が傍聴に参加していることが報告され、「韓国人のシベリア抑留問題は、日ソ共同宣言で解決したのか?」と質問。(日本政府からのシベリア朔風会への回答で「日ソ共同宣言で解決」とあったため。)外務省は回答で「日ソ共同宣言では解決していない」ことを明言しました。

 提訴翌日の13日には、全抑協主催の昼食会も開かれ、本部を東京に移すため多忙な寺内全抑協会長、平塚都連会長らも含め懇親を深めました。

こうして二次提訴は出発しました。今回の提訴は、戦後補償裁判の前途がいかに厳しくとも、過去の不条理を正さない限り訴訟が後を絶たないことを示しました。高齢の原告にとっては時間との勝負です。引き続きご支援をよろしくお願いします。

◆矢野外務副大臣にも申し入れ

 12日3時より、参議院議員会館の議員控室で、矢野外務副大臣への申し入れが行なわれました。韓国シベリア朔風会から李炳柱会長と李在燮副会長、全抑協から下屋敷副会長ほか5名が参加。この申し入れは、吉岡参院議員の尽力で設定されたもの。

 李炳柱会長からは「平均年齢80歳に至ったシベリア抑留者の存命期間が刻々と迫っています。」「貴国が過去の清算の意義深い一歩を踏み出す勇気を」と訴えました。また、全抑協からは「韓国の仲間に早く賃金を強い払ってほしい」と韓国シベリア朔風会への思いを述べていただきました。

 矢野哲朗外務副大臣は「吉岡議員にも教えていただいて、検討したい。」と返答。約30分の要請を終えました。

◆まさに「幻」の皇軍兵士〜厚生労働省要請

 

厚生労働省に要請する原告団

 

 二次提訴の午後、厚生労働省へ要請行動を行いました。まず原告3人の軍籍を確認すると、「今回来日者の中に記録ある人はいない」という。前回の崔乙出さんの夫同様、終戦間際に行われた「徴兵2期」の名簿そのものが紛失しているためです。本来、雇用主として、手段を尽くして記録の整備に当たるべきところが、厚生労働省は「日本人であれば記憶に基づいて軍籍を整備した例はある。それは軍人恩給や遺族援護法の適用のためにしたこと。我々、援護局(課)は陸海軍の名簿の「保管」についての引継ぎ部局であって、書き加えるとなると別問題。」と切って捨てるように言う。これに対し、「李炳柱さんの場合鮮明に記憶されている。ましてやロシア政府の発行した労働証明書があるわけだからどうか?」と迫っても、「保管しか権限が与えられていない。」の一点張り。日本のために使い捨てにされ、終戦後はその記録すら整備されない「幻の皇軍兵士」を認める厚生労働省の対応に憤慨を禁じ得ませんでした。

 最後に「証明書ではないが」と前置きしつつ「収容所にいた頃の47万人分の調書が存在していてロシア政府から日本政府にH14年度に引き渡された。ジュネーブ条約上の捕虜記録のこと。依頼があれば発行する。」ことが明らかにされ、さっそく原告3人の資料を請求しました。
 
二次提訴報告集会IN東京

 夜は報告集会。会場にはこの日大活躍した、ひときわ鮮やかな黄色の横断幕が。この日九州からかけつけた、日本製鉄八幡製鉄所での強制連行にこだわって闘う、岡添貞子さんからGUNGUNへプレゼントしていただいたものです。

大口昭彦弁護士

 朔風会から小渕首相への要請に対する回答、内容を読むと信じられない。一見心からのお詫びを言い、謝罪しているかに見えるが、問題はその後だ。日韓協定で解決済みの一点張り。麻生太郎の祖父は吉田茂。日韓関係を決めた人物。安部は岸信介の孫。シベリアに売り渡した瀬島は中曽根のブレーン。当時の国家構造が現在の右傾化につながっている。日本の戦争責任解決されていないし、暗躍する人物は歴史のごまかしのために居座っている。許してはならない。

鄭元九さん

 1945年3月に結婚し、すぐに徴兵された。捕虜収容所では下着を洗うこともなくシラミが一杯だった。

李在燮さん 

 今日は人生の中で希望のもてる悔いのないいい日だった。何度か日本に来ているが今日のように痛快な気持ちになったのは初めて。裁判所の前でのデモンストレーションも印象的。政府は過去の清算をしていない。補償し続けているドイツと比べるとその悪辣さは明確だ。

李炳柱さん

 オーストリア・リッツのユダヤ人収容所跡に行ったことがある。日本の過去の清算はドイツと比べると何もしていないに等しい。フランスは植民地のセネガル人を徴兵して最前線に行かせて戦わせた。戦後セネガルは独立。フランスはそのセネガル兵に対して年金を50%しか与えなかった。国連人権委員会に提訴したところ、フランス兵と同等の支給が勝ち取られた。小さい金額でもいい。きちんと謝罪して補償してもらい、名誉を回復したい。会員に相談すると「最後の炎を燃やす覚悟でやってみよう」ということになった。盧武鉉の来日の日に有事法制が通ったが侮辱的だ。今回支援の若いみなさんの働きを見た。金持ちは一人もいない。日本には正義がある。弱いもののために活動する階層が日本にもある。心強く思っている。結果は火を見るより明らかだが勝利に向かって邁進したい。みなさんの協力に感謝したい。

下屋敷之義さん(全国抑留者補償協議会副会長) 

朔風会の闘いは私たちの闘いだ。未払い賃金とは何か? 日ソ協定で解決済みとは何を言っているか? 川口外務大臣は解決済みと言ったが、奴隷制を容認するのか? 奴隷ではないという謝罪と立法による何かが欲しい。奴隷のままで死ぬわけには行かない。この裁判を自分たちの問題として闘っていく必要がある。

甲斐原有さん(全抑協)

 会社が倒産したときに真っ先に払われるのが未払い賃金だ。4年間ウズベキスタンで土工をやった。ジュネーブに「人権に目覚めなければ永遠に奴隷」という像がある。日本人の良心として許せない。
 

二次提訴報告集会IN大阪
 

 翌13日、大阪での報告集会には、朝鮮初中級学校アボジサッカー連盟の仲間が大挙参加。今までの集会とはひと味違った広がりがありました。カマキリの会原告の池田さん、近畿地区未払い賃金要求の会代表の多田さんも、平和を願って闘う人の優しさを、何とも力強いお声とともに表現されて、「頑張らんといかん」と、身体に心棒が突き刺さった感じです。有事法制、イラク法案・・・こんな状況だからこそ、過去に日本が何をしたのか、そして戦後処理をどう行ったのかを明らかにしなければなりません。原告が多いということは、私たちの闘いの武器です。過去の落とし前をきちんとつけるための闘いにしましょう! (小川)

池田幸一さん(カマキリの会:抑留中の未払い賃金を要求して提訴。現在最高裁。)

 97年に16年間闘ってきた裁判に敗訴し、生まれて初めて心の奥からボーゼンと怒りがこみ上げてきた。このままでは死ねない!賃金が支払われないと飢えと寒さで苛酷を極めたあの労働が、奴隷の行為となってしまう。シベリア抑留の裁判は国内でたった3件しかない。なんとお人好しの腑抜けの国か。私たちは、最後まで歯向かった兵隊がいたということを後世に残したいと考えて頑張っている。韓国の人たちの勇気に見習わないといけない。私たちより先に韓国の人たちが補償されることを願っている。

多田健一さん(近畿地区シベリア抑留者未払い賃金要求の会代表)

 

 私は中国から朝鮮に移された時にこの身で体験してきた。私たちは、朝鮮の人たちに侮蔑の教育を受けて、なんともひどいことをしてきた。私はスーチャンで4年間抑留された。その苛酷さたるや口では言い尽くせない。しかし私たちは戦争当事者だ。植民地で強制的に徴用されたGUNGUN原告の皆さんも、あの思いを体験された。なぜそんな目に遭わなければいけなかったのか。差別と侮蔑の中で。韓国の人たちのためにこそ、頑張らんとあかんですよ。余命をかけてやります。アジアの平和のために力を合わせましょう!
 

李熙子さん(太平洋戦争被害者補償推進協議会)

 

 私たちは提訴以来、皆さんたちにとてもお世話になってきた。それは言葉で言い表せないほど、心強く思っている。過去の不幸な過ちは、これから一緒に未来に向かってやり直していくしかない。私たちに生存者がいることはとても大きな財産。彼らがいる限りとどまってしまうわけにはいかない。皆さんの顔を見ると兄弟のように思える。木を育てるように、皆さんとの関係を育てていきたい。原告の人数と比較すると、支援者の数は少ない。もっともっと増やしていきましょう!


菱木政晴さん
(小泉靖国参拝違憲アジア訴訟団事務局長)

 

 小泉靖国参拝「おかしい人」発言名誉毀損訴訟は7月30日に結審。空襲で死んだ人には、補償は支払われないが、靖国に祀られた人に見習って君のため、国のために死んだら、その死に対しては、「褒美」としてお金がでている。沖縄では壕から日本兵に追い出され死んだが、「軍事行動に協力した結果の死」だと遺族が申請すれば、ご褒美として遺族年金が支給された。泣きやまぬ赤ちゃんを日本兵の威嚇のもとに殺したが、「軍事行動に協力して、死んだ」と申請したら遺族年金が支給された。GUNGUN原告が、靖国に祀るなと訴えている。その人たちに「なんとおかしな人たちがいる」と発言した小泉は、二重の侮辱をしたことになる。

今回来日した原告の紹介

左から鄭元九さん・李在燮さん・李炳柱さん
(全抑協主催の昼食会で)

李炳柱(イ・ビョンジュ)さん(韓国シベリア朔風会会長)

 平壌に住んでいて43年に卒業。図門(ドモン)の満州国税関の職員をしていた。25年生まれの「徴兵2期」にあたる。45年8月平壌44連隊に入隊。満州北端のハイラル505部隊で軍服に着替えている最中にソ連軍が南進。無条件降伏後、ソ連軍の捕虜となり、トラスノヤルスク34地区、ハバロフスク16地区の捕虜収容所で、口では言い表せないほどの強制労働をさせられ、飢餓と疾病で死亡した者が200余名。「私は運が良くてバラック小屋が最初からあった。飢えで凍った馬糞とジャガイモを間違えることもあった」「零下40度の極寒での森林伐採作業で背中の汗が凍りつき死んだ人も多い」という。46年6月に「何とかしよう」と、片言のロシア語で朝鮮人がいることを知らせようとしたが「朝鮮人がここにいるはずがない」と言われた。所長に面会に行き、会って話しをすると、所長は「捕虜名簿が朝鮮人でなく、日本人になっている」と驚いた。九死に一生を得て48年12月に、3年4ヶ月の捕虜生活を終えて帰国。1949年に越南、韓国に居住。

 「シベリア朔風会」は、91年12月に8人が集まったのが最初。その後全国に呼びかけると56人が集まり、名簿を作った。今、28人が生き残っている。(「朔風」とは「北からの強い風」という意味)

李在燮(イ・ジェソプ)さん(韓国シベリア朔風会副会長)

 45年8月に平壌工兵隊に入隊、北満州国境に位置するハイラズ20495工兵部隊に配属。ソ連軍の空襲を受け、日本が連合軍に降服しソ連軍の捕虜になってズンビシベリアグラスノヤルスクラという都市の第一収容所で3年5ケ月の捕虜生活。シベリア気候で飢餓と人問以下の生活で大勢の軍士が死亡した。48年12月にナホトカ港から興南に到着し捕虜生活を終えた。故郷が南の韓国になる約500人は38度線を渡ってクォゼ収容所へ。共産主義国から帰ってきたといって思想調査を受けた。就職もできず外出も警察署の許可なしにできなかった。

鄭元九(チョン・ウォング)さん

 45年5月、志願兵を拒否するや否や、派出所長と同行した憲兵によって強制的に咸鏡北道フェリョンの日本軍陸軍部隊に引っ張られた。特殊攻撃等訓練を終え、満州地域圖門に配置。ロシア軍が突然宣戦布告、捕虜に。毎日大量の軍需物資を車に載せる作業、空腹と激しい労働に耐え難い生活。各種疾病と、寒さに無防備な軽装の多くの仲間が、酷い寒さと病魔に苦しみ死んでいった。46年2月ロシア軍が捕虜を釈放。疾病にかかり助けを受け、かろうじて延吉駅まで行くことができた。