在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター

「未来への架け橋」 NO.75 (2013.11.30発行)

「沖縄兵站慰霊之碑」でチェサを行なう権水清さん
(11月17日)

韓国政府がはじめて韓国人靖国合祀を批判
遺骨を故郷・韓国に帰すためのDNA照合要請の行動へ前進!
 
 10月23日、ノー!ハプサ(合祀)訴訟控訴審判決が東京高裁でありました。判決は一審判決の内容を踏襲した上で、韓国人にとっての靖国合祀の意味を完全に無視。それどころか、「戦争に殉じた者又はその遺族が被控訴人靖国神社への合祀を望んでいると信じるに足る合理的な理由がある当時の状況下で…相応の合理性があった」と、一審以上に合祀を容認する判決でした。韓国政府は「当事者とその遺族の名誉・人格に対するとてつもない侵害だ」と今回の判決・韓国人合祀を初めて公式に批判しました。
 11月、GUNGUNはNPO法人「戦没者追悼と平和の会」の塩川さんと連携して、沖縄戦に動員された権水清さんのお父さんの部隊を調査し、足取りが判明した場所でチェサを行い、今も年100体以上発掘される遺骨とのDNA照合を求める沖縄県要請に立ち会いました。シベリア抑留被害者のDNA照合では韓国人を排除しておき、司法では靖国合祀を容認する今の日本の現実。政府を突き動かす行動へのご支援をよろしくお願いします。

権水清さんのお父さんの足取りを発見しチェサ(祭祀)を実現!
& 発掘遺骨とのDNA照合を沖縄県に要請

「戦没者追悼と平和の会」塩川さん主催沖縄行動同行記(古川)

 11月15日から、NPO法人「戦没者追悼と平和の会」理事長の塩川正隆さんの主催で、沖縄戦への動員遺族の権水清(クォン・スチョン)さんを沖縄に招き、お父さんの足跡をたどって、チェサを行い、沖縄県にDNA検体を預けて発掘遺骸との照合要請を行う行動が取り組まれました。GUNGUNから私、上田、木村の3名が同行しました。
 今回の最大の成果は準備段階で、権水清さんのお父さん(権云善さん)の足取りの一部がつかめたこと。これまでは慶良間の阿嘉島に行ったのではないかと考えられていたが、塩川さんと「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんの調査で、本部町史に「陸軍特設水上勤務第104中隊」(以下「特水勤104中隊」)の陣中日誌があり、そこに権云善さんの名前を発見した。所属部隊は同隊第3小隊第3分隊である。(阿嘉島への派遣は45年2月に第1小隊)そして私がネットから検索して、内閣府が開設する沖縄戦データ公開サイからその陣中日誌の手書きの原本を確認。名簿の軍夫が45年9月に作業していた読谷村渡具知での配置図を発見した。また塩川さんが「平和の礎」の端末から、上司である小隊長の海堀太一郎少尉の出身地が和歌山県であることをつかみ、私が和歌山県庁に問い合わせ、回答を得た。回答に「特水勤104中隊」の戦歴表が添付されており、那覇に上陸後、与那原に本部を置いて渡具知に作業に派遣されたこと、米軍上陸後は兵士と行動を共にし、南部へ追い詰められ、最後は45年6月22日に兵士と一緒に斬込みを行わせて玉砕したことが判明した。一方、玉砕の地と思われる糸満市大里に「沖縄兵站慰霊之碑」があり、「特水勤104中隊」の文字が刻印されていることが次々と判明した。塩川さん、具志堅さん、GUNGUNのチームワークで、今までわからなかったことが次から次へと判明したわけである。こうして権水清さんを沖縄へ迎える準備が整った。

「毎年100体出てくる遺骨と、権水清さんのDNAデータの照合を」(具志堅さん)

 11月15日、那覇空港国際線で塩川さんと合流し、権水清さんと金鎮英さんを出迎えた。「笹の墓標」で知られるドキュメンタリー監督の藤本幸久さんがカメラを構える。ゲートを出てきた権水清さんとがっちり握手、固く抱擁した。
 ホテルへ移動後、具志堅さんと対面。沖縄での行程を確認。塩川さんからは「今回重要な点は、沖縄戦で行方不明の権さんの父と私の父の遺骨を探すために、DNAデータ化を要求するということ。検体キットを持ってきたので明日採取したい。これでもし100年後に遺骸が出てきても遺族のもとに帰ることができる。自分の父は権さんと同じように生死不明だが、その後が違う。生死不明のまま放置している日本政府を許してならない。問題は多くの日本人がその事実を知らないということ」と行動の意義を強調。具志堅さんは「沖縄では今でも毎年100体以上の遺骨が発掘されている。摩文仁にある「国立沖縄戦戦没者墓苑」に収骨されているが、従来は火葬されていた。火葬してしまうとDNAが取れなくなるので、県議会に中止を陳情し、現在は火葬されていないはず。政府は遺骨が誰かわかればDNA鑑定すると言っているが、遺品がない限りほとんど名前はわからない。毎年100体出てくる遺骨と、権水清さんのDNAデータの照合をしてもらうことが早道。沖縄戦犠牲者に日本人、沖縄人、朝鮮人の差を設けてはならない」と沖縄の現状と問題解決の道筋を提示した。

那覇空港で権水清さんと塩川さん ホテルで打ち合わせ ホテルでDNA採取

お父さんが見た風景が目の前に広がる(読谷・与那原)

 16日は朝からタクシーに分乗して、読谷村に向かう。渡具知公民館には集落内の案内地図があり、陣中日誌から発見した戦時中の地図と比べて見る。軍用道路や海岸線は当時のままだ。具志堅さんがたまたま海岸近くを歩いていた老人、大湾さんに声をかける。大湾さんは小学2年生だった44年当時、自分の家が朝鮮人軍夫の炊事場に使われ、半年ほど4人くらいがいたという。陣中日誌の古地図を見てもらうと、そこに書かれている炊事場の家が大湾さんの自宅だという。なんという偶然か。今も住んでいる家に行くと大湾さんは一旦家に入って一枚の写真を持って出てきた。米軍が上陸後撮影した当時の茅葺の家で、艦砲射撃で屋根に穴があいている。まさか当時の写真まで目にできるとは。権水清さんの手元にはお父さんの写真がないだけに、お父さんが生活した当時の写真を前に感慨深げだった。大湾さんの案内で海に出ると、海岸沿いの崖に特攻艇用の洞穴が3つ掘られていた。奥行きが30m以上のものもある。古地図に揚陸場と書かれている別の地点へ行くと、地図に「電信所」と書かれている場所に「電信所記念碑」が立っている。目の前の海岸は、まぎれもなく44年9月に権云善さんが労働した場所だ。権水清さんの目に映っている景色は間違いなくお父さんが見た風景だ。権さんは、あふれる涙をぬぐいながら祭壇に供える海岸の石を集めていた。
 午後は与那原に向かった。与那原小学校前の空き地に44年当時、国民学校があった。そこに「特水勤104中隊」が宿営していた。陣中日誌によればここから先ほどの読谷村などへ行き来していたことがわかる。少し離れた場所に当時荷役作業を行った軽便鉄道の与那原駅跡があった。戦後はJAの建物が建っていたそうだが、今は取り壊された後の土地が広がる。その一角に当時の駅舎の基礎が残っていた。権水清さんは無心に地面を探している。そして何らかの骨辺を発見した。具志堅さんは「ひょっとすると人骨かも知れないので、あとで琉球大学の先生にみてもらいましょう」と提案した。その後人骨でないことが判明したが、権さんの遺骨へのこだわりが深まっていることがよくわかった。

公民館の地図 陣中日誌の地図と照合 大湾さんと出会う
当時の家の写真が 権水清さんと大湾さん 特攻艇用の洞窟
 
お父さんの見た風景の中で 当時の駅舎の基礎が残る  

所属部隊最期の地でチェサ「アボジ、息子がここに来ました」

 17日、いよいよチェサの日である。NHKが同行して、糸満市大里にある「沖縄兵站慰霊之碑」へと車を走らせた。県道7号線沿いに慰霊碑はある。正面の碑銘の下部に「特水勤104中隊」の文字が刻印されている。慰霊碑の奥にはガマ(洞窟)があった。入ってみると奥へと続いている。権さんはここでも遺骨がないかしきりに探していた。
 慰霊碑に戻って、韓国から持ってきた梨、リンゴ、柿、キムチ、干しダラ、伝統菓子などを盛り付けて祭壇が作られた。正面には韓国で制作した「お父さん、お父さん、息子がここに来ました」と書かれた横断幕が、横には「アボジを探す記録」と銘打ち、今まで厚労省や政府記録保存所から手に入れた記録が印刷された横断幕が広げられた。本来なら正面には遺影が飾られるが、権さんの場合、写真が一枚も残っていないので、厚労省からの「生死不明」の回答文書が額縁の中に入れられている。権さんの無念の思いが凝縮されたものだ。そして準備が整った。黄色い喪服を身にまとった権さんが、韓式でチェサ(祭祀)を行う。「お父さん、今日は息子の酒を受けて悲しみや苦痛、悔しさを忘れてください」と呼びかけ、慰霊碑のまわりに韓国のお酒を捧げた。その後参列者全員がお参りし、チェサは終了した。慰霊碑の脇にあるハイビスカスに蝶々が舞う。ニューギニアでの祭祀のあともそうだったと聞くが、お父さんが「よくここまで来てくれた」と言っているような不思議な感じがした。一通りマスコミ各社のインタビューを受けた権さんに終了後、上田さんが声をかけて再度ガマに入っての献酒をすすめる。韓国のお酒を持ってガマに入った権さんは丁寧に捧げた後、出る際に中に向かって呼びかけた。「アボジ、カムニダ」(お父さん、行くよ)と。

碑に104中隊の記録が ガマで遺骨がないか探す チェサを行なう
献酒する権水清さん お父さんに声をかける 韓国人慰霊塔で

平和の礎を見学し「父の名前を刻銘してほしい」と

 
  沖縄県への要請
 
  要請する塩川さんと権水清さん
 
  記者会見
 
  記者会見の様子

 チェサの後は、摩文仁の丘に向かった。まず「国立沖縄戦戦没者墓苑」へ。沖縄では戦後どこを掘っても遺骸が出る状況だった。各地の住民は遺骨を一箇所に集め、そこに慰霊碑を建てた。1957年には、政府が那覇市に戦没者中央納骨所を建設したが、収骨数が増えたため79年に「国立」として墓苑が建設され移転された。HPには「戦没者18万余柱が納骨」とある。ひょっとすると権さんのお父さんの遺骨もここに眠っているのかも知れない。
 その後、「韓国人慰霊搭」へ寄ったあと、「平和の礎」へ行き、韓国人の名前や塩川さんのお父さんの名前を確認した。すると権さんから「父親の名前を刻銘して欲しい」と希望が出て、翌日の県庁要請に平和の礎への刻銘も加えることになった。
 この日のチェサの模様はNHKで夕方と夜放映された。また滞在中は毎日のように大きく沖縄タイムス、琉球新報、日本経済新聞などで報道された。

沖縄県へのDNA要請・「平和の礎」刻銘要請のあと記者会見

 18日朝から県への要請を行うため県庁へ。福祉援護課に対して、DNAデータ化の要請を行った。塩川さんから「権さんと私の口の粘膜をとって、DNAキットにしているので、受け取ってほしい」と要請したが、県側は「遺族のDNA鑑定は厚労省がやっているので受け取れない。国と調整いただきたい」と受け取りを拒否した。塩川さんから「沖縄にはまだ遺骨を調査すべきところが多くある。県からも政府に積極的に働きかけてほしい」と要請。またDNA鑑定に関する神戸新聞の記事を提示して「この記事は兵庫県警のものだが、難しいことではない。DNA照合を希望する遺族がどれくらいいるかわからないが、1万人いたとしても2億円の予算で足りる。沖縄県として頑張ってほしい」と念を押した。権さんから「お父さんの遺骨がDNA照合ではっきりすれば自分の気持ちがすっきりする。日本政府がやるべきだが、沖縄県からも働きかけてほしい」と言うと、県は「沖縄県も戦争に巻き込まれた経緯から県民から同様の意見を聞いているので、国に言っていきたい」と答えた。最後に具志堅さんから「これまで遺骨収集の対象は日本兵と沖縄人だけしかなかった。今回、朝鮮人もいると突きつけられた。発掘した遺骨は混在している。DNA照合を要求する際に、本土と沖縄だけではないことを考えないといけない。国はそういう意識、配慮が足りない。我々が声をあげないといけない」と言うと、県は「そういうことを念頭におきたい」と答え、要請を終了した。
 その後、平和・男女共同参画課に対して「平和の礎」への刻銘要請を行った。県は「2010年に最後の刻銘を行っているので、確認しながら手続きをやっていきたい」と説明し、今後韓国側と連絡を取り合いながら具体的な手続きを進めることになった。
 行動の最後は県庁での記者会見である。塩川さんから「DNA照合の要請は県は窓口になれないと断わられたが、NPOとして遺族のDNAデータ化を進めて今後に備えたい」と決意が語られた。そして権さんは「沖縄は今回4回目だが、今までにない前進があっていい気分だ。過去に厚労省から「行方不明」という通知が届いた。生きた人間を連れてきて責任を取らずに行方不明とは人間のやることか。個人で探すのは限界があるので、皆さんが報道して政府が対応できるようにしてほしい。親の遺骨を探し出して子の道理をなんとかしたい」と行動全体を振り返った。

今回の成果と今後の方向性を確認

 今回の成果は、@これまで何もわからなかった権さんのお父さんの足取りが見えてきて、亡くなった可能性のある場所に少しでも近づけたこと。A毎年100体の遺骸が発掘され、ようやくDNA照合の端緒についた沖縄で、「沖縄人、日本人、朝鮮人の差別なく」照合の必要性が確認できたこと。B「平和の礎」への刻銘が権さんにとって実現可能な目標になったことである。
 今回の行動を準備してくれた塩川さん、具志堅さんに心から感謝申し上げます。
 現在、日本政府は硫黄島やシベリアで発掘された遺骨を遺族に返すためのDNA照合を行っていますが、韓国人は排除されています。GUNGUNでは、12月7日に塩川さんと韓国から遺族(ヒジャさん、南さん)を招いて、講演とDNA照合の相談会を行い、その後、東京へ移動し、厚労省へDNA照合の要請を行います。ぜひご支援をよろしくお願いします。

ノー!ハプサ訴訟の控訴審判決・新「合祀取り消し訴訟」提訴報告(山本)

一審判決以上にヤスクニの論理に一体化した判決

 10月23日、午後2時より、ノー!ハプサ訴訟の控訴審判決が、東京高裁101号法廷で言い渡されました。裁判所は「判決要旨」を準備していましたが、その朗読さえすることなく、「控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は控訴人の負担とする」と告げ、ものの30秒で裁判官は法廷を去ってしまいました。「判決要旨」を準備したからには何か新しいことが書いてあったのかと思いましたが、一審同様、私たちが綿密に準備した植民地支配の歴史的事実、韓国人にとっての靖国神社、靖国合祀の意味については完全に無視。それどころか、「遺族のみに優越的地位を認めているものとは解し得ない」「当時の国会の答弁から窺えるように戦争に殉じた者又はその遺族が被控訴人靖国神社への合祀を望んでいると信じるに足る合理的な理由がある当時の状況下で…被控訴人靖国神社が被控訴人国に協力を求めたことも、被控訴人国がこれに応じたことにも、相応の合理性があった」「祭神簿及び祭神名票の訂正手続がとられたことにより、控訴人金希鍾は、被控訴人靖国神社の合祀から離脱し、合祀されたことにはなっていない」と、一審よりさらにヤスクニの論理に一体化した判決でした。特に「合祀されたことにはなっていない」と宗教的判断に裁判所が堂々と踏み込んで靖国神社を擁護したのには驚くばかりです。
 判決後の記者会見で原告の李煕子さんは「これは判決なんて言えるものではない。ただ靖国の主張を裁判所が受け入れた、それだけです。本当はあの場所で机をたたいて判決文を朗読しろと大きな声でどなりたかったんですが、声が出ませんでした」と怒りをあらわにしました。同時に「昨年の5月24日、韓国の最高裁の判決で勝訴する前に原告たちに今日は負けるんだとみんな信じ切っていました。しかし我々は勝訴しました。なぜ勝訴できたかというと我々は闘いをあきらめないでずっと続けてきたからです。だからこの靖国の訴訟も最後まで熱心に頑張りぬけば必ず勝利すると思います」とさらなる支援を呼びかけました。

判決後高裁前で 靖国へ申し入れ 靖国申し入れ後

靖国神社の不当な対応を踏まえて新「合祀取り消し訴訟」を提訴

 判決に先立つ10月22日の午前、李煕子(イ・ヒジャ)さんと共に来日した遺族の南英珠(ナム・ヨンジュ)さん、朴基哲(パク・キチョル)さん、朴南順(パク・ナムスン)さんが、靖国神社を訪問しました。以前から申し入れを通知していたにも関わらず、靖国神社は「23日の判決の結果次第で会うかどうか判断する」と面会を拒否。遺族は靖国神社の境内で横断幕を掲げて抗議し、合祀取り消しを求める27人の遺族の連名の申し入れ書を渡しました。靖国神社は道をふさぎ、社務所に入らせない等、「靖国の遺族」に対する対応とは思えない不当な対応に終始しました。
 こうした靖国神社の不当な対応を踏まえて、22日の午後に、27人の遺族が新たに合祀取り消しを求める訴訟を東京地裁に提訴しました。新訴訟では合祀取り消し請求とともに、「靖国で会おう」の虚構と一体として、戦地に放置されてきた遺骨の調査・返還を求める請求を加え、靖国神社の本質をあばく訴訟となります。

提訴 提訴後の記者会見 集会

韓国政府が初めて公式に韓国人合祀を批判

 今回の不当判決について、韓国政府は「韓国人の強制徴兵・徴用犠牲者の意志に反して帝国主義侵略の歴史を美化する靖国神社に合祀する行為は、当事者とその遺族の名誉・人格に対するとてつもない侵害だ」と初めて公式に靖国神社の合祀を批判する記者会見を行いました。韓国人が靖国神社に合祀されていることの問題性への理解がようやく広がってきました。闘いはこれからです。今後とも韓国人合祀取り消し実現に向けて、ご支援をお願いします。
 



新「合祀取消し訴訟」原告とふれあって(中里)

 10月21日、新たなノー!ハプサ2次提訴のために南英珠(ナム・ヨンジュ)さん、朴南順(パク・ナムスン)さん、朴基哲(パク・キチョル)さんが来日されました。ノー!ハプサ1次訴訟の李熙子(イ・ヒジャ)さんが、100回以上海を渡らねばならなかったように、今回の訴訟でも原告の方々に辛く重い気持ちを抱いて来日していただくことが今後多々あるかと思うと、少々緊張して羽田空港へ出迎えに向かいました。アンニョンハセヨで終わってしまう私の乏しい韓国語でも、原告の方々はいつも笑顔で手を握り、ねぎらいの言葉で緊張をほぐしてくれるのです。今回も然り!でした。
 原告の皆さんの動きは、21日夜、弁護士さんたちとの最終打ち合わせ。22日午前、靖国神社への合祀取り消し申し入れ。午後、弁護士さんが提訴手続きをして記者会見23日、最低最悪の1次訴訟判決が出、夜「靖国合祀取り消しへ新たな一歩」集会参加と、いつものことながらハードなスケジュールでした。
 記者会見や集会で原告の方々は、「人々を強制的に連行して死なせた上に、さらに承諾も得ずに靖国神社に合祀した。死んでも植民地支配を受けさせることは、被害者とその家族にまで悲しみを抱かせ、怒りに震えさせることだ」「強制動員被害者の立場を考えもせず、靖国合祀を平気で勝手に行っている日本政府と靖国神社は、過去を反省し、今からでも許しを請うべき」「子どもの生死も知らずにこの世を去った親の恨を解いてあげたい。そして兄の名前を靖国神社からなくしたい」と、合祀取り消しにかける強い気持ちを表明されました。
 南英珠さんは大切に持ってきたお兄さん(南大鉉さん)の写真を掲げ、また朴南順さんは「父が連行された時、私は母のお腹の中で会ったことすらない」と涙ぐまれていました。
 22日の靖国神社申し入れの様子も少し・・・ 靖国神社へ面会の申し入れをしたにもかかわらず、対応は出来かねるという失礼な態度だったため、靖国神社の都合に合わせる必要は無いと22日の訪問になりました。大鳥居に集合し、韓国メディアをはじめ数社からの取材を受け、その後、横断幕を持ち≪ノー!ハプサ≫のシュプレヒコールで、進みました。少したつと、事態に気づいた守衛たちがあわてふためきましたが原告たちは果敢にも「アボジがここにいるんだ返せ!」「オッパを返せ!」と守衛たちを振り払いながらかなりの距離を進みました。社務所玄関での立ったままの申し入れとなり、申し入れ書は受け取るが抗議は受け入れられないという態度に終始しました。これからも靖国神社は人間としての尊厳を取り戻すまで闘うという原告たちの怒りに満ちた抗議を受け続ける所になることでしょう。
 厳しい状況の中でも時には、「日本のものには抵抗があるけど、うどんは美味しくていいわ」「釣りが好きなんです。いい釣り道具はないかな」と、顔をほころばす原告の皆さんでした。強い決意を持って行動する原告の皆さんの姿には、胸打たれ、どこまでもハムケ(一緒に)歩んで行きたいと思いました。

南英珠(ナム・ヨンジュ)さん 朴南順(パク・ナムスン)さん 朴基哲(パク・キチョル)さん

10月14日「反日判決なのか?7・10ソウル−7・30釜山判決を考える」集会報告(中田)

 昨年5月に強制連行被害者の損害賠償請求権を認めた韓国の大法院判決を受けて、7月10日にソウル高等法院が一人当たり1億ウォンの支払いを新日鐵住金に対して命じ、7月30日には三菱重工を被告とした事件に同様の判決が出され、そして11月1日に光州地裁は、昨年5月の大法院判決以降に韓国内で被害者が訴えていた3つの裁判の中ではじめて、名古屋三菱に女子勤労挺身隊員として強制連行された被害者一人当たり1億5千万ウォンの支払いを命じました。このような状況のもとで、10月14日に東京都内で「反日」判決なのか?7・10ソウル−7・30釜山判決を考える」と題して、張完翼さん(弁護士・ヘマル法律事務所、両訴訟の原告代理人)、五味洋治さん(東京新聞記者・編集委員)、吉澤文寿さん(新潟国際情報大学教員)、川上詩朗さん(弁護士・日弁連―日韓弁護士会戦後処理問題共同行動特別部会)の4人のパネリストを招いてシンポジウムが開催されました。今回のシンポジウムは、日本政府はもちろんのこと、日本の主要マスコミも「日韓請求権協定で最終的に解決済み」(菅官房長官)という政府の姿勢に追随し、一斉に「日韓合意に反する賠償命令だ」(読売)「根拠なき要求に拒否貫け」(産経)「日韓両政府とも重荷に」(東京)「国家間の合意に反する」(毎日)と批判の社説を掲げ、読売新聞は「反日世論の高まりと無縁ではあるまい」などと、「反日」判決と決めつけるなかで、この間の韓国の一連の判決が、果たして本当に「反日」判決であるかを検証する企画として開催されました。
 まず、日本政府は一貫して「日韓」条約ですべて解決済みであると主張していますが、日本の植民地支配がもたらした強制連行被害者の傷=「恨」は、いまだに癒されていないという厳然たる「事実」が存在します。シンポジウムでは、西松建設事件の最高裁判決は、裁判上では権利の主張はできないとしたものの「個人の損害賠償請求権は消滅していない」点で一連の韓国の判決と共通であること、韓国の大韓弁護士協会と日弁連がこれを手掛かりに解決の道筋を考えつつあること、今回の判決は一部言われているような韓国の「左派」の判事が出した「特異」な判決などと言うのはまったく根拠のないデマであること、また、日本のこれまでの判決は、日本国憲法が掲げる平和主義にも反し、植民地支配の被害回復を認めていこうとする世界的な流れにも反するなどの報告がされました。
 日本の植民地支配下の強制連行・強制労働の被害に対する「個人請求権」は消滅していないことを軸に「慰安婦」問題とともに解決の道筋について、多くの示唆を与えてくれる集会でした。

12月7日(土) 遺骨を故郷・家族のもとへ 日韓遺族の証言集会
 場所:エルおおさか(地下鉄谷町線・京阪「天満橋」駅下車5分)3階文化プラザ
 13:30 写真展とニューギニア・沖縄での映像 
 14:00 塩川さん講演「日韓遺族の連携に向けて〜遺骸調査にこだわる理由」 
      ノー!ハプサ新訴訟韓国人遺族(南英珠さん、李煕子さん)
      沖縄での戦地追悼とDNAデータ化要求の報告 
 16:00 DNAデータ化要求相談会

映画紹介

  『60万回のトライ』  

 
   

      
 高校ラグビーの強豪・大阪朝鮮高校のドキュメンタリー映画『60万回のトライ』が完成した。2014年春に公開される。監督の朴思柔さんは、来日後韓国テレビ局のニュースレポーターとして活動。私たちグングンスタッフが会ったのも2007年インタビューの場だった。その後乳がんを患い闘病しながら3.11以後東北の朝鮮学校を回り支援と取材に奔走していると聞く。この映画もそんな中3年間の密着取材により制作された。2010年日本政府は高校無償化の対象から朝鮮高校の生徒のみ除外。ラグビーに青春をかける在日朝鮮人の高校生たちの日常から日本の現実に向き合う姿も描かれている。鶴橋、新大久保周辺で繰り広げられるヘイト・スピーチ(憎悪表現)は、その場に立つと戦慄すら感じるが、憎しみの応酬では解決しない。「ラグビー精神“ノーサイド”から学び続ける彼、彼女らが発する“声”に耳を傾けてほしい。」と訴えている。音楽はあの「あまちゃん」主題歌を作曲した大友良英さんが担当。楽しみだ。  ホームページ
【プレミアお披露目上映会】
 1月18日(土) 大阪東成区民センター 2月22日(土) 東京 日暮里サニーホール

GUNGUNインフォメーション

12月 7日(土) 出版記念・トーク集会「なぜ、いまヘイト・スピーチなのか」
            14時15分〜 ハロー貸会議室永田町
12月10日(火) 日韓会談文書公開請求第3次訴訟控訴審第2回口頭弁論
            11時 東京高裁809号法廷
12月13日(金) 東京総行動(戦後補償関係)
            10時20分〜 新日鉄住金本社前(東京駅丸の内口)
            12時45分〜 三菱重工業本社前(品川駅)
            14時30分〜 不二越本社前(汐留)
12月14日(土) 国連人権勧告の実現を!
            18時45分〜 明治大学リバティタワー6F1063号室(JR御茶ノ水駅)
12月23日(月休) 公開シンポジウム「植民地支配清算と情報公開」
            13時30分 中央区立日本橋公会堂3・4号洋室(東京メトロ半蔵門線水天宮)
            主催:日韓会談文書前面公開を求める会
12月25日(水) 新日鐵住金本社宣伝行動(8:30-9:30)、
12月27日(金) 新日鐵住金大阪支社宣伝行動(8:15-8:45)