在韓軍人軍属裁判の要求実現を支援する会ニュースレター

「未来への架け橋」 NO.71 (2012.12.2発行)

太平洋戦史館の岩淵さんを訪問した韓国チーム

左から、南相九さん、金敏浮ウん
李煕子さん、南英珠さん
(2012年11月2日〜4日、岩手)

日韓会談文書公開訴訟で画期的勝訴。未解決分野の検証を!
韓日遺族の絆を深める行動を積み上げよう!

 10月11日、日韓会談文書公開請求第3次訴訟で、不開示文書の約7割の開示を命じる画期的な判決が出されました。判決は「30年を経過した外交文書を不開示とするには相当な理由が必要」と明確な基準を示しました。外務省は控訴しましたが、一方で一部の文書開示に応じる表明をしました。過去清算上何が未解決なのかを検証するためにも、交渉記録の全面開示を勝ち取りましょう。
 8月パプア訪問の成功を受け、韓国側代表が11月2日から岩手を訪問しました。その結果、韓日遺族の連携をより積極的に行い、戦地に放置された遺骨の調査を共同で取り組んでいくことを確認しました。国境を越えた絆をさらに広げて、未解決の問題に切り込んでいきましょう。

李熙子さん(太平洋戦争被害者補償推進協議会共同代表)からのメッセージ

「流れゆく歳月と皆さんへの慕わしさ、そして感謝」

 こんにちは。太平洋戦争被害者補償推進協議会の李熙子です。

 
 

李熙子さん、南英珠さん、岩淵さん

 
 

パプアで祭祀

 
 

南三陸町で手を合わす

 2012年の年が暮れる 12月が近づいています。矢のように流れゆく歳月を心残りに思いながら私たちはその後を追っているかのようです。やらなければならないことはとてもとても多いのに、振り返ってみると歳月がとても速く過ぎていくと思いながら一日一日を過ごしています。しばしばお目にかかっている方々には長年にわたる厚い親しみを感じ、 忘れずに関心を持ってくださっている方々には有難いという気持ちで一杯です。この間、グングン裁判を支援してくださった多くの方々の有難い真心があったから、誰も行ったことのない新しい道を切り開いてここまで来ることができました。その道を皆さんが一緒に進んでくださり、一緒に学びながら活動する幸せがありました。この間、私たち被害者を助けてくださった方々にお一人お一人ごあいさつ申し上げることができずに申し訳ありません。その代わりとして、ここに心の中から深い感謝の気持ちをお伝えします。

 そして去る 8月、パプアニューギニアでお父さまが犠牲になった高仁衡さんとお兄さんが犠牲になった南英珠さんの遺族お二人が直々に追悼祭をあげることができるように助けてくださった方々の真心を忘れはしません。パプアニューギニアの海辺で息子と妹さんが追悼祭をあげるのを見ながら、その行事のために心を砕いてくださった皆さんの真心が思い浮かびました。長い歳月を経て今やっと息子と妹さんが訪ねて来たのです。皆さんの助けを借りて執り行う祭祀ですから、犠牲になられた方々にも一層の慰労になったことと思います。改めまして誠にありがとうございました。本当に本当にありがとうございました。

 11月初め、パプアニューギニア巡礼を一緒に準備してくださった岩淵さんに会うために岩手県へ行きました。仙台空港に到着してすぐに2011年3月11日の地震津波の被害を被った現場を見て回りました。がらんとした家の跡地と瓦礫の山が積もっている惨状を見ながら私は心から犠牲になった方々の冥福を祈りました。そしてまた、4日に帰る途中で被災現場にもう一度行って見ました。壊れた家と道路や街は、歳月が経てばまた建てられるけれど、その日その場で家族を失った人々の痛みが癒えることができるでしょうか。多分歳月が経っても忘れはしないでしょう。そう思うと心がとても痛みました。

 私は、この間お力を貸してくださった方々の有難い真心を長く長く心の中に留めて活動しながら、お互いの痛みを分かち合う時間を作りたいと思います。歳月と慕わしさ、そして感謝の気持ちを抱いて、共に韓日共同交流と連帯がもっと堅固になることを願っています。幸せに笑って会えるその日までお元気でおられることをお祈りいたします。
 
     2012年11月  太平洋戦争被害者補償推進協議会   共同代表 李熙子

古川佳子さん(靖国合祀イヤです訴訟)からのメッセージ

 
   

 今回、パプアへ行った南英珠さんと同じく、お兄さんを戦争で奪われた古川佳子さんからお手紙をいただきました。
 ご本人の了解を得て紹介させていただきます。(木村)


 今日は(9/17)未来の架け橋70拝受。さっそく「パプアニューギニア訪問記」を一気に読みました。困難な旅ながら岩淵さんの努力で、高仁衡さんと南英珠さんが父上、兄上のチェサを行われたこと、その状況を想像して、私も胸がいっぱい、涙いっぱいになりました。
 私の母が、おおまつよい草の咲く川原で、亡き子二人の名を声をかぎりに呼ぶ光景と重なりました。南さんが「どうして、誰のためにこんな遠いところで死んだのでしょう。悔しかったでしょう・・・」。日本国家は何というひどい事をしたのでしょう。責任を逃れた輩が、戦後のこの国を恥知らずの国にしてしまいました。
 皆さまによろしく。ご同行、本当にご苦労さまでした。有難うございました。

「遺骨調査」の法的根拠をご存知ですか?

 皆さん、厚生労働省のホームページを見られたことはありますか? 下のURLをクリックしてみてください。すぐに厚労省が現在行っている太平洋戦争での「戦没者慰霊事業」のページが出てきます。
   http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/seido01/index.html
 「(2)海外激戦地等からの遺骨帰還や慰霊巡拝」の欄に明確に下記の数字をあげています。

   「未帰還遺骨概数 約113万柱」、「御帰還が可能な遺骨(推計) 約60万柱」(平成24年3月31日現在)

 そして戦後67年経過した現在もなお、遺骨調査・収集を実施しているのですが、その法的根拠はご存知でしょうか? 実は法律はないのです。下記は2006年に民主党の谷博之議員が行った「戦没者の遺骨・遺体等に関する質問主意書」に対する政府の回答です。

 厚生労働省においては、厚生労働省設置法及び「米国管理地域における戦没者の遺骨の送還慰霊等に関する件」(昭和27年10月23日閣議了解)に基づき、昭和27年6月16日の衆議院海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会における海外諸地域等に残存する戦没者遺骨の収集及び送還等に関する決議を踏まえ、戦没者の遺骨収集を行ってきているところである。厚生労働省においては必要な体制を整備して遺骨収集を行ってきているところであり、新しい組織を設けることは考えておらず、また、戦没者の遺骨収集に関する法案については、現時点では検討していない。z

 回答からわかるとおり、国は戦争犠牲者の遺骨調査のための法律を、過去も今後も作る意思がないのです。戦前の体制が戦後も続いた靖国合祀と同様なのです。

遺骸調査をする岩淵さん ニューギニアに放置された遺骸

 以下は軍歌として有名な「海ゆかば」のフレーズです。
 「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ」
 遺骨調査・収集に関する民主的な立法が求められる理由です。

さらなる韓日遺族の共同行動に向けて交流
                     岩手訪問報告 (古川)

 11月2日から韓国チームと一緒に岩手を訪問した。目的は、8月に行なった「帰れなかった家族のために・韓日合同パプア巡礼民間外交使節団」でお世話になったNPO法人太平洋戦史館代表理事の岩渕宣輝さんに、韓国側として直接お礼の意思を伝えることと、今後の韓日遺族の絆を強める具体的な方針を議論するためである。

 

荒浜小学校

 

 仙台空港に韓国から太平洋戦争被害者補償推進協議会の李煕子(イ・ヒジャさん)共同代表、金敏普iキム・ミンチョル)執行委員長、そして今回パプアニューギニアへ訪問し兄の祭祀を現地で行なった南英珠(ナムヨンジュ)さんが到着。関西からの私と上田、そして東京に留学中の東北歴史財団の南相九(ナム・サング)さんが出迎えた。

 まず空港内に展示されている津波被害時の写真パネルを見学。思えば昨年3月下旬にこの空港から出発して岩淵さんを訪問する予定だったが、直前に起こった震災で中止せざるを得なかった。当時の被害をテレビで見た同じ空港から岩手へ向かった。途中、空港近くの海岸線を走った。道路の鉄柵はへし折れている。周辺の家屋の1階はガラスがなく、ブルーシートやベニヤ板で囲われている。荒浜小学校へ行くと、たまたま来ていた先生が当時の状況を説明してくれた。校舎は1階が完全に破壊され、2階も腰の高さまで浸水したという。生徒は3階以上に避難したため全員が無事だったが、家族が亡くなった生徒も多いそうだ。「アイゴー」、想像以上の惨状に李煕子さんたちは圧倒されていた。

 被災地を後に、一路岩手に向かう。そして日暮れが迫った頃、太平洋戦史館に到着した。車が敷地に入ると向こうから岩淵さんが「ようこそ」と大きく手を広げて迎えてくれた。一通りの挨拶とおみやげの進呈、そしてお連れ合い(太平洋戦史館事務局長)が作った自家製のホットりんごジュースで乾杯した。

太平洋戦史館 りんごジュースで乾杯 おみやげの贈呈

  開口一番に岩渕さんは南英珠さんに「精神的な変化はありましたか?」と尋ねた。南英珠さんは「なぜこんなところまで行ったのかと考えると心が痛んだが、行ってよかった。また行きたい」。李煕子さんからは「本当にご苦労さまでした。ありがとうございました。支援する会の募金も含め、協力してくれた人に感謝の気持ちでいっぱいだ」と感謝の言葉が続いた。南さんは「韓国に帰って遺族の集まりで報告しているが、皆にうらやましがられている」と、帰国後の変化を報告した。岩淵さんは「来年は1944年に亡くなった人にとっては七十回忌になる。韓国のお坊さんもニューギニアや戦地へ行ってお参りするのも意義があると思う」と。翌日は次の取り組みに向けた話し合いを行うことを決め、この日はホテルへ向かった。ホテルで南英珠さんは、今回のパプア訪問を「兄が歩いたであろう土を自分も踏めたことが一番よかった」と、亡くなった場所での祭祀の意義を熱く語った。

 翌日は朝から太平洋戦史館の展示を岩淵さんの解説つきで見学した。多くの写真や新聞記事と、ニューギニアから持ち帰った遺品の数々。そして各地の戦闘状況をまとめたファイルなどが所狭しと展示されている。岩淵さんは「第一次世界大戦時の英連邦の墓地が横浜にあって、6つの宗教で弔っている。大事なのは個別に埋葬されていること。日本では集団で一つのお墓にしている。それが千鳥が淵墓苑だが、当初は墓と表示されていなかった。『メモリアルガーデン』。理由は自民党が外国要人を靖国に案内する際に、墓が近くに あっては邪魔だったから。今はきちんと『ナショナルセメタリー』になっている」と遺骨調査活動の原点に触れた。個別埋葬して個人の尊厳を大切にする国と、名簿を「神様」と称する一方で遺骸を戦地に放置し続け、ようやく収集した遺骨も一箇所にまとめてしまった国の違い。後者には「個人の尊厳の尊重」などかけらもないということだ。さらに「今、領土問題で揺れているが、戦争をすると遺族が生まれる。今日のような遺族同士の遺族外交で情報共有と共感を伝えていきたい。私が子どものときに助けてくれたのが林(イム)さんという在日の方。今、その恩返しをしているのだと思う」と、日韓遺族の連携の意義を語った。「私は何をやって恩返しすればよいでしょう」と問う南英珠さんに「私たちは年齢的に社会の一番上にいることになるわけで、また戦争にならないような方向へ導く責任があるから、その努力をしましょう」と応えた。

展示物を見学 個人別の墓

 そして今後の方針について話し合われた。岩淵さんから「一人でもニューギニアへ行きたいという人を核に広げていけばよい。今回韓国大使館にもよくしてもらったし、今後に続ける種はまけたはず」と展望を語った。「韓国で岩淵さんを囲む集会を来年5月にやろうと思うがどうか」との問いには、「問題ない。この取り組みはずっと続く。これは人権問題。李煕子さんのお父さんが亡くなった中国も40万人以上が亡くなっているが、遺骨が戻っていないので、探さないといけないと思っている」と語った。「展示の遺品を見て、遺族が個人で資料館をここまで作ったということに尊敬の念を持つ。新しい活動をやってみたいという気持ちがわいた。家族の目線で何ができるか考えていきたい。以前から岩淵さんの話を伺っていたのに、もう少し早くここに着たらよかった」と言う李煕子さんに、岩淵さんは「遅きに失したということはない。今日がスタート」と激励した。

 昼食休憩後、岩淵さんが「韓国の人も一緒に行こう。一歩前に出よう」と切り出した。「韓国へ行って遺族と交流することも、特に領土問題が起こっているこうした時期だからこそ意味がある」と、日韓遺族の新たな共同行動に向けての始動をみんなで確認した。

今後の方針を討議 ニューギニアの地図を広げて

 翌日、帰国の日は朝早く旅館を出発し、津波で大きな被害を受けた南三陸町を目指した。町の山手にある仮設住宅や店舗を過ぎると平野部へ。そこには破壊された鉄骨がむき出しの建物以外何もない。かつて家屋があったであろう基礎が残っているだけだった。被災地に一軒だけ仮設店舗が開いていた。店長の女性はカウンターに並べた写真を見せながら「店の裏に自宅があったが流された。目の前のアパートも流された。住宅は建築制限があって建てられないが、仮設店舗は建てられるので細々と経営している」と私たちに説明してくれた。昼食用のおにぎりやお菓子をいっぱい買った後、3階まで鉄骨だけになった南三陸町防災庁舎を訪れた。そこは多くの人が訪れる祈りの場になっていた。「家族が引き裂かれたであろうと思うと胸が痛む」と李煕子さんは語った。韓国人にとって日本は「恨み・怒り」の対象だった。しかしグングン裁判をはじめ多くの 戦後補償を求める闘いを通じて、痛みを共有する対象に変化していることを実感した。南英珠さんも「嫌いだった日本人が好きになった」と言う。日韓市民の絆をさらに強くして、遺族の望む遺骨調査、戦地追悼が行えるよう、日韓政府への働きかけを強めたい。

南三陸町の被害 コンビニの人に説明を聞く

前回参加できなかった方のために
「帰れなかった家族のために・韓日合同パプア巡礼民間外交使節団」大阪報告会
1月13日(日)10時〜12時 大阪駅前第2ビル5階 第5研修室
    会場費:500円   現地映像を交えながら報告します。

パプアへ同行して感じたこと (上田)
 
 8月末パプアニューギニアの参加し、前号で報告を書いた。今回は報告し切れなかった「パプアニューギニアの今」の部分を書きたい。かといって、インターネットや資料にあることを書き写しても仕方がないので、自分の目で見て感じたことを報告させていただきたい。よってあまり客観的な報告にはならないことをご容赦願いたい。

 
パプア現地の人と  
 

船を引き上げてくれる

 

 

男の人は長い刀を

 

 驚いたのは物価の高さだ。首都ポートモレスビーでスーパーマーケットに入った。品揃えは十分な大きな店舗である。PNGの通貨はキナというが1キナで40円ぐらい。よく見ると牛乳の小さなパックが120円ぐらい。中ぐらいの500ccほどのパックが200円を越える値段だ。どう計算してもどの商品も日本で買うより同じか少し高い感じがする。いったいどのような階層の人たちがこのような高い商品を買いに来るのだろうか?一方外では公園や、いたるところに個人の市場が出ている。値段は確認できなかったが、普通の人はおそらく道端の市場で買い物をするのだろう。

 スーパーの入り口はガードマンが厳重に警戒している。岩渕さんによると何年か前、マシンガンを持った強盗がこのスーパーに押し入りお客から金を奪い一時期閉鎖になり、警備を厳重にして再開したそうだ。私達が食事をした韓国料理の店も、昔銃で襲われたそうで、今は鉄条網に囲まれ、入り口は厳重に警備されている。またすべて の日程を終えてポートモレスビーの空港で2時間ほど待つことになったが、空港で待つのは危険との判断で近くの高級そうなホテルでコーヒーを飲み待ったが、そのホテルではライフルを持った警備員が2人門に立っていた。他のホテルでも銃こそは見なかったが出入りは厳重に監視されている。

 ギニアの人に似ているのでニューギニアと呼ばれたそうだ。みんなゴムぞうりを履きTシャツと半ズボンで歩いている。首都ポートモレスビーは土ぼこりで、ほこりっぽくテレビで見るアフリカの都市のような感じである。銃で守られる人たちと、それ以外の人たちの区分があることは感じた。

 北部の海岸地域は、雨季に突入していたためか一変してアマゾンのような自然に包まれている。海岸沿いは、ヤシの木と浜辺の単調な景色が続く。国内線の飛行機がとまるような都市は、学校があり授業が終わると浜辺で遊ぶ子ども達の姿を多く見る。海には台湾の大きな漁船が操業している。このような地方都市を少し離れると、スコールですべての道の橋は崩れている。雨季が終わるまですべての地域は陸の孤島になるのではないかと思う。一本道を行く女性はTシャツを着ているが、男性は上半身裸で70cmもある長いナイフをみんなが持っている。ナイフがないとジャングルの中を入っていけないのだろう。海では小さなカヌーで漁をしている。農作物を作り市場に売り買いに行く人たちが道路で乗り合いトラックを待っている。それでも川が氾濫していない区間の交流しかないだろう。私達が行ったヤカムルなどは雨で完全に孤立している。それでも、携帯電話が通じるのだから不思議である。携帯電話を必要とする人たちにサービスが提供されているのだ。当然ヤカムルの人たちは持っていそうもなかった。

 地元新聞で私が見たことと関連して印象に残っていることが幾つかある。ポートモレスビーでの路上生活児童の児童買春が深刻な問題になり国連が調査をしているという記事と山間部の鉱山で暴動がおきているという記事があった。ホテルや飛行機で、多くの外国人を見た。日本人のグループもいた。国民の40パーセントがマラリアに感染しているというこの国に、外国の資本家は住まずに飛行機や船に乗って資源だけを奪いに来るのだ。

「強制労働被害者補償立法をめざす日韓共同行動」結成報告 (御園生)

 10月27日、東京で「強制労働被害者補償立法をめざす日韓共同行動」(以下、日韓共同行動と略す)結成の集いと記念シンポジウムが行われた。第一部は、日韓共同行動の結成。第二部は、記念シンポジウム「日韓が東アジアの平和の未来を切り開いていく日は来るか」。日韓共同行動の結成は、これまでの枠を大きく超えて立法化運動を広げるためである。

 第一部では、母体である強制連行・企業責任追求裁判全国ネットワークの持橋共同代表から挨拶があり、独島(竹島)、尖閣島問題等による日韓、日中の軋轢のなかでの戦後補償問題解決の重要性が提起された。また、矢野事務局長からは、この間の取組みの経過と了承いただいた共同代表の報告、そして、今後の方向性が報告された。

 
   

 第二部のシンポジウムは、タイムリーで非常に興味深いものだった。
 韓国東北アジア歴史財団研究員の南相九(ナムサング)さんは言う。日韓関係の悪化の根底にあるのは、独島問題を歴史問題であるとする韓国と切り離す日本の違いにあり、日韓共同の世論調査では「歴史問題が日韓関係の障害と大いになると思う」のは日本では15%に対して、韓国は43%である。日本は謝罪したというが、閣僚や影響力のある政治家からそれを否定する発言が繰り返しなされる。「アジア諸国の人々に対して多大なる損害と苦痛を与えた」と言いながらもその事実の調査・確認を行わず、否定発言を容認した。日本は侵略と植民地支配の反省もなく、平和国家とは見られていないのだ。韓国最大の保守系新聞である朝鮮日報は、日本のイラク派兵について、派兵部隊がA級戦犯を合祀している靖国神社に最敬礼しているという戯画を躊躇なく掲載しているのである。戦中をまるまる引きずっているのだ。これが韓国が見る日本なのである。

 佐藤健生(拓殖大学教授)は、ドイツの戦後について、9カ国と国境を接しているドイツは「ヨーロッパの一員」として生きていくことを選択し、最初は押付けられた謝罪と賠償も自らのものとし、「過去の克服」のための具体的取り組みを行ってきた。だから、「再発防止(二度と起こさない)」を欧州の誰もが認めているのである。日本とは対照的である。事実の認知とその解決のための具体的行動こそがその基礎であるという。

 最後に登場した樋口雄一さん(高麗博物館館長)からは、主催者より要請された「コロニアリズムを超えていくとは−日本に問われていること」は、少し違和感を感じるとし、日本人は植民地支配についてどの程度認識しているであろうかと提起する。植民地支配について「巨大な監獄・植民地朝鮮」とさえ表現されている。この「巨大な監獄」を生きた朝鮮人のことをもっともっと調べていかなければならない、これが戦後補償を日本企業と日本人を納得して行うための条件の一つと訴えた。

 強制労働の立法化は、困難であるが、平和な日韓関係を創造する重要な取組みである。要は、これまでになく強まっている日韓市民運動の連帯した運動である。さらに侵略と植民地支配の実相を掘り起こし、立法化運動を広げていこう。

読書案内

  『レイシズム・スタディーズ序説 』  

 
   

   鵜飼哲・酒井直樹・テッサ・モーリス=スズキ・李孝徳
                           以文社 2800円 2012年

 レイシズムとは人種主義、人種差別のことである。しかし外見の違いだけの問題ではない。レイシズムとは不平等、不公平な社会をつくり、他者集団をおとしめ、排除する特殊な社会的行動である。今、ナチスやアパルトヘイトを肯定する声は希有である。しかしレイシズムは減っていない。むしろ近年増加傾向にあり、地域も拡大している。21世紀のグローバル化したレイシズムでは、典型的なフレーズに出会う。「『われわれ』は、苦しい状況なのに、政治家は聞いてくれない」「しかし政治家はどうして『かれら』だけを優遇するのか」「『かれら』の存在は『われわれ』の美しい伝統を脅かす」「『かれら』はなぜ自分のアイデンティをあれほどまで強調するのか、どうして『われわれ』の社会への同化義務を怠るのか。『われわれ』の社会に適応できないなら、出て行け」と。本書中で紹介されるオランダの極右党、オーストラリアのクロヌラ町の声、日本の在特会の主張は、上のフレーズと酷似している。至近の選挙では「誇りある日本」「国を愛する心」「他国の恫喝に備え核武装を」等レイシズムに繋がる声も聞こえる。レイシズムは今日的問題である。レイシズムを直視し課題を考えることは緊要である。その手がかりと示唆を与えてくれる好著である。 (大釜)

GUNGUNインフォメーション

12月 9日(日) シンポジウム「マイノリティが標的とされる現在」
            〜京都朝鮮学校襲撃事件から差別・襲撃・バッシングの社会をみつめる〜
            13時30分 同志社大学・今出川キャンパス 明徳館1階・M1教室
12月12日(水) 新日鐵住金本社前宣伝行動 8時30分
12月14日(金) 新日鐵住金大阪支社前宣伝行動 8時15分 
12月22日(土) 公開シンポジウム「判決を読み解く〜日韓会談文書開示請求第3次訴訟〜」
            13時30分 東京しごとセンター5Fセミナー室(JR・東京メトロ飯田橋駅下車徒歩8分メトロポリタンホテル隣)
                   参加費:500円
12月26日(水) 新日鐵住金本社前宣伝行動 8時30分
12月28日(金) 新日鐵住金大阪支社前宣伝行動 8時15分
 1月13日(日) 「帰れなかった家族のために・韓日合同パプア巡礼民間外交使節団」大阪報告会
            10時 大阪駅前第2ビル5階 第5研修室