在韓軍人軍属裁判を支援する会ニュースレター

「未来への架け橋」 NO.63 (2011.5.14発行)

春川の納骨堂が
天安・望郷の丘に移転
(4月11日)
 

66年前と現在の共通課題=死の「美化」でなく真実を「教訓化」すること

 3月11日発生の東日本大震災で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。津波の映像は全世界に伝わり、韓国・中国・台湾など、アジア太平洋戦争で日本が被害をもたらした国々の市民も被災者への義援金活動に立つ姿が報道されました。ソウルでは慰安婦のハルモニたちも行動に立ちました。映画「あんにょん・サヨナラ」に描かれた95年阪神大震災の際に「罰があたった」と思った被害者の心を変化させたのは、他でもなくこの間の過去清算運動による加害国、被害国市民の交流の成果でしょう。
 今回、岩手の太平洋戦史館を訪問しました(P3〜参照)。館長の岩淵さんは「今回の津波で未だに1万数千人の死体が確認されずにいる。死人にだって人権がある。3月に216人分の日本兵の遺骨を帰国させた。死んだ人がどのように言っているのか聞いてほしい」と語っています。亡くなった人の声なき声に耳を傾けることの重要性は66年前と変わりません。死の「美化」でなく、真実を掘り起こし教訓化することが求められています。

 ノー!ハプサ(合祀)の地裁判決が7月21日に下されます。ご注目ください。

李煕子(イ・ヒジャ)さんからのメッセージ
「私たち推進協の会員たちの心配」(3月25日)

 李熙子です。安否を聞くことすら難しいほど辛いことが続いている日本の状況を見ながら、心配をしたところで何か力になるわけではありませんが、それでも心配で仕方ありません。ニュースを見ながら、これ以上問題が発生しなければいいのにと願う気持ちでいっぱいです。今日は、何の役にも立たず力にもならない気持ちを、お見舞いの手紙で伝えたいと思います。
 皆様を心配する私たち推進協の会員たちの気持ちを一緒に送ります。去る土曜日に総会を開きましたが、日本にいらっしゃる皆様の安否を問い、心配する話が尽きませんでした。地震と津波の発生から15日目になる今まで家族の生死すら確認できない多くの方々を見て、天災地変で瞬く間に愛する家族と離別することになってしまった悲しみがいつまで続くのか、胸が張り裂ける痛みを感じます。苦痛は重なるというように、放射能の漏出で災害が大きな事故に繋がるのではないかと、本当に悲しいことです。一日も早くすべてが復旧し、安定すればと思います。
 2011年3月11日午後2時46分の瞬間を忘れることができるでしょうか。悲しい気持ちと戸惑うような状況が続いていますが、まずは現実的な問題を早く乗り切ることができるよう祈ります。

大地震の際にソウルでヒジャさんと一緒にいて(木村)

 
 

李煕子さんと

 韓国語習得のための短期留学中に李煕子さんのいる事務所にいたときに東北地方の大地震を知った。前日、3月末に韓国遺族の方と岩手にお連れする話をしたところだったので、降り立つはずの仙台空港に津波が襲う映像をパソコンで見て、ショックを受けた。東京も被害が出ていることのこと。ヒジャさんは、「岩手の岩淵さんは、ニューギニアにいて無事だね」「東京のメンバーは無事だろうか」と心配して下さる。テレビを見ようとヒジャさんと家に向かう。この頃からヒジャさんの安否を尋ねて携帯が次々かかり始める。皆ヒジャさんが日本に行っているのではないか(ヒジャさんの来日は100回を超える)との心配だった。笑って返事するヒジャさんを見ながら、みんなの心配が伝わってきた。ニュースの地名は県名のみ、字幕はもちろんハングルで、辞書を片手に津波と原発事故の繰り返されるニュースを見ていた。
 帰国して間もなく、過去清算活動をしている韓国の市民団体が震災支援の募金を行ったことが伝えられてきた。韓国挺対協が19年間継続してきた第961回水曜デモは地震被害者追悼のサイレントデモとして行われ、ハルモニの意志で募金も始められたという。メッセージには日本の侵略戦争によって「被害を受け苦痛を味わったからこそ、今回の日本の被害に対して誰より胸が痛い。韓日歴史清算とは人間の生命と人権の尊厳性に基づいたものであり、日本の市民と在日朝鮮人をはじめとする在日外国人の苦痛を慰め積極的に助けることは私達の当然の義務。助けの手を差し伸べる時です」と。戦争被害者が逆に日本の被害に心を痛めて下さることに感謝。同時に日韓市民の積み上げてきた交流と共同行動が関係を変化させてきたと感じました。

春川「太平洋戦争韓国人犠牲者納骨堂」が天安・望郷の丘に移転

 
   

 連休中に洪英淑会長から「4月11日に納骨堂の遺骨を望郷の丘に移転しました」と報告がありました。写真を見ると李煕子さんはじめ推進協の方々も。また数日後、金景錫さんのお墓も春川の市立墓地に移転されたそうです。GUNGUNでは10月初旬に合同慰霊祭を望郷の丘で開催し、金景錫さんのお墓参りも行いたいと考えています。以下、碑文です。

日本の九州にある寺および各地域に散らばっていた遺骨を、故 金景錫会長が春川市東内面鶴谷里に納骨堂を建立して祭ってきたところ、春川市の都市計画により、ここ国立望郷の丘に移すこととなる。謹んで平安に永眠されることを祈願します。
2011年4月11日  太平洋戦争韓国人犠牲者遺族会会長 洪英淑
 

「死者の人権を尊重すべき」〜66年前と現在の共通課題
                岩手・太平洋戦史館を訪問して(古川)
 
今回は日本人だけで訪問

 
 

太平洋戦史館

遺品の前で・岩淵さん

 4月15日から17日にかけて岩手を訪問しました。目的の一つは在韓軍人軍属(グングン)裁判・ノーハプサ訴訟でお世話になっている岩淵宣輝さんが運営する太平洋戦史館への訪問。もう一つは東日本大震災被災地の実態をこの目で見てお手伝いすることです。
 岩淵さんは、幼いときに父を日本兵としてニューギニアで失い、戦争孤児として日本遺族会青年部の役員を担いました。遺族会が靖国を信奉する一方で、自身がニューギニア航空極東支社長だったこともあり、ニューギニアに放置された遺骸の実態を目の当たりにしたことで、靖国への考え方が一変。以降はパプアニューギニア、インドネシア領西部ニューギニアそしてガダルカナルを含むソロモン諸島などへ、これまで270回以上渡航されています。ニューギニアで父を亡くしたグングン原告の高仁衡(コ・インヒョン)さんが来日した2007年に東京で対面以降、準備書面やノーハプサ学習会、講演会等で交流を続けています。昨年秋の「韓国遺族証言集会」で来日したニューギニア遺族の南英珠(ナム・ヨンジュ)さんに岩淵さんのことを話しすると「ぜひ会いたい」と言うので、高仁衡さんとともに3月25日から岩手訪問する計画でした。そこに地震が東北地方を襲い、岩手訪問は延期に。地震が起きた3月11日、岩淵さんはニューギニアで216体の遺骨を日本に持ち帰る作業中でした。帰国後、熱烈歓迎のコールをいただき、今回は日本人だけの3人(古川、木村、上田)で訪問しました。

死んだ人がどのように言っているのか聞いてほしい

 

岩淵さん

 

 平泉の中尊寺から見えるところに太平洋戦史館はある。平泉は内陸部だったため大きな被害はなかったが、余震で少し被害があったという。車で近づくと岩淵さんは玄関から飛び出して私たちを出迎えてくれる。ログハウスのおしゃれな建物。「丸太で組んでいるから地震には強いはずなんだけど余震ではミシミシいって怖かった」という。2階の玄関から入り、自己紹介後1階へ。1階は書籍コーナーと展示室になっている。震度6弱の余震で館内は展示物が散乱していた。
 衣川市でNPO第1号の太平洋戦史館は、設立10周年になる。岩淵さんのお父さんの遺骨はない。空爆で砕け散ったそうだ。しかしニューギニアに放置された遺骸にこだわる理由を今回の津波に重ねながらこう言う。「今回の津波で身元不明のまま、集団土葬された水死者は多数。未だに1万数千人の死体が確認されずにいる。死人にだって人権がある。彼らこそが最弱者。自分の口で無念を伝えられずに悶々としたまま。戦争で100万人の人たちが放ったらかしになっている。3月に216人分の遺骨を帰国させた。10年間で1000人の遺体を運んだ。死んだ人がどのように言っているのか聞いてほしい」と。

靖国問題に興味を持ってもらう工夫
 
 展示コーナーには、アジアと日本の関係として、地図を朝鮮・中国から見た向きに(世界地図を上下逆に)展示している。そして靖国に通じる皇民化教育、神社参拝強制の歴史を写真を交えて展示してある。その理由を岩淵さんは「ぶん殴った奴はすぐに忘れるが殴られた人は忘れない」と語る。朝鮮半島のコーナーにはグングン裁判訴状集もあった。
 書籍コーナーには靖国問題を論じた本が並んでいる。「『みたま』や『英霊』を口にする人が多いが全てヤスクニズムに通じている。NHKの記者が『尊敬している岩淵さんが、なぜ靖国を目の敵にするのですか』と言って帰っていった。どうすれば皆をヤスクニズムに蝕まれていることに気づかせるかが課題。靖国検定とか工夫して皆に興味を持ってもらうことが大切。先の戦争を総括する上でも必要」と靖国に対する批判的な視点を育てることの重要性を説いた。

韓国人遺族を戦没地ニューギニアへ案内するために

 
 

認識票

遺品の水筒

 反対側の展示コーナーには、認識票や水筒などの遺品やニューギニアに放置された遺骸を描いた絵画や写真が展示されている。ここで韓国遺族の最大の関心である遺骨やDNA鑑定について聞いてみた。「朝鮮人の動員は主に第20師団(ソウルの龍山編成)が多いので東部ニューギニアに連れて行かれている。私が調査している西部は岩が多いので骨が残っているが、東部は土壌が肥沃なので分解されて骨があまり残っていない。DNA鑑定はやっているが形だけ。犬歯から抽出しやすいので、遺骸に犬歯があれば持ち帰るが、DNA鑑定は遅々として進んでいない。日本人遺族もそこまで要求していないのが苦しいところ」という。韓国人遺族の希望が強い「父・兄の死んだ地に行って供養したい」という要望について聞くと、「父の見た海や空をこの目で確かめて、どんな場所で死んだのかを確かめたいのは遺族として当然のこと。そんな場所で一本の線香でも立てたいはず。供養とは忘れないこと。韓国大使館にも立ち寄ればよい」とアドバイスをいただいた。また「岩淵さん自身にご同行をお願いできないか」との要請にも快諾いただきました。戦史館前で記念撮影し、別れましたが、後日さっそく岩淵さんからメールがあり、韓国からの行程案や安く安全に行く方法などを教えていただいています。今後、実施できるかどうかを含めて韓国側と協議していきたいと思います。

被災地を自分の目で見て自分サイズの支援をしてきました(上田)

 

釜石市唐丹町の状況

 
 

おばあさんから話を聞く

 
 

気仙沼の状況

 

 今回岩手の旅は、被災地を知る旅となりました。古川さんから岩渕さんのところへ訪問する日以外をどう使うかとの提案に「被災地に行って何かひとつでも手伝いたい」と即答。秋田空港から車で釜石市に向かい、海沿いに大船渡、陸前高田市に入り、内陸部に戻り太平洋戦史館のそばの国民宿舎に泊まりました。
 まず驚いたのは岩手の内陸部は眼に見える被害はほとんど無く、釜石市内に入っても何とも無いような景色が続く。しかし新日鉄を超えて100mも行かないうちにテレビで見た光景が。1ヶ月たっても壊れた家屋や船や車はそのままの状態。大船渡でも気仙沼でも高低差の違いで破壊されたところとされていないところの極端な差が印象に残った。
 
 釜石から大船渡に行く途中、海から高台にある国道までの家々が完全に破壊された村を眺めるおばあさんに話を聞いた。「昭和2年に生まれて昭和8年の三陸地震を経験したが今回はそれ以上。わかめの養殖をやっていた。堤防を作ったから大丈夫と思っていたら津波が乗り越えてきた。この村で亡くなったのは2人だけで、小学校の生徒もみな逃げて助かった。今は高台の神社の宮司さんのところで村中の人が避難している」「隣の村はもっとひどいよ」という。大船渡に着くまでの漁村は堤防が破壊され壊滅していた。大船渡に入って、家の片づけをしているお宅のおばあちゃんの話を伺った。「姪が死んだ。裏に高台があるのに。津波は来ないと油断したのかねえ」と。そのお宅は水に2m以上浸かり、庭にあった車が2mほど高い隣の敷地まで流されていた。何か手伝えることはと、水運びの手伝いをした後、陸前高田市に向かう。平野域が完全に壊滅している。海岸沿いの道は地盤沈下で海水がそこまで来ている。マンションは、原形はとどめているが大木が突き刺さり3階まで窓ガラスが割れている。町はまるで原爆が落ちたような状況。自衛隊・消防が遺体の捜索をしているがまばらで、目の前の瓦礫の下に遺体が無いとは言い切れない状況だった。
 国民宿舎では瓦礫撤去に雇われた労働者が多く宿泊していた。食堂の人に聞くと「毎日50人ぐらいの遺体を見つけて、頭のついている人は棺に入れて、そうでない人はシートに包むそう。これからさらに北の作業に行くから朝も早く出る」という。   

 2日目岩淵さんとの話を終えて、中尊寺近くの食堂で昼食をとる。3連休だというのに観光客は少なく、中尊寺周辺の店も半分ほど閉まったまま。2日目のホテルには兵庫県警のパトカーが一杯。入口看板に「陸前高田市の皆様、気仙沼の皆様」と書いてある。陸前高田の人は避難先として40名、気仙沼の人は(社長が気仙沼出身)昼にバスでお風呂に招待しているとのこと。高田小学校3年生の子と話をした。「高田小学校は高台にあって津波は来ないと思っていたのに津波が校門の前の坂を上ってきて先生たちもパニックに。みんなで6キロも走って逃げたが途中で1人がいなくなった。地震の後、親が車で迎えに来た子ども達はみんな流された」と。子どもを迎えに来て一緒に流された親の無念はいかほどであっただろうか。91歳のおばあちゃんのお話も聞いた。「三陸津波を経験してるから、すぐに逃げた。小学校1年のひ孫が大声で泣いて帰ってきたが車に乗せて6人ですぐに逃げた」三陸津波を経験したおばあちゃんが家族を救った。

 
 

手伝った家の前で

 3日目朝からテレビでボランテアセンターの電話番号が流れている。一番近い気仙沼に向う。1時間半ほどでボランテアセンターに着いたが、少し前に出発したと断られたので、自分たちでできることを探そうと漁港の海岸沿いへ。海沿いの家で片づけをしている人を見つけ手伝いましょうかと声をかける。お母さんと娘2人と一緒に家から使えそうな物を持ちだす作業を手伝った。家の前に大きな船が迫り、その下にぺしゃんこの車。家は泥だらけ。我々も泥だらけになる。ビール・しょうゆ・写真・電化製品いろんな物を持ち出し避難先に車で運ぶ。「こんな海辺からどうやって逃げたんですか?」と聞くと「岬があってあの上のホテルまで車で逃げた。あそこから人や家が海に流されていくのを見たよ。夜は火事になって一面が燃えるのも見た。海に流された人は難しいけど瓦礫に残った人は見つけてやらんと」と。海に流されていく町を上から見たという壮絶な話や、この地での生活・お父さんの思い出などの話しを聞きながら作業を終えた。家の前に横たわる船をバックに写真を撮りお別れし、秋田空港から泥のにおいをさせながら大阪・神戸への帰路に着いた。あまりの被害の大きさに被害地域の3分の1ぐらいの海岸を周ったのかと思ったが、地図を見ると10分の1にすぎなかった。自分サイズの支援を続けたいと思った。

ノー!ハプサ(合祀)訴訟一審判決は7月21日 (山本)

 靖国神社が国と一体として進めてきた、朝鮮人軍人軍属の合祀の取消しを求めて、韓国人の遺族10人と生存者1人が合祀の取消し等を求めて靖国神社と国を訴えたノー!ハプサ(NO!合祀)訴訟。2007年2月提訴から4年、2月24日の第19回口頭弁論で結審となりました。弁護団は植民地支配の加害と被害という視点から、この間積み上げてきた議論を最終準備書面として提出しました。韓国から参加した原告の李熙子(イ・ヒジャ)さんは、弁論を締めくくる意見陳述で「この裁判が、単純に利益をめぐって争っているものではなく、人はどのように生きるべきかについての問題を扱っていること、韓民族としての自尊心に関わるものでもあるということを忘れないでください。そしてこのことに関して少しでも苦悩した痕跡の見られる判決が下されるよう願います」とノー!ハプサ訴訟の本質を鋭く突きました。被告国・靖国神社は、証人尋問、本人尋問を踏まえた反論を最終準備書面で展開し、靖国神社については口頭での陳述まで行いました。いずれも山口自衛官合祀訴訟最高裁判決に全面的に依拠したものです。
 証人尋問等を通じて、靖国神社に合祀され続けることが韓国社会でどういう意味を持つのかという「名誉権」侵害を大きな争点に押し上げました。それを意識した靖国神社は、最終準備書面で「合祀された韓国人は数万人、原告は11人に過ぎない」と主張しました。あたかも「感謝している韓国人もいる」とでも言いたいかのようです。植民地支配の反省もなく、再び韓国人の心の傷に塩を塗る行為であり、断じて許せません。このような主張を採用するようでは裁判所の良識が問われます。
 判決は7月21日です。植民地支配により動員され戦地に送られ戦死した犠牲者たち。殖民地解放後も合祀により「戦没日本軍人・軍属」として帝国日本に繋がれ続ける。こんな不合理な関係に一日も早く終止符を打たなければなりません。勝訴を勝ち取るまでご支援をお願いします。

ノー!ハプサ訴訟一審判決
7月21日(木)午後3時 東京地裁103号法廷

日本国籍以外のシベリア抑留者に補償を!
    シベリア抑留問題で全抑協が公開シンポジウム開催(御園生)

 4月25日、全国抑留者補償協議会(全抑協)、シベリア立法推進会議等の主催で「公開シンポジウム:シベリア抑留の実態解明はどこまで進んだのか?〜シベリア抑留から65年、『日ソ捕虜収容者協定』から20年、そしてこれから 」が衆議院第二議員会館で行われた。平塚光雄・全抑協会長、鳩山邦夫衆議院議員らが挨拶を行い、協定20年ということもあり、A・Gフェシュンー等書記官・駐日ロシア大使館大使代理も挨拶に立った。
 シンポジウムでは、昨年6月16日成立した「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」の成立後の状況と、同法13条にある強制抑留者に関する実態調査について白井久也・日露歴史研究センター代表ら6名が報告。白井氏はシベリア抑留全般について日本政府がロシアに抑留関係の資料開示を求めることを強調した。また栗原氏(毎日新聞記者)はマスコミの重要性を、村山氏(抑留者死亡者名簿作成者)は資料整理・請求の大切さを、清水氏(日ロ協会抑留死没日本人問題委員長)は遺骨調査の重要性を報告。池田氏(シベリア立法推進会議世話人)からは、特別措置法18条が要であることが強調された。昨年6月16日成立した「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」の施行により、3月末までに、62,277件の申請が受付けられ、56,448件が認定、51,802件の振込が完了しているとのこと。また特別給付金の支給とともに重要な、13条(死亡者、遺骨及び遺留品、抑留の実態解明等を総合的に行うための基本方針)の策定について、現在厚労省が各団体へのヒヤリング、総務省・財務省との調整等を行っているが、全抑協が解散する5月23日までにまとめを行うよう要請し「努力する」と回答を受けているとのこと。この日午前中「シベリア抑留者支援・記録センター」が新たに発足。「元シベリア抑留者の平均年齢は88歳に達し、社会的にも生活上も多大の困難に直面」(設立趣旨)しており、全抑協が5月23日に解散することを踏まえての発足だ。センターは元シベリア抑留者、市民の協力を得て、次世代に引き継ぐための活動を行う。シンポジウムの最後に、台湾の元シベリア抑留者2名が発言。「日本政府は、もはや100人も生存していないと思われる日本国籍以外の抑留者を差別するようなけちなことをやらないで」と無念の思いを発言。元BC級戦犯者の立法化を進める李鶴来さんも「この法律は残念ながら外国籍者を排除。不条理極まりない」と日本国籍以外の適用を強く訴えた。

「靖国の檻」「帰還証言ラーゲリから帰ったオールドボーイたち」上映会

 

6月11日(土)大東市立文化情報センター
   (JR学研都市線「住道」駅改札出て直進、階段を下りる)
  10時30分 「靖国の檻」(70分)
  13時30分 「帰還証言ラーゲリから帰ったオールドボーイたち」(後編:90分)

作品の紹介(チラシから)

「靖国の檻」(2010年作品 70分)
日本人に問う 戦死者は「神」か?
2006年8月11日 合祀イヤです訴訟提訴訴訟から丸4年以上が経つ2010年12月、いよいよ控訴審の判決が下される。
私を含む8人の原告は、この裁判をいかに闘ってきたのか。そして己が内面といかにして向き合ってきたのか。原告を訪ねる私の旅が始まった。

「帰還証言ラーゲリから帰ったオールドボーイたち」(2009年作品 後編90分)
終戦後の旧満州から約60余万人の日本人達が貨車や徒歩で北に向かった。旧ソ連長期強制抑留中の死者は焼く6万人。しかしその正確な数字は今も不明だ。
元シベリア抑留体験者31人のインタビュー記録 後編(シベリアから帰国へ)
「足首に名札ぶら下げられたら死んだ印で運ばれて行く」(伊勢氏:終戦時16歳、帰国時20歳)
「僕は恩給ちょっと足らんのですわ。兵隊は12年なかったら恩給がつかないんです」(宿院氏:終戦時19歳、帰国時23歳)
「これだけソ連で働いた金が未だにもろてないという事です」(谷口氏:終戦時20歳、帰国時23歳)

「日韓交流、新たな時代へ 日本における安重根関係資料の意義」講演会報告(中田)

 
   

 3月27日、龍谷大学の大宮キャンパスで「日韓交流、新たな時代へ −日本における安重根関係資料の意義−」と題して、龍谷大学図書館と安重根義士紀念館の「学術研究・交流に関する協定」締結を記念する講演会が開催されました。「安重根の実像と虚像」崔書勉氏(国際韓国研究院院長)、「東洋平和論の再照明」金泳鎬氏(柳韓大学総長)、趙東成氏「新しい安重根義士紀念館とミッション」と3人の韓国のゲストが報告。金大中政権で産業資源相を務め、東大教授も歴任した知日派でもある金泳鎬氏は、安重根の言葉を紹介しながら「日本で安重根は反日テロリストという印象が強いがその正反対と見るのが正しい。彼は東洋三国の国民は兄弟と言う認識を持っており、日本人と韓国人の間の友好に格別な関心を抱いていた。伊藤博文を射殺した理由の一つも『韓日間を阻隔させるから』だった。法廷最終陳述で『私は韓日両国がより親密により平和に…ひいては五大洋六大洲で模範になることを望む。』と述べている…死刑場で典獄が最後に言い残したいことはないかとの問いに『自分の義挙は東洋平和のためにしたことであるから、日韓両国人互いに一致協力して東洋平和の維持が図られることを望む』と言った安重根は、じつは真の意味で「親日家」であった」と述べられた。講演を聞いて、改めて安重根の東洋平和論が、現在の複雑な東アジア政治情勢においても、平和構築に当たって何が必要であるかを考えるための大きなヒントを与えてくれる「メッセージ」であったと感じました。そしてまた、今回の日本の東日本大震災に対して哀悼の意を表した金泳鎬氏が講演の中で述べられた次の言葉こそが、今後の日韓・日朝関係、戦後補償の課題や東アジアに平和を実現するに当たってのキーワードであると噛みしめました。「日本の大震災の痛みを分かち合ううねりを作りだすことこそが、新しいアジアの可能性を切り開いていく。」

 読書案内

 『 地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』  

 
   

                     飯田進 著 新潮新書 680円(税別)

 太平洋戦争で二百数十万人を越す日本の兵士が死んだ。確かに、敵と打ち合って死んだ兵士もいた。玉砕した兵士たちもいた。しかし、その大多数の兵士は飢えと疲労と病で死んだというのが厳然とした事実であり、その典型的な戦場であったのが、ニューギニアだった。著者は、自らの体験をもとに、遺された兵士の手記の類いや旧日本軍の「戦史叢書」にある記録との照合をしながら、20万人以上の兵士が上陸したニューギニ島での3年間、その戦火の流れと戦場の光景を再現する。魔境と呼ばれる熱帯雨林、幾度となく発症するマラリア、友軍の死体が折り重なる山道、クモまで食する飢餓、先住民の恨みの襲撃、そしてさらなる転身命令・・。「見捨てられた戦線」の真実が描かれる。
 「この酷いとも凄惨とも、喩えようのない最期を若者に強いたことを、戦後の日本人の大多数の人々は、知らないまま過ごしてきた」事実を知ること、なぜそうなったかを考えることを読者に訴える。 なお、著者の日本の戦争責任、靖国問題等の思いは、「魂鎮への道」(岩波現代文庫)に詳述されている。(大釜)
 

GUNGUNインフォメーション

5月20日(金) 18時30分
  ヤスクニ・キャンドル企画「合祀は違憲!なのに何故救済はできないの」
     講師:菱木政晴さん(同朋大学大学院特任教授)
     本郷文化フォーラム・ホール(地下鉄「本郷3丁目」下車徒歩4分)
5月24日(火) 10時
   在特会らによる朝鮮学校に対する襲撃事件裁判第5回口頭弁論
     京都地方裁判所玄関前広場東側集合(地下鉄丸太町駅1・3・5番出口から徒歩5分)
       *事前抽選がある場合、10時から10時20分まで抽選券配布
5月26日(木) 15時(14時45分通行証配布)
  強制労働被害者補償立法の実現に向けて 5.26院内集会 参議院議員会館 B106号室
5月28日(土) 14時・29日(日) 9時30分
  強制動員真相究明ネットワーク全国研究集会
     神戸学生青年センター(阪急六甲下車徒歩3分、JR六甲道下車徒歩10分)
6月11日(土) 「靖国の檻」「帰還証言ラーゲリから帰ったオールドボーイたち」上映会 10時30分・13時30分
  大東市立文化情報センター(JR学研都市線「住道」駅改札出て直進、階段を下りる)
6月14日(火) 10時半 日韓会談文書公開訴訟(3次)東京地裁522号
6月14日(火) 14時〜沖縄「ガッティンナラン訴訟」第2回控訴審。福岡高裁那覇支部。
6月24日(金)・25日(土) 政教分離全国集会 南風原町文化センター
6月26日(日) 10時 日韓条約締結46周年公開シンポジウム 港区立勤労福祉会館第1洋室(JR田町駅下車徒歩5分)
7月21日(木) 15時 ノー!ハプサ訴訟判決 東京地裁103号