在韓軍人軍属裁判を支援する会ニュースレター

「未来への架け橋」 NO.53 (2009.4.4発行)

舞鶴の浮島丸沈没現場で供養した時の林西云さん(05年8月)

原告の林西云(イム・ソウン)さん急逝
公正判決要請ハガキ運動にご協力を!

 2月26日大阪地裁で、靖国神社の霊璽簿から氏名抹消等を請求した「合祀イヤです訴訟」の判決が出されました。内容はGUNGUN一審判決同様、「御用判決」そのものでした。判決要旨には「被告国の行為は、被告靖国神社における合祀において、戦没者の情報の把握に協力するという多数の合祀を行う上で重要な要素をなしていたといえるものの(中略)被告国の行為に、事実上の強制とみられる何らかの影響力があったとは認められない。」と国の行為を免罪。「新編靖国神社問題資料集」で誰の目にも明らかになった「国と靖国の一体性」「癒着構造」を完全に許容したのです。

 この二週間前、GUNGUN原告の林西云(イム・ソウン)さんが急逝されました。私たちは、志し半ばで倒れた原告たちのためにも、司法の場で「韓国人にとって靖国合祀がどれだけ屈辱的なものか」(被侵害利益)を認めさせなければなりません。

 GUNGUN控訴審は結審しましたが、公正な判決を見守っている市民が多く存在することを裁判所に意識させるために、日韓の市民に呼びかけて「公正判決要請ハガキ」運動に取り組みます。 トップページからダウンロードできますから、ぜひご協力をお願いします。判決の期日は「追って指定」になりました。決まり次第お知らせします。
 

グングン裁判控訴審報告 判決は「追って指定」
金幸珍さん、李熙子さんが最終意見陳述し、結審!

 2月24日、グングン裁判控訴審最終口頭弁論が行われ、生存者を代表して金幸珍(キム・ヘンジン)さん、遺族を代表して李熙子(イ・ヒジャ)さんが最終意見陳述を行い、結審しました。判決日は「追って指定」になりました。

   
 
 

金幸珍さん

「このままでは死にきれない」(金幸珍さん)

 最終意見陳述において、金幸珍氏は「戦場の実態は飢餓地獄でした。多くの戦友が飢え、栄養失調で死んでいきました。草や木の根、蛇やトカゲなどあらゆるものを食べました。人肉を食べる兵士も現れるほどでした。」と悲惨きわまる実態を明らかにし、最後に「心からの謝罪と相応の補償を求めます」「このままでは死んでも死に切れません。人として生きていてよかったと思えるよう賢明な判断を」と訴えました。
 

   
 
 

左から2番目が李熙子さん

「精神的な傷がいかにつらいものか」(李熙子さん)

 また、李熙子さんは「私は2001年8月14日靖国神社の前で起こった光景を忘れることができません。私は父の名前を削除して欲しい要請書を携えて靖国神社を訪問しただけなのに、鳥居の前には「汚い朝鮮人は入ってくるな。顔も見たくない。朝鮮人は帰れ!」と狂ったような勢いで大声を張り上げて鳥居をふさいでいる人たちがいました。・・・本当になんとも表わしようのない、忘れられない日です」とそのショックを訴え、「目に見える傷よりも精神的な傷がいかにつらいものであるかお分かりだと思います。希望ある答えを!」と訴えました。

控訴審の争点

 争点は二つ。一つは、靖国合祀問題。憲法違反の国・靖国神社一体の合祀であること、被害者の被侵害利益(民族的人格権、敬愛追慕の情の侵害、そして、韓国で祀ることを阻害する靖国合祀)を認めるかどうかです。もう一つは、日韓協定での解決済み論の突破です。未払金や死亡による損賠のみならず、シベリア抑留、靖国合祀をも日韓協定と措置法で解決済とする「日韓協定万能論」を排することです。国にすりよるだけの一審判決(靖国合祀通知行政サービス論、遺骨・靖国合祀まで対象とする日韓協定万能論)、2月26日のこれも不当極まりない大阪靖国判決を突き破らなければなりません。

韓日共同の「公正判決要請ハガキ」運動にご協力を!

 支援する会では、判決へ向け、東京高等裁判所第二民事部裁判官宛の要請ハガキに取り組むことになりました。この要請ハガキは、日本と韓国双方で取り組むもので、韓国ではすでに大学生グループの「ヒマン(希望)」が協力を表明してくれています。まず、4月末を第一次〆にして広く呼びかけたいと思います。どうか身近な人に「国の圧力に屈せず、公正な判決を出させよう」と要請ハガキを広げてください!
※トップページからダウンロードできます。また、事務局までご連絡いただければ、お送りします。枚数と送付先をGUNGUNのメールアドレスまででお知らせください。
アドレス : gungun@mx4.canvas.ne.jp
 

林西云(イム・ソウン)さんの死を悼む(古川)

 2月のノーハプサ・GUNGUN裁判の口頭弁論で来日した李熙子さんから、林西云さんが急死したことを聞かされた。2月13日、突然の脳内出血だったとのこと。あまりにも急な知らせに絶句した。昨年7月ノーハプサ口頭弁論の際に関空から京都にお連れし、年末のポッサムキムチツアーでは、李熙子さん宅で関西女性陣にキムチづくりを教えていただいたばかりである。

原告の苦しみ・悲しみを象徴していた林西云さんとの交流

   
 

舞鶴湾を望んで

 
 

2つの島を目の前に

 
 

嗚咽する李熙子さん

 

 林西云さんの初来日は、02年4月「小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟」の口頭弁論だった。GUNGUN裁判第1回口頭弁論報告も兼ねた大阪での集会で、林西云さんが陳述書を読み上げた。一字一字丁寧に指で追い、たどたどしく文章を読み上げる。
 裁判を通じて原告と接していて痛感するのは、いかに侵略戦争を起こした責任のある日本人が戦後、朝鮮半島に戻った人々に思いを馳せることがなかったかである。林西云さんも、一家の大黒柱である父を日本に奪われてから生活が一変する。4歳の時に母が再婚し、祖母宅に引き取られるが、朝鮮戦争に巻き込まれる。教育も受けられず、11歳から布地の裁断工場で働きだすが、給料もろくに出なかったために14歳でソウルに出る。南大門市場で商品を売って暮らした林西云さんは18歳で結婚した。教育を受けられなかった林西云さんにとって、人前で話すことは苦手だった。いつも人の後ろについて歩いた。子育てが一段落ついたとき、自分と同じ境遇の人たちが韓国人遺族会として活動していることを知り、父が死ぬまでにたどった足跡を確かめるために、GUNGUN裁判の原告となった。たどたどしく文章を読む姿に、原告になってはじめて識字学級に通いだした林西云さんの戦後の苦労がにじみ出ていた。戦争被害が現在まで続いていることを象徴する姿だった。
 04年12月には、林西云さんを関空で迎え、関西のメンバーと一緒に舞鶴に向かった。林西云さんのお父さん林萬福(イム・マンボク)さんは、2歳の林西云さんを残し、日本軍に徴用され青森県大湊で働かされた。解放後、釜山港に向けて「浮島丸」に乗船するが、航行途中に舞鶴湾で爆沈し、亡くなった。この日は、途中から通訳がいなくなり、お互い身振り手振りでやりとり。キムチチゲの調理法をめぐって日韓の違いが露呈したが、「案外おいしい」と大笑いしながら親交を深めた。翌日朝から、浮島丸の沈没現場にある「浮島丸殉難者追悼の碑」の前で、お父さんの供養をした。韓国から持ってきた果物やなつめなどのお供えと、日本で買った花束、酒を供えて祭祀を行ったあと、海に向かって花束を投げ入れた。目の前に島が二つ見える。そのちょうど真ん中くらいが沈没した現場である。「アボジー!あなたの顔を知らない娘が会いに来ました。アボジー!」

林西云さんの思いを受け止めて

 そのときの姿が今もまぶたに焼き付いて、報告集会で黙祷の辞を述べる際に悲しみがこみあげてきた。「同じ境遇でいつも姉妹のように接してきた」という李熙子さんも嗚咽で言葉にならなかった。
「父がどういう状況で働かされていたのか知るために大湊に行きたい」と言っていた林西云さん。「浮島丸事件は戦争が終結して後の事件。解放された父がなぜ戦前の基準によって、天皇のために死んだと褒め称えられて神として祀られなければならないのか」と憤っていた林西云さんに誓いたい。あなたの思いをしっかり受け止めて、闘っていきます。天国で見守っていてください。(古川)

林西云さんのドキュメンタリー「60年の悲しみ 浮島丸そして靖国合祀」(25分・1000円+送料)
ご注文は090-1135-1488まで電話か、メールで
gungun@mx4.canvas.ne.jpまで。
 

金幸珍(キム・ヘンジン)さん白浜・東京同行記(古川)

 
 

金幸珍さんと

 GUNGUN口頭弁論に来日した金幸珍さん。温泉好きの金幸珍さんが健康を害していたと伺っていたので今回は、東京の前にゆっくりしてもらおうと関西メンバーで白浜温泉行きを企画。戦前は親の仕事で山口に住んでいたことと戦前教育で、4年ぶりの来日でも日本語で会話、いつもながらこちらが恥ずかしい限り。ゆっくり温泉に浸かり翌日は白浜観光。三段壁の断崖から見下ろす紺碧の海を見ながら「ブーゲンビルにもこういう絶壁の入り江があって、沈没船の残骸が集まってくる」と。昼食に入った「とれとれ市場」ではすごい人だかりと市場の活気に「こんなところは韓国にはない」と予想外に気に入られた様子。梅干好きの金幸珍さんにおみやげを買い、その後関空から東京へ。
 ノーハプサの口頭弁論後、ホテルで戦争体験の聞き取りとビデオ撮影。GUNGUNでも原告が毎年減っていく中で、生存者、特に日本語が話せるハラボジの記録は貴重。聞き取りの中で金幸珍さんの日本語がより流暢になってきた場面がある。それは山本五十六と、人肉食に関する記憶の場面。1943年4月18日視察飛行中に撃墜され、戦死したことになっている山本五十六。金幸珍さんの記憶ではこう。山本五十六が乗った飛行機が銃撃され、金幸珍さんの高射砲部隊近くの飛行場に不時着。着陸後山本五十六は大腿部を負傷していた。生きていたが、その後割腹自決したというもの。またブーゲンビルの飢餓地獄の中で金幸珍さんは「トカゲや蛇、草など何でも食べて行きぬいたが、兵士の中には人肉を、それも日常的に食べていた。何度か食べることをすすめられたが、匂いですぐにわかった。死んだ人の肉だけではなく、殺して食べた兵士も少なからずいる」と話された。死人に口なし。しかし靖国には英霊。戦争の実相を覆い隠す靖国の役割がここでも。
 その夜、大口弁護士と意見陳述の原稿を議論した際、「このままでは死ぬに死に切れません」「人として生きていて良かったと思えるよう」という言葉を入れたいと申し出た金幸珍さん。生存者原告の時間との闘いをまた痛感しました。

※ 今後、これまでに撮影している原告の貴重な証言をどういう形でライブラリー化するか検討しています。ご意見をHPからメールでお寄せください。
 

ノー!ハプサ訴訟第9回口頭弁論報告(中里)

 2月23日、東京地裁103号法廷において、ノー!ハプサ訴訟第9回口頭弁論が行われました。前日には笑顔でキムチづくり講習会を楽しんだ原告のイ・ヒジャさんが厳しい面持ちで意見陳述を行いました。
 被告の【日本国は靖国神社とは癒着していない】、原告の精神的被害に対して【感情が害されたにすぎない、心が苦しいと言ってるだけ】という不誠実な主張に、原告・弁護団が反撃しました。特にヒジャさんは「日本には〈精神的被害〉という言葉はないのか。合祀事実を知った1997年から10年もの間、取り下げを要求しても家族の意思を無視する靖国神社の態度に息が詰まる思いです。子としての道理を果たせていない自責の念に骨まで痛みます。これが私の味わってきた、そして今でも変わらない痛切な苦しみです。」と述べ、原告に与えているこの苦しみこそが問題なのだということを強く訴えました。抑えに抑えた口調でしたが、怒髪天を衝く思いであることは十分に想像できるものでした。また、「生きている人を、勝手に『死者』として扱うことは、非礼・失礼なことではないのか」など19項目に及ぶ求釈明に対して、「答弁の必要はない」と繰り返す不誠実な靖国神社の態度に、裁判長も「靖国神社は争訟性の問題だけで答弁の必要がないと考えているかもしれないが、裁判所としてはそれで終わる訴訟とは考えていない」と言わざるを得ませんでした。
 ハプニングも・・・・・
 あまりに不誠実な靖国神社の態度に怒った大口弁護士が、生存者を死者として勝手に合祀して謝罪をしないとはどういうことかを分かりやすく説明するために、「例えば、天皇が死んだと韓国で勝手に報道した場合に皆さんは当然怒るでしょう」と言った事に対して、靖国神社側代理人が、「天皇が死んだとはどういうことか。今の大口代理人の発言を調書にとってくれ」と血相を変えて言う場面があり、靖国神社は「天皇教か?」と思わせるような出来事もありました。靖国合祀の本質を暴く闘いは続いていきます。このまっとうな闘いにご支援をお願いいたします。
 

靖国にだけ「信教の自由」を認めるとんでもない判決
                        〜「合祀イヤです訴訟」
(中田)

 

菅原龍憲さん(中央)

 
 

古川佳子さん

 

 去る2月26日、大阪地裁は、国と靖国神社に合祀取り下げを求めていた原告の主張を斥け、全面的に敗訴の判決を言い渡しました。遺族として自らの家族の死を祀る権利は、靖国神社の合祀という宗教行為に対する「不快の心情」「嫌悪の感情」に過ぎず、合祀行為は、純粋な「宗教行為」であり「信教の自由」に値するという靖国神社にだけ「信教の自由」を認めるとんでもない判決でした。さらに、国の名簿提供がなければ靖国神社は一切合祀ができなかったにもかかわらず、靖国神社が最終的に合祀を決定しているとして国の責任も完全に免罪しました。
 判決直後の報告集会で、弁護団は「もともとこの裁判はいやだと言っていることをやめてほしいという極めて当たり前の常識的な裁判」であり、国の責任についても「長期の大量の情報提供が重要な要素ということであればそれはまさに、特定の宗教法人に便宜を与えたことに他ならない」と判決を批判。報告集会では原告それぞれの思いが語られました。
 「靖国神社の宗教行為が抽象的観念的行為というのは全くの嘘、例大祭の行事を見ればわかる。軍神に祭られた父が本当にかわいそうでやりきれない、親を奪われた私の苦しみは現実的だ、未亡人として60年間夫の不在を生きた母と、父の不在の私の60年を改めて噛みしめた」(松岡勲さん)
 「63年の自衛官合祀の最高裁判決を超えていない、この判決を我々は突き抜けなければならない、この国では難しいが、内心の自由をいかに保障させるかという闘いだ、個人の内面の闘いは人としての基礎をなすもの」(菅原龍憲さん)
 「日の丸君が代問題などを今おかしいと思っている人達は、点としての存在になっている、これをどうしたら面にできるか真剣に考えていかなければならない」(古川佳子さん)
 龍谷大学の平野教授は「地裁判決は靖国を矮小化し、原告の権利を矮小化した判決。肖像権を見ればわかるように、自分の空間・領域に土足で踏み込んできた段階で被侵害利益は発生すると考えなければならない。」と判決の問題点を簡潔に指摘されました。
 長く全国の靖国訴訟に関わってきた田中伸尚さんは、「合祀という靖国の行為が戦死者の追悼(悼む・悲しむ)ではなく顕彰(褒め称える)であることを広く知らせていくことが大切、個別の死をないがしろにすることによって、個性を奪いマインドコントロールを図ろうとするのが靖国である。1000人の人が死ねば1000通りの悲しみがある。靖国に対抗するものは、肉親との対話の集積としての言葉であり、そして思考は、その言葉によって紡がれていくものである。戦死者をどうとらえるか、死を美化する魔術のような靖国言説に騙されてはいけない。」と人々を戦争動員へ駆り立てる靖国神社の持つ危険性に対抗していこうと呼びかけられました。
 

韓国シベリア抑留者帰還60周年記念式に参加して   
                          (シベリア立法推進会議世話人 池田幸一さん)

 
 

テープカット

 「こんなことをやりたいのだが、ソウルへ来てくれないか」と韓国シベリア朔風会の李炳柱会長から依頼があり、二つ返事の訪韓でした。朝夕の冷え込みこそ厳しいもののソウルの空は高くて青く、日差しは早春賦の優しさで、爛漫の春ももうすぐの風情でした。
 朝鮮籍の日本兵がシベリアから帰還して60周年の記念式典は2月27日、円いドームの国会図書館大講堂で開催されました。ごく近年までの「日帝協力者」というレッテルがようやく外され、一転して今度は「日帝強占下強制動員被害者」と名誉を回復されたのですから、彼らの喜びもひとしおでした。シベリアから帰された彼らは総数2162名、そのうち韓国へのダモイは500名。それが今は僅かに20名前後となり、過ぎ去った歳月の厳しさが偲ばれる現状ですが、李炳柱会長以下意気軒昂、久しぶりの再会を喜び合いました。広い会場には遺族や関係者も多く、国会議員の激励などもあってなかなかの盛会でした。

 

李炳柱会長(右)

 

 同時開催の抑留資料展の目玉は日本から持ち込まれたシベリア抑留絵画とスケッチで、これが来場者の大きな関心を呼んでいました。現地マスコミも取材に。今まで全く知られなかった悲劇にようやく日が当たり出したようです。28日の慰霊祭は彼らが越えて来た38度線上の漢江に近い所で儒教に則り厳粛に行われました。これら一連の行事はNHKが60分番組として纏め、近く全国に放映されますのでご覧になって下さい。なお日本からは当事者3名の他、今野 東議員と白井久也氏らがご一緒で、老兵を側面から支えて下さいました。いま韓国の仲間たちを取り巻く環境は大きく変わろうとしています。前大統領の置き土産でしょうか日帝統治下36年の親日派摘発が進む一方で、その被害者への救済が急ピッチで進められていることです。この国では歴史の正しい認識と、それに伴う処理がようやく始められているように感じられました。

 

38度線での慰霊祭

 

NHKが放映 シベリア朔風会のドキュメンタリー
(再放送があるかも知れませんのでお知らせします。以下番組案内より)

4月5日(日)22時〜23時  NHK教育 
ETV特集「もうひとつのシベリア抑留〜韓国・朝鮮人捕虜たらの60年」

 厳寒の地シベリアに抑留された60余方の日本軍将兵の中に数千人の韓国朝鮮人がいたことはこれまで語られることはなかった。去年、韓国政府国家記録院がロシアから大手した資料の中に朝鮮半島出身者3千人の補虜名簿を発見、それらを取り寄せ急ピッチで補虜たちの実態調査を進めている。これまでベールに包まれていた彼らの足取りが明らかになり始めた。現在、元シベリア抑留者は韓国に10数名健在である。彼らは戦後「対日協力者」「共産ソ連にオルグされたアカ」として差別を受け続けてきた。また中国には文革の粛清の嵐を生き延びた数名の朝鮮族の抑留捕虜が暮らしていることが判明した。2006年にようやく名誉が回復した彼らはいま、重い口を開き始めた。1949年2月から3月にかけて抑留生活を終え、韓国の地にたどり着いた韓国人捕虜たち。それから60年目の今年2月の終わりに、ソウル市内で記念集会と展示会が、38度線近くで追悼の慰霊祭が行われた。知られざる韓国朝鮮人シベリア抑留者。彼らはいかに日本の戦争に巻き込まれ、どのような抑留生活を送ったのか。解放後も、冷戦が激化し祖国が分断されるなかで、彼らはどのような苦難の道を歩んだのか。祖国に戻り60年になる生存者の証言と新たに見つかった資料からその実態を探る。

 

3・20GUNGUNフィールドワーク・大阪 報告(大幸)

 
 

竜王宮

 心配された雨も上がり、小寒い天候ではありましたが総勢9名でJR桜の宮駅近くの川べりから、フィールドワークをスタートしました。
 土手をおりて、まずは今回のポイントである竜王宮へ。かつては、中州となっていたことを標す橋と欄干が残る路を通ると事務所兼住居があります。管理者が急逝されていて、残念ながらお話を伺うことが叶いませんでしたので、ぐるりと建物の周囲をみるだけに。社の跡であろうところも今は草が生い茂った状態。8つに仕切られた小屋の板にハングルで竜6、竜7と書かれた文字が残り、そこで何組かの弔いの儀式が行われていたとのこと。入り口近くの小屋には炊事と読める文字が。そこでは供物にする料理を煮炊きしていたのかなと想像しました。多いときには一日に100組以上の在日の方の利用があったそう。この在日の社が創られたのは1920年代と言われ、大阪に朝鮮人多住地域が形成された時期と符号するということ。自らのアイデンティティの原点となる祖霊信仰と本国の民間信仰をよりどころとした祈りと弔いの場であったこの社で、巫女さんを呼び魂の祖国への帰還と解放を祈る儀式があったと想像すると胸が痛くなりました。

 

塚崎さん(左端)の説明で

 

 続いて源八橋を渡り、対岸の土手を下りるとすぐに「日羅公之碑」が。建てられたのは1938年(昭和13年)のこと。当時の新聞によると「日韓文化の媒介者として重大な存在であった日羅公の功績を新たに顕彰し公の忠誠をわが国民に再認識せしめ」(大阪日日新聞)るため、建てられたものと報道されました。国家総動員法ができたその年に、なんで日韓文化の媒介者を顕彰?どんな文化交流が?と訝しく感じたのですが、日羅公の経歴でその内実がはっきりしました。日本書紀によると、彼は「宣化天皇の勅命で百済に渡り、重用されていたが、敏達天皇の新羅討伐、任那擁立の国策のために召還。帰朝した彼は富国強兵の術を建議したが、その際、『表面忠順に見える百済は決して油断ならない、新羅討伐はまず百済から』と建議した。この言動に怒った百済の家来から暗殺された。」と記されているのです。つまり、いろいろな恩義を百済に感じたであろうが、祖国日本のために、忠心を尽くした日羅公の行為はすばらしいという宣伝のための建造物だったというわけです。心に刻んでおくべき教訓を示していると思いました。

 
 

解説する宮木さん

 次に、大川を眺めながら、朝鮮通信使が水上パレードを繰り広げられた当時の様子を、解説していただきました。大坂の河口で川御座船に乗り換えた一行は、大船団を組んで京都まで向かいます。幕府や西日本の各大名の用意した船に乗る漕員、船員だけでも1000名を超える人々が動員されたそうです。豪華絢爛にしつらえた高殿つきの正使船には、朝鮮の管弦の楽士たちの音曲と日本の船頭たちの棹歌が鳴り響いていて、川の両岸には鈴なりの見物人であふれたそうです。タイムスリップできるならこのパレードの様子をぜひ観覧したい、本気でそう思いました。

 

大阪砲兵工廠の搬出口

 
 

アパッチ部落の前で

 

 その後は駆け足で京橋口から大阪砲兵工廠の正門へ。化学工場だった建物や守衛詰め所が撤去を免れて、古びた姿のまま放置されています。当時は城内にくまなくトロッコが走るレールが敷設されていたといいます。爆撃で吹き飛ばされた溶鉱炉関連の鉄のかたまりなど、大阪城公園内のあちこちには、戦争遺構として案内板があってもいいような物や跡地が数々あり(保存運動もあったのですが)一時間はたっぷりかかるので、次回のお楽しみになりました。

 最後に、環状線のガードをくぐり「アパッチ部落」とよばれた周辺を歩いて見ました。入り組んだ路地が「夜を賭けて」(梁石一著)の当時を想起させられました。

 今回のフィールドワークは、大川沿いを歩いて、古代、近代、現代にわたる朝鮮半島との関係を学ぶ、盛りだくさんな企画となりました。精力的に案内をしていただいた宮木さん、「日羅王」関係の資料をくださった塚崎さん、本当に有難うございました。
 

4月26日(日)朝鮮人BC級戦犯ドキュメンタリー「沈黙の遺産・父の戦後」鑑賞会
       14:30 大阪・大東文化情報センター(JR学研都市線「住道」駅すぐ)
「あんにょん・サヨナラ」スタッフの難波さん、チェセヨンさんが制作したドキュメンタリー。韓国のTVで放映された作品を鑑賞します。(会場費500円)
 

 読書案内

 『昭和天皇・マッカーサー会見』

 
   

          豊下楢彦 著 岩波現代文庫 1000円+税


 1975年以降34年間天皇の靖国神社参拝は一度も行われていない。なぜ? 本書は歴史の中の昭和天皇像を検証することでその意味を明らかにする。 昭和天皇は『あやつり人形』の『立憲君主』という主張と、「自分の命令で戦争が行われた」「私は政治・軍事両面で責任がある」発言という相反する立場が共に”史実”として受け入れられている。この曖昧さに対して、本書は新たに公開された資料を駆使し解読していく。天皇は、開戦は閣僚と統帥部が決定したもので、「私の意に反した戦争だった」と述懐<独白論>。だから中心の東条英機らA級戦犯を靖国神社が合祀したことは「親の心、子知らず」と批判していた<富田メモ>。靖国問題は、A級戦犯の評価のねじれも一面であるが、より根本はもっと「欺瞞と悲劇性」がある。つまり「『天皇の意を体した戦争』に殉じたはずの『英霊』達は、今や、実はあの戦争は、『天皇の意に反した戦争』であったと宣告されているのである」と。 従来の昭和天皇像を覆し、靖国の本質も問う好著である。(大釜)
 

GUNGUNインフォメーション

4月15日(水) 日韓会談文書公開訴訟(第2次)11:30 東京地裁522号法廷
4月26日(日) 死者や遺族を利用しないで・反ヤスクニ連続セミナー第1回
           「靖国合祀イヤです訴訟」からみえてくるもの
             13:30 ピースボートセンターとうきょう
                    (JR・地下鉄「高田馬場」駅下車早稲田口から徒歩8分)
             講師:加島宏氏(合祀イヤです訴訟弁護団)
4月26日(日) 朝鮮人BC級戦犯ドキュメンタリー「沈黙の遺産・父の戦後」鑑賞会
             14:30 大阪・大東文化情報センター(JR学研都市線「住道」駅)
4月27日(月) ノー!ハプサ(合祀)第10回口頭弁論 原告・高仁衡(コ・インヒョン)氏
             11:00東京地裁103号法廷(終了後、弁護士会館で報告集会)
5月12 日(火) 沖縄「靖国合祀ガッティンナラン訴訟」第6回口頭弁論
             11:00 那覇地裁
5月16日(土)〜18日 韓国原告への控訴審報告会(ソウル・春川)
5月26日(火) 日韓会談文書公開訴訟(第3次)10:30 東京地裁522号法廷