在韓軍人軍属裁判を支援する会ニュースレター

「未来への架け橋」 NO.51 (2008.11.22発行)

歴史NGO世界大会の靖国シンポで(10月10日、ソウル)

植民地支配の総括の不在が生んだ靖国史観
靖国の欺瞞をつくGUNGUN裁判も大詰め!

 航空自衛隊トップの田母神俊雄・航空幕僚長は、「我が国が侵略国家だったというのは濡れ衣だ」とか「(自衛隊が)集団的自衛権も行使できない(のはおかしい)」などとする論文を公表しました。論文では日中戦争について、「我が国は蒋介石により戦争に引きずり込まれた被害者」とし、旧満州や朝鮮半島が「日本政府と日本軍の努力によって、それまでの圧政から解放され、生活水準も格段に向上した」と植民地支配を正当化。そして「多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価している。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣だ」と結論づけています。その後国会で参考人招致された田母神氏は、何ら反省の色もないばかりか、憲法改正まで主張しました。村山談話・憲法を否定し、文民統制を逸脱する思想を持った人物を、重要ポストに就けてきた責任は重大です。

 「つくる会教科書」をはじめ、こうした歴史観を生産してきた背景に、戦後も戦前の価値観が温存されてきた靖国史観があることは言うまでもありません。植民地支配の総括・反省を明確にさせることが何より重要です。靖国の欺瞞をつくGUNGUN裁判も大詰めです。12月2日には韓国民俗学者の朱剛玄さんが証人として登場します。ご注目ください!
 

いよいよ証人尋問始まる!
内海愛子さんに続き、韓国から二人(韓国民俗学者・朱剛玄さん、李熙子さん)が証言
12月2日(火)午前11時〜、東京高裁101号法廷

   
 
 

報告集会

 いよいよ控訴審の最後、2回にわたる証人尋問が始まりました。10ヶ月ぶりの公開の弁論にもかかわらず多くの傍聴者が。昨年行われた1、2回目より多いくらいでした。
 10月28日の第3回口頭弁論では、東京高裁101号大法廷で内海愛子さん(早稲田大学大学院客員教授)が証言。内海愛子さんは、韓国・朝鮮人のBC級戦犯問題の研究と解決に心根を注いでおられることは御存知のとおりです。

日本軍人軍属の経歴を隠して生活

   
 

内海愛子さん

 

 内海証言の核心は、日本の軍人軍属として徴兵徴用された方々が韓国・朝鮮人社会の中で戦後どのような苦痛を受けてきたか、靖国合祀がどう受け止められているかということにあります。「BC級戦犯者」や韓国での聞き取りを行ってきた内海さんならではの証言です。
 内海さんはその聞き取りの中で、兵力動員された多くの方が戦後、「親日派との指弾を恐れ」その経歴を隠して生活せざるをえなかったこと、学校では「親日派の子ども」といじめられ、政府機関である韓国大使館員からさえも「国賊」と罵倒されたことなど明らかにしました。
 また、靖国合祀についても、1980年に韓国のシンポジウムに参加した際、ある韓国人女性から兄の行方を捜して欲しいと頼まれ、探したところ彼女のお兄さんがフィリピン沖で戦死しており、同時に靖国神社に合祀されていた。このことをその女性に報告すると「今までは日本を恨むつもりはなかったが、これでは深く深く恨まざるをえません」と言っていたとのこと。韓国人にとって靖国合祀は、帝国支配そのものなのです。

次回12月2日、韓国民俗学者・朱剛玄博士(韓国韓国民俗学の第一人者)が証言
 

朱剛玄(チュ・カンヒョン)氏について、これまで「周剛玄」氏と表記していましたが、間違いであることが判明しました。御本人および支援の皆様に心からお詫びします。(事務局)

朱剛玄博士の経歴【朱剛玄著「黄金の海 イシモチの海」(日本語版)より】
1954年生れ 慶熙大学卒業 同大学院 韓国シャーマニズムの第一人者・金泰坤氏のもとで民俗学の研鑽 論文「トゥレの研究」で博士号取得 論文「考古学と民俗学の共同研究」で二つ目の博士号 (社)ウリ民俗文化研究所所長 大韓民国文化観光部文化財庁文化財専門委員(無形文化財課) 社団法人 韓国海洋文化財団理事・財団付設海洋文化研究所長
統一文化学会共同代表


 次回第4回口頭弁論は、韓国の朱剛玄博士と原告を代表して李熙子さんが証言します。
 朱剛玄氏は、(社)ウリ民俗文化研究所長であり、文化財庁など政府機関の委員や、韓国歴史民俗学会長も務められた韓国・民俗学の第一人者です。朱剛玄氏には、GUNGUN裁判の一審で韓国の李弼泳・韓南大学教授(韓国シャーマニズム学会長)と連名で鑑定意見書を提出していただき、HPでも公開しています。
 その鑑定意見書では、「解放後、半世紀が過ぎたいまでも韓国人が靖国神社に合祀されているということは民族の感情から見ても、また韓国人の宗教観念に照らしてみても受け入れることができない」と言い切り、「靖国神社の奉安の象徴である霊璽簿から抹消することで日帝の侵略戦争の従臣として参戦したという不名誉を洗い清め」ることが必要としています。
 そして最後に原告を代表して、李熙子氏が一審での証言を補足する形で証言します。当初この日で結審の予定でしたが、もう一回、来年1月27日午前10時から最終弁論が開かれます。皆さん最後まで傍聴をよろしくお願いします。
 

第3回口頭弁論での内海愛子さん証言(抜粋・要約)

◆研究活動のそもそもの契機は、1975年にインドネシアで、日本の敗戦後におこなわれたオランダに対するインドネシアの独立戦争でゲリラとして闘い、その後「独立英雄」とされた旧日本軍の軍人軍属3人の内、2人の日本人と異なり、死亡通知も分骨などの措置もされていなかった梁七星(ヤン・チルソン)という朝鮮人軍属の遺族にせめて連絡をしようと思ったこと。

◆1980年に東亜日報のシンポジウムに出席した際、林孝順(イム・ヒョスン)さんという女性が兄の消息を知りたいと言って訪ねて来た。委任状をもらって厚生省に問い合わせたところ、1945年1月にフィリピン沖で戦死していた。しかし、この件について日本政府からの連絡は全くなく、一方で靖国神社に勝手に合祀されていた。この事実を前に彼女は、「今までは日本を恨むつもりはなかったが、これでは深く深く恨まざるを得ません。あなたには申し訳ないけれども」。

◆日本は不足する兵力を植民地に求めた。その結果、兵力動員は約24万2400人(内、戦死・戦傷病死が約2万強)。戦犯とされた朝鮮人は148人、その内129人が捕虜監視員で、その中の14人が死刑。

◆戦犯とされた人たちの戦後の境遇は甚だ悲惨なものであった。外地の刑務所から日本国内に移送されて来たものの、スガモプリズンに収容されるわけではなく、かといって祖国に帰ることもできず、横浜港に放り出され、仕方なく上野の地下道で新聞紙をかぶって寝ていたという話を聞いているし、自殺してしまったという話も何件か聞いている。
 加えて祖国からは、日本に協力した者、取り分け「BC級戦犯」は国賊と見なされていたので、経歴を明らかにすることができなかった。

◆戦後、日本は植民地から動員した人たちの復員作業も連合国まかせで責任をとらなかった。
「BC級戦犯」は特に国籍を考慮されることなく罪を問われたのだが、日本が引き継いでからは戸籍と国籍条項によって補償からは排除されていった。

◆1992年の外務省の調査には、宗主国による兵力動員自体は珍しくないが、戦後の対応・補償において国籍を根拠に除外されるというのは日本だけであると記されている。

◆(日本の戦後処理について)戦争裁判では、植民地の問題とアジアの戦場については全く対応していないし、戦後賠償においても、アジアに対する占領と植民地支配の問題が検討されることはなかった。

◆戦後補償裁判において、請求棄却の判決の中で立法による解決を促したものが幾つもあるが、立法化が実現したことはない。

◆(裁判所に対して)立法府に委ねるのではなく、司法府としての責任を持った判断を示すことで被害者救済を図るという姿勢を見せてほしい。

報告集会

第8回草刈りボランティアツアー報告(木村)

 10月10日、韓国の春川市にある強制連行被害者納骨堂での草刈りボランティアをしたあと、韓日・官民合同慰霊祭に参加してきました。

 故 金景錫(キム・ギョンソク)さんが、北海道をはじめ日本各地のお寺に残された朝鮮半島出身者の遺骨513体を、ここ春川に持ち帰り納骨堂を建てたのが1995年。2001年のGUNGUN裁判提訴の年に、この草刈りボランティアツアーを企画しました。日本人の良心を行動で示し、汗を流し、友好を深めようと始め、今年で8回目となります。

     
 

金景錫さんのお墓を念入りに

合同慰霊祭

 
 

洪英淑会長

新しい事務所

 

 納骨堂の周囲には第1回の開催時に石積みした供養塔や、金景錫さんが生前最後の慰霊祭の際に参加者全員で積み上げた石塔が建っています。カメラを向けると、いつも笑って迎えて下さった金景錫さんのうれしそうな笑顔が目に浮かびます。その金景錫さんのお墓も同じ敷地内にあり、みんなできれいに草刈りをしました。

 韓日・官民合同慰霊祭には遺族の方々が多数参加されていました。GUNGUN原告の懐かしい顔ぶれも。またこの納骨堂にお父さんの遺骨が納められている方(炭鉱で亡くなられた)にも初めてお会いしました。また洪英淑会長の人脈か、祭祀の準備に多くの女性がお手伝いに来られていました。慰霊祭では、江原道庁からの挨拶があり、テレビ局のカメラ3台に新聞社の取材もありました。韓国内で継続して関心を持たれていることがわかります。これまで全てを采配されていた金景錫さんが亡くなった後、洪英淑会長を中心に、並々ならぬ意志で活動を維持されてきたことが想像され、胸が熱くなりました。

 慰霊祭の後、新しい事務所に案内してもらいました。部屋のあちこちに私達の送ったタペストリーや写真が飾られており、うれしいと思うと同時に、私達への期待の大きさに心の引き締まる思いでした。

 2年後の2010年は、ボランティアツアー10年目であり、「韓国併合」100年の年に当たります。第1回・第2回の際に開催した「日韓市民交流サッカー」をもう一度企画し、若者達の参加を呼びかけようと、古川事務局長が慰霊祭の挨拶で提案しました。ぜひ未来への懸け橋となる取り組みにしていきたいです。

第2回歴史NGO世界大会に合流

   
 
 

靖国シンポ

 
 

月桃の花歌舞団

 春川を後にした私たちは、バスでソウルのオリンピック公園へ向かいました。そこで開かれている「第2回歴史NGO世界大会」に合流するためです。到着後、既に始まっている「ヤスクニ反対共同行動韓国・台湾・日本・沖縄連帯ワークショップ」に参加しました。4地域から、矢野秀喜さん(共同行動日本事務局)、キル・ユニョン記者(ハンギョレ新聞文化部)、石原昌家教授(沖縄国際大学)、チワス・アリさん(高金素梅、台湾立法委員)、イ・ヘハク牧師(共同行動代表)とイ・ソクテ弁護士、内田雅敏弁護士、辻子実さん(靖国違憲訴訟事務局長)、イ・ヨンチェ恵泉女子園大学教授たちがが参加し、これまでの問題点と今後の課題についての討論が行われました。議論では、靖国合祀の問題点をわかりやすく市民に訴え、広めていく工夫の必要性が語られました。沖縄戦で避難壕から軍に追い出され、死亡し、靖国に合祀されている「乳児の英霊」など、「靖国の欺瞞性」を明らかにする映像が作れないか、また国連人権委員会への働きかけなど、今後の国際連帯運動への方向性も議論されました。夕食時には、参加各国の文化交流が行われ、映画「出草之歌」に登場する、台湾のグループが歌を披露したり、日本から参加した「月桃の花歌舞団」が歌やエイサーを披露し、大いに盛り上がりました。

はじめて「ナヌムの家」を訪問

   
 

ペ・チュンヒさん(左)とチワス・アリさん

 
 

ハルモニと

 
 

村山一兵さん

 

 

金学順(キム・ハクスン)さん

 

 翌日は、チワス・アリさんたち台湾の方々に同行して、ナヌムの家を訪問しました。ソウルから車で一時間あまり離れた地にあり、今まで訪ねる機会がなく、今回はじめて訪問できました。NGO大会参加の他の団体や、韓国内からの来訪が重なっていました。

 私達は、日本語が話せる「春姫(ペ・チュンヒ)ハルモニに話を聞かせてもらいました。「いつも自分の話はしない。来た人に歌をうたって楽しませるのが好きだ」というハルモニ。19歳で「慰安所」に送られ、満州方面で終戦。解放されたが行くあてもなく東京へ来て1980年まで浅草あたりで住んだという。かつ丼が好きという話を聞きながら、一緒にお弁当を食べました。ナヌムの家では、親戚が訪ねて来る人もいるが、子どもがいないので寂しいとも。「慰安所」ではしょっちゅう医者が検査をして妊娠がわかれば、すぐにその場で処置された。その内子宮が壊れて子どもを産めない体になる。とつらい話も。

 その後、「あんにょん・サヨナラ」の靖国のシーンに登場する指導員・村山一兵さんの案内で、ナヌムの家に併設されている「日本軍‘慰安婦’歴史館」を見学。記録の場としてハルモニ一人一人の肖像が掛けられていましたが、中には黒い影のままの肖像もあり、今なお重い過去が感じられました。被害女性の「名誉回復のために真実を伝える」資料に続いて、ハルモニ達が描いた絵画を見ました。どの絵画も自身の体験に正面から挑み、描かれている。日本で絵葉書として見覚えのある絵を前に、その大きさと迫力に圧倒されました。残念なことにバスが出発すると急がされ、「春姫ハルモニが庭の石にも描いているという絵を見ることができませんでした。

 今年に入ってからも、お二人のハルモニが亡くなられたと聞きました。ナヌムの家で生活するハルモニは、81歳から90歳。今のままでは日本政府が謝罪する機会を失ってしまう。GUNGUNも含めて、生存者の生きている間に解決するために急がねば、と決意を新たにしました。
 

「韓国併合」100年市民ネットワークが設立(大幸)

 

設立総会の後で

 

 10月25日、龍谷大学で「韓国併合」100年市民ネットワーク設立の総会が開かれました。「韓国併合」100年を2年後に控えて、日本と朝鮮半島の真の友好と未来を切り開くために「反省と和解の市民宣言運動」を展開する。そのために、すでに展開されている多様な市民ネットワークの独自性を保ちながら、日本人と在日コリアン、日韓両国の市民運動・市民社会と広く連帯して展開していくための情報センターの機能を担うために設立したものです。 

「反省と和解のための集い」で蓮池透さんが講演

 総会には参加できなかったのですが、そのあと開かれた集いでは、拉致被害者家族連絡会前事務局長の蓮池透さんの話が印象的でした。

 
 

蓮池透さん

 蓮池さんは、冒頭この集会で発言することには違和感もあるし、心配な点もあるがと断った上で拉致問題を北朝鮮が認め5人が帰国してから6年が経過したが、それ以上の進展がないのは、日本国家に責任があり怠慢のせいだと断罪。この集いとの接点は「人権問題」であるとの認識を以下のように明らかにしました。

 「日本政府は当事者の声を無視し続けてきたが、もし過去清算をしていたら、事件は防げたのかもしれない。大きな怒りは、被害者を救う活動が政治的に利用されていることと、政府の稚拙な戦略で救出が一向に進展しないことであった。拉致問題が明らかになって以降『日本が正義、北朝鮮はつぶしてしまえ』という声が大きくなって偏狭なナショナリズムが醸成されているが、これは被害者の考えとかけ離れていると思う。日本政府は映画やパンフ、CMなどを作って宣伝ばかりやっているが、これは救出にはなり得ない。北朝鮮に真実を語らせるための方針が必要だ。経済制裁で解決に向かっただろうか。いかなる方法でもいいから、戦争以外のありとあらゆる知恵を絞らなければならない。金を積んで取り戻せるなら、それも一つのやり方だ。救う会の運動をする人たちには、あの戦争に問題はなかった。強制連行はなかったとする人が多いが、拉致問題を訴える資格はない。グローバルな人権問題として捉えなければならない。近代日本の歴史を私はわからない。教わっていないからだ。子どもたちに教えていく必要がある 」。

 戸塚悦郎教授は、「蓮池さんの怒りは、人権侵害に対する国家の不作為の怒りである。日本は戦前から今に至るまで一貫して責任を認めない態度をとり続けている。世界人権宣言以来、国際社会では「真相究明」「謝罪」「補償」「教育」がルールが着実に前進している。 宣言には98条2項に「同胞の精神」が謳われている。どのような人類社会をめざすのかを共有することが問題を解くかぎとなる。そういう意味で、今日の集いは画期的な意味を持つものである。」と集会のしめくくりに発言されましたが、本当に感動的なものとなりました。

 

李熙子さん

 

 韓国からは、ナヌムの家の元「慰安婦」李玉善さんが強制的にトラックに乗せられて連行されていった事実を訴えられ、「強制連行はなかった」という妄言に対する激しい憤りをぶつけられました。続いて、李熙子さんは、お父さんの生死の確認を日本政府に求める20年の活動のなかで、手に入れた資料をパワーポイントで説明していかれました。その中には、お父さんがどのような状況で戦死されたかを記述された文書など初めてわたしたちが目にするものもありました。誠意さえあれば、遺族のもとにもっと前に知らせることができたのにという思いがいっそう、強まりました。残念ながら、短い時間でしたので、意を尽くすことはできなかったと思います。
 

ノー!ハプサ訴訟第7回口頭弁論報告(山本)

 
 

パク・イムソンさん

 10月6日の第7回口頭弁論には、2007年2月26日の提訴時に来日されましたが裁判には初参加となる朴壬善( パク・イムソン) さんが参加されました。

 前回、原告側は最大の争点である被侵害利益についての準備書面を提出しましたが、今回さらに聞き取り調査を踏まえての各原告の実状に則した被侵害利益の各論についての準備書面12を提出しました。原告側はそのまとめで「本書面に於いて掲記した人格権の項目は、いづれもすでに多くの事件に於いてその法的根拠性が確立されてきたものばかりである。また、各原告の請求根拠事実の悲痛性・切実性は、憲法13条・諸人格権による即刻の救済の必要性を端的に明らかにしているものである」と結びました。

 また、前回提起した2005年10月20日付東亜日報、中央日報で報道された生存合祀者・趙炳根( チョウ・ビョングン) さんの名簿削除の問題について、「祭神簿の訂正ができるなら、なぜ霊璽簿の訂正ができないのか」等と改めて求釈明( 準備書面11) を突きつけました。靖国神社は「次回までに書面で回答する」と答えざるをえませんでした。

 裁判の最後に朴壬善さんが意見陳述を行いました。朴さんは「父が出て行った時に9歳だった私ももう77歳です。母は一人、60年間待ち続け、父の魂すら迎えることもできず、痛む胸を解くことができないままこの世を去りました」「故郷に思いを馳せる父を一日も早く帰してください」と訴えました。
 

12月26日〜28日
李熙子さんが教える「ポッサムキムチづくりin江華島」ご案内(木村)
 
 今年2月、「第5回イ・ヒジャさんのキムチ教室」でヒジャさんから「皆さん一度韓国へ来て下さい。ポッサムキムチを作りましょう」と呼びかけられました。

 ポッサムキムチ(王様キムチ)には、海鮮も含め韓国の食材が20種類ほど入るそう。しかもヒジャさんの故郷・江華島で作るという、なんとぜいたくな話。忙しいヒジャさんに厚かましく、「食材を買いに市場へ行きたい。新鮮な海産物がある江華島に行って、歴史史跡も訪ねたい。(1876年日本の朝鮮侵略の第一歩となったのがこの地)」というメールを送りました。ヒジャさんの故郷を訪ねるキムチツアーに期待が膨らみます。

 参加ご希望の方は今すぐ木村までご連絡ください。費用は飛行機代+2万円。先着10名で締め切ります。(木村 090−9995−4909)

江華島で(2003年)

市場で

今年のキムチ教室

「あんにょん・サヨナラ」のスタッフ:難波幸治さんとチェ・セヨンさんが制作したBC級戦犯のドキュメンタリーが韓国の9チャンネルで放映されます。
12月8日放映 「沈黙の遺産・父の戦争」
作品が手に入り次第、日本でも鑑賞会を開催します。乞うご期待!

 読書案内

 『キムはなぜ裁かれたのか
       
〜朝鮮人BC級戦犯の軌跡

 
   

                    内海 愛子著     朝日選書 1500円+税 

 グングン裁判原告の羅鐡雄さんが3歳の時(1943年)に、お父さんの羅三柞さんは陸軍軍属として徴用され、ジャワで英国人捕虜収容所の監視員に当てられた。それが原因でBC級戦犯として10年の刑を受け、東京巣鴨刑務所で1955年まで10年間、収監された。BC級戦犯裁判では、朝鮮人148人が戦犯となり、そのうち23人が死刑になった。

 本書のタイトルの「キム」は、その148人を象徴する名前だ。日本軍は捕虜の保護を定めたジュネーブ条約を批准せず、下士官はもとより捕虜監視員に、この条約の存在すら知らせずにいた。現場では数十万人の捕虜に十分な食料や医薬品を与えず、各地の飛行場の建設や「泰緬鉄道」の敷設に強制的に従事させ、多数の死者を出した。こうして戦後、捕虜虐待が裁かれたのだ。しかし、直接、捕虜に接した監視員の罪は問われたが、日本軍の組織的・構造的犯罪は問われなかった。BC級戦犯たちは日本の戦争責任を肩代わりさせられたのだ。

 本書は、金完根さんを中心にどのような経緯で朝鮮人が捕虜監視員となったかを詳細に追いながら、当時の植民地支配の構造を描くところから始まる。そして、捕虜収容所の実態、戦犯裁判のもつ問題点、釈放後の生活苦と「同進会」の結成、李鶴来さんらが先頭に立っての補償要求の裁判闘争、現在進められている補償立法運動へと、その軌跡をたどっていく。

 著者はアジアの現場を歩き、関係者の証言や資料を掘り起こしてきた。何よりも、日本に残らざるを得なかった彼らを長年にわたって支えて来た人だ。だからこそ、本書は彼らの内面にまで踏み込んだ記述で圧倒的な説得力をもっている。(塚本)

GUNGUNインフォメーション

11月24日(月・祝)〜12月7日(日) 「あんにょん・サヨナラ」大阪上映
   平日20時〜 土・日15時〜 24日は20時〜 料金:無料(30日のみ500円)
   場所:朱夏/天劇キネマトロン(地下鉄谷町線中崎駅すぐ:大阪市北区中崎西1-1-18)
   30日(日)15時〜上映後古川トーク 主催:Candle Night 1 Pi:ce実行委員会
12月  2日(火) GUNGUN裁判控訴審第4回口頭弁論 14時〜東京高裁101号法廷
    7日(日) 強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワーク総会 9時半〜総会
         13時〜徹底討論「4・27判決を超えてどう闘うかU」
         東京中央区立新川区民館
   17日(水) 日韓文書公開第3次訴訟第1回口頭弁論 13時半 東京地裁522号法廷
   18日(木) ノー!ハプサ(合祀)裁判第8回口頭弁論 11時 東京地裁103号法廷
   23日(休) 日韓会談文書全面公開を求める会結成3周年記念シンポジウム
         13時〜 東京しごとセンターセミナー室(5階)
2009年
 1月27日(火) GUNGUN裁判第5回口頭弁論(結審予定)11時〜
         東京高裁101号法廷
         韓国から原告来日予定 終了後、弁護士会館で報告集会の予定