在韓軍人軍属裁判を支援する会ニュースレター

「未来への架け橋」 NO.26 (2004.5.15発行)

なぜ浜名湖での記録がないのかと
訴える原告・李仁浩さん
(4月14日・厚生労働省)

   

生存者が生きているうちに解決を! 
二つの裁判で画期的な判決!

 この間、GUNGUN裁判を取り巻く大きな判決がありました。3月26日新潟地裁の中国人強制連行訴訟判決と、4月7日福岡地裁の小泉首相靖国参拝違憲訴訟判決です。
 新潟地裁判決では、「安全配慮義務違反」を認定し、また時効を「社会的に許容された限界を著しく逸脱する」と排除し、国と企業(リンコーコーポレーション)双方に対して損害賠償を命じた(国への賠償責任を認めた判決は初めて)画期的な判決でした。注目すべきは、昨年1月に全国で初めて裁判官立ち会いで現場検証を行い、寒さ厳しい中で被害者が海で身体を洗い、衣服は麻袋だけという当時の状況を再現して、事実認定や判決に結びつけたことです。被害者の痛みを共有し、法廷の場に正しく伝える意味において、GUNGUNが学ぶべき点は多いと思います。
 福岡地裁判決では、小泉首相の靖国参拝を「憲法違反」と断罪しました。特に判決要旨で「今回裁判所が違憲性の判断を回避すれば、今後も同様の行為が繰り返される可能性が高く、当裁判所は違憲性の判断を責務と考えて判示した」のは、イラク派兵下の今だからこそ大きな意味があります。また請求自身は棄却され国が勝訴したことから国は控訴できず、判決が確定したことも快挙といえます。
 二つの判決に司法の「良心」を感じます。戦後60年を目前に、変化が生じています。「生存者が生きているうちに解決を!」の運動をますます広げていきましょう!

次回第13回口頭審理は6月30日(水)13時東京地裁710号法廷です。

日韓請求権協定・法律144号の鑑定意見書を提出
原告・李仁浩(イ・インホ)さんが意見陳述

 4月14日、韓国から李仁浩さんを迎えて、第12回口頭弁論が開かれました。今口頭弁論は、新潟地裁・中国人強制連行事件での全面勝利、福岡地裁・小泉靖国参拝違憲判決など、戦争政策を進める日本政府に司法の場からNO!を突きつけた情勢のもので行われました。

 

李仁浩さん・東京地裁前で

 

 法廷では、原告・李仁浩さんが、「金融機関という当時恵まれた職についていたのに徴兵され、帰ってみると38度線によって隔てられ復職できなかった。浜松まで連れて行かれ、空襲で死ぬ思いをした(死んだ同僚もいた)。せめて未払い賃金だけでも返して欲しい」と力強く訴えました。
 また同時に、憲法学者の獨協大学大学院法務研究科(法科大学院)右崎正博教授による、初めて憲に基づいて法律144号について評価した鑑定意見書を提出しました。政府はこれまで、法律144号で「日本の国内法で韓国国民の請求権を消滅させた」と言いつづけていますが、それが憲法上正しいのか否かを右崎教授が厳しく検証しました。

保管資料に該当無し(厚生労働省)
 李仁浩さんは、「徴兵第1期」で徴兵され、平壌での訓練後、名古屋、各務原を経て浜名湖の高射砲部隊に配属されたといいます。このことを確かめるために、口頭弁論後、厚生労働省を訪問。しかし、調査の結果は、現在厚生労働省に浜名湖に配属された資料はないとのこと。保管してある資料に李さんの名前(日本名:宮本仁浩)はないというのです。本人の記憶ははっきりしているにも関わらず「ない」という。多くの戦争被害者が、自らが徴兵されたその足跡をたどることさえできないのです。遺族の場合はなおさらです。「外国人」には充分な調査さえ実施されないのが現状です。担当者は「戦後すぐであれば聞き取りで記録を補充できたのでしょうが・・・」という。誰が放置してきたのか?!ここでも「理不尽な戦後処理」を感じずにはいられませんでした。

 

交流会で語る李仁浩さん

 

李さんの徴兵を悲観して母が自殺
 李さんを囲んでの交流会での場で、李さんから衝撃的な事実が明かされました。「父と兄は徴兵前に亡くなり、残された母は、『一度徴兵されると生きて帰ってくることはない』という噂を信じて悲観し、徴兵の数日前に自殺してしまった。日本の戦争によって家族や生活が引き裂かれてしまった」のです。証言の陰に隠された事実の重さに気づかされました。


戦争被害者はもう待てない! 5・26アクションへ
 被害者は日に日に少なくなっています。残された時間はごくわずか。戦後60周年、日韓協定40年となる来年、ぜひ戦後補償を実現しようという呼びかけで、「5月26日一日行動」が行なわれます。24日に一審で勝訴した中国人強制連行の福岡高裁判決が出されるため、判決にあわせた一日行動になります。GUNGUNも共に闘います。ぜひご支援を 。
 

右崎正博教授による鑑定意見書(骨子)

「日韓請求権協定第2条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律」(昭和40年、法律144号)の憲法上の評価について

第1 憲法第29条による財産権保障の意義と構造
 憲法第29条は第1項で「財産権は、これを侵してはならない」とし、第3項で「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることが出来る」としている。その「正当な補償」とは、完全補償か、相当の補償かの議論があったが、昭和48年の最高裁判決以後、完全補償説が通説的見解となっている。

第2 本件訴訟の背景
 韓国国民の財産及び請求権を消滅させた措置法(以下、法律144号)第1項の規定が、日韓両国民の個人の私有財産権を著しく侵害するものであることは明らかだが、正当な補償もなされないまま、このような財産権の制限を設けることは、日本国憲法第29条第1項及び第3項に違反するのではないか。まず、条約や協定が憲法に抵触する場合いずれの法的効力が優越するかという問題があり、「条約優位説」「憲法優位説」という問題である。これについては、条約の成立自体が憲法に根拠をおくものであり、また、違憲の条約の存在は、国の法秩序の統一を欠くことになり、そのような違憲の条約に国内法の効力は認められない。つまり、日韓協定や請求権協定よりも日本国憲法の効力が優越するのは当然で、正当な補償も無いまま大韓民国国民の請求権をすべて消滅させるとした法律144号は憲法第29条違反である。

第3 日本国憲法と外国人の財産権の保障
 憲法による財産権の保障が外国人である大韓民国の国民にも及ぶのかということが次に問題となる。これについては、憲法による基本的人権の諸規定は、人権の性質上日本国民のみを対象としている条項を除いては、外国人にも等しくその保障が及ぶものと解するのが相当であり、経済的自由権についても、精神的自由権や人身の自由と同様、外国人にも同様に摘要されることに争いは無い。

第4 請求権協定における経済協力の法的性格
 請求権協定第1条に基づく経済協力は、実質的に日本国の大韓民国に対する戦後補償としての性質を有すると考えるのが自然である。問題として残るのは、法律144号によって、大韓民国国民の財産権を一定の例外を除いてすべて消滅させることができるかという点、仮にそうだとしても日本国憲法第29条第3項が要求する「正当な補償」がなされたといえるかということ。

第5 請求権協定。措置法と大韓民国国民の請求権
 国会での柳井条約局長やりとりにあるように、放棄されたのはあくまでも国の外交保護権であり、韓国国民が日本国と日本国民に対して持つ財産や債権等の請求権ではないということである。

第6 請求権協定に基づく経済協力と「正当な補償」
 請求権協定に基づき日本国から大韓民国政府に供与された経済協力のための資金は、限定的に戦争被害者への補償金として用いられた。しかし、それは全く不十分なものであり、完全な補償がなされたとは言いがたい。

【寄稿】李仁浩さんの話をきいて
          静岡県 竹内康人さん

 

高射砲部隊について語る竹内さん

 

 李さんは江原道春川郡出身の80歳。1944年9月に徴兵され、高射砲部隊の兵士として名古屋・岐阜各務ヶ原を経て浜名湖の弁天島へと連行されました。口頭弁論後、厚生労働省要請に行った後、囲むつどいでお話を聞きました。兵士としての体験談は貴重なものでした。さらに、兵士として徴兵されることになって家族に起こった悲しいできごとや、帰国すると勤めていた華川の金融組合が北側になり自宅は南側になっていて交通が禁止されたことなどが印象に残りました。分断により弁天島の部隊にいた4人の朝鮮人兵士のうち2人は北にいったといいます。地図でみると春川と華川との間に38度線があり、華川の北を分断線が通っています。朝鮮戦争時にはこの地域でも激しい戦闘がおこなわれ、おおくの死者がでたとみられます。話を聞いて日本の支配以後の春川地域の民衆の歴史についても学びたいと思いました。分断地域の民衆の歴史が多くの人々に共有され、南北の統一が進むことを願います。

名古屋空襲をおいかけて
愛知県瀬戸市の地下軍需工場跡フィールドワーク

 

案内していただいた村瀬さん

 

 名古屋に徴用された李仁浩さん。名古屋飛行場の調査を進めるうちに、航空機製造5位だった軍需工場・愛知航空機が1945年に激しい空襲で打撃を受け、隣接した瀬戸市に地下工場を移したことがわかりました。陶器で有名な瀬戸市は私の故郷。 5月3日、「瀬戸市地下軍需工場跡を保存する会」の事務局の村瀬紀生さんの案内によるフィールドワークが実現しました。

 90年から「保存する会」の努力で、「平和の小径」と名うたれた散歩道が整備されているのですが、正式に発見されたのが84年頃で、地下工場はコンクリートが使われているほんの入り口だけが丘陵に顔を出している状態です。5カ所、4キロにわたったこの地下工場の建設は、海軍設営部隊のもとで大倉組(現大成建設)が多くの朝鮮人労働者を使役して行いました。新規に造られた地下工場としては異例のスピードでできあがり、全国的にも珍しく実際に操業もされていたのです。瀬戸に移設されたのは名古屋永徳工場で、主に特攻機「彗星」の主翼部分が造られていたとのことです。

地下坑道を手掘りする仕事は朝鮮人労働者がさせらた

 
   

 瀬戸の山は陶土に適しているだけあって、砂礫層が風化して柔らかくもろいので、機械による掘削ができず手掘りをしたとのこと。地下坑道の手掘り作業は朝鮮人労働者がさせられました。また麓の小学校が宿舎に当てられていたことや、逃げ出さないように朝鮮人労働者には、白い民族衣装を着せていたことが、「保存する会」の活動で集められた証言集に掲載されています。山の尾根には地下工場に水を供給するための水槽も残っています。
 現在「保存する会」は、公園整備に伴ってこの貴重な戦跡が壊される可能性があることから、保存を瀬戸市に陳情しています。「平和の小径」の整備や、証言集の発行など「会」15年間の地道な努力に敬服しました。再び戦争犠牲者=「戦争遺跡」をつくらないためにも、侵略の事実を明らかにし、謝罪と補償を勝ち取るぞ!とグングン支援の決意も新たに、大阪に帰ってきました。村瀬紀生さん、どうもありがとうございました。 (小川)

平均年齢は83歳  「待てない!」

日韓のシベリア抑留者が国会前座り込み

 5月6日、日本の全抑協、シベリア抑留・未払い賃金問題立法解決推進会議の主催で4回目の国会前座り込みが行われました。この座り込みには、韓国からグングン原告4名が参加し、日韓のシベリア抑留者合同の座り込みとなりました。

 

李炳柱さん・国会前で

 

 抑留期間中の未払い賃金立法化を求める日本のシベリア抑留者の国会前座り込みは今回で4回目。以前から参加を希望していた韓国シベリア朔風会の李炳柱会長、李在變副会長、李柄洙さん、そして釜山からも朴定毅夫妻がかけつけ、座り込み行動に合流しました。
 決起集会では、寺内全抑協会長に続いて、李炳柱シベリア朔風会会長が挨拶。「昨年裁判所に提訴したが、日本のシベリア抑留者の皆さんと一緒になって頑張っていきたい」と発言。国会議員、全抑協各県からの決意を受けて座り込みに。平均年齢83歳の抑留者約50名の座り込みに並行して、全抑協と朔風会で衆議院副議長、参議院正副議長への要請行動。「あまり積極的な印象を受けなかった」(参加者)ものの立法化へ向け、一歩前進する取り組みでした。

日本政府は、被害者の死を待っているのか

 

釜山から来日した朴定毅さん

 

 翌7日は、午前中に厚生労働省で、李柄洙さんと朴定毅さんの軍歴等の確認を行いました。敗戦直前の李柄洙さんの軍歴は保管資料にないとの回答。しかし朴定毅さんについては軍歴、供託金とも確認することができました。
 午後、全抑協結成25周年記念シンポジウムが行われ、韓国シベリア朔風会からも祝辞がなされました。「韓国でシベリア抑留者が名乗り出ることができるようになったのは、ソ連にゴルバチョフが登場してから。91年に韓国シベリア朔風会も結成された」「全抑協にいろいろ助言、助力を頂いてここまでやってきたが、生存者はもう韓国への帰還者の5%にまでなった。もう長くはないが死ぬまで闘い抜く」と決意表明。シンポジウムには、国会議員と足立純夫浦和大学名誉教授・元防衛大学教授、広瀬善男明治学院大学名誉教授らの参加。全抑協の裁判の意見書も書いた足立名誉教授は「国家利益を優先し個人利益を副次的なものとする旧来の傾向は最近急速に修正されつつある」とし、シベリア抑留者の人権侵害 の速やかな救済を主張。また、広瀬名誉教授は「抑留期間中の未払い賃金の支払いは補償以前の問題。絶対に解決しなければならない」と訴えました。
 全抑協は、韓国シベリア朔風会の提訴を全面支援しています。立法化での国籍条項の撤廃が今求められています。裁判は、シベリア抑留原告の最後の闘う場です。グングンも全力をあげて取り組みます。ご支援を!

シベリア抑留者が描いたスケッチ

2005年キャンペーン4月企画
大阪城公園周辺フィールドワーク報告

 

講師の宮本さん

 

 4月3日は絶好のお花見日和。宮木謙吉さんを講師に「軍都大阪の裏面史を歩く」フィールドワークを開催しました。まず鵲森之宮神社(石柱に被弾のあとが残っている)で自己紹介し、大阪城公園内に移動。終戦当時の砲兵工廠図を見ると、市民の森や野球場、大阪城ホール一帯、環状線をはさんだ地域、そしてビジネスパークに広大な兵器工場群が立ち並んでいました。小さな町工場ぐらいのイメージしかなかったので、その広大な規模にたまげてしまいました。
 36万坪の敷地に6万人が、日本陸軍の大砲製造に従事していたのです。各工場は完全なる分業体制、監視体制が敷かれ、自由に工場内を行き来することは許されなかったそうです。資料では、朝鮮人徴用工は1319人(終戦時)と記されていました。廃墟の中から白骨が出てきたというのですが、一体どれくらいの方が生き延びてこられたのでしょうか。市立博物館は、近畿、中部の各師団を統括していた中部軍官区司令部でした。地下には、大規模な地下壕が掘られていたため、建物は地盤沈下しています。そのほか、以下のポイントを見て回りました。
  ・天守閣の角の石垣(1トン爆弾が命中)
  ・水管橋(大阪市が砲兵工廠に発注して作らせた最初の上水道)
  ・防空壕(天守閣の土台となる盛り土につくられているが、入り口は封鎖されている)
  ・石碑真心(耳のいい女性が、敵機の飛来を聞き取るための施設があった)
  ・大阪城ホールの裏にある石造りの水門(明治の創設の頃からあった荷揚げ門)

 
   

 最後に、環状線のガードをくぐり通称「アパッチ部落」とよばれた一画に立ち寄りました。当時住んでおられた方が今も何人かおられるそうですが、ガード下に残ったバラックに面影を残しています。近代的なビジネスパークと対照をなしています。かけあしで、各ポイントをまわったフィールドワークでしたが、明治以降大阪が軍都として機能、繁栄していたことが感覚として理解できました。70年万博、80年バブルによって多くの戦争の痕跡がブルドーザーで覆い隠されてしまったとは言え、まだまだ気をつけて観察すると当時を偲ばせるものが残っていることが確認できました。 (大幸)

2005年キャンペーン6月企画(関西)

国連・ILOは日本の戦後補償をどうみているか?

6月12日(土)18:30 エルおおさか
講師:前田 朗さん(日本造形大学教授)
内容:国連人権委員会報告・ILO闘争の現状


 読書案内
  『地中の廃墟から』
              
《大阪砲兵工廠》に見る日本人の20世紀
    
川村 直哉著  作品社  2200円+税

 のんびりと人々が散策する「大阪城公園」の地下には、アジア最大の兵器工場の廃墟が今も眠っています。46人の証言と研究資料を下に記された本書は、大阪砲兵工廠が陸軍の大砲生産の拠点となり侵略戦争を支えてきたことが具体的に語られ、「軍都大阪」が鮮やかに浮かび上がります。その軍都を狙った「大空襲」が幾多の市民の命を奪ったことを考えると、ジュネーブ条約の「無防備地域宣言」の意義を実感します。(大幸)
 


GUNGUNインフォメーション
9月10日(水) 関西GUNGUN原告を囲む集い(18時半 エル大阪)
 5月20〜23日 日本の過去清算を要求する国際連帯協議会(ソウル)
    26日
(水) 戦争被害者に謝罪と賠償を! 5・26アクション(東京)
        福岡地裁判決報告集会(18時半 文京区民センター)
    31日
(月) 2005年キャンペーン第5回相談会(報告:土屋公献弁護士)
 6月12日
(土) 国連・ILOは日本の戦後補償をどう見ているか(18:30エルおおさか)
    29日
(火) GUNGUN原告を囲むつどい(19時エルおおさか)
    30日
(水) GUNGUN裁判第13回口頭弁論(13時東京地裁710号)